【東京ローズ】第二次世界大戦に翻弄されたアイバ・戸栗・ダキノの数奇な運命
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年7月11日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、第二次世界大戦中、日本軍のプロパガンダ(宣伝)に利用された女性アナウンサー、『東京ローズ』の生涯にスポットを当てます。
今から約80年前の話ですので、その名前をご存じない方も当然いらっしゃると思います。
東京ローズはラジオ放送『ゼロ・アワー』のアナウンサーとして、連合国軍に向けたプロパガンダ放送を行っていました。
戦争が終わると、戦犯の疑いで巣鴨の刑務所に1年も収監され、アメリカに帰国してからは、更に国家反逆罪で刑務所に入らなければなりませんでした。
今回は、東京ローズが辿った数奇な運命を、スピリチュアル的にお伝えしたいと思います。
『東京ローズ』の生い立ちと数奇な運命の幕開け
アメリカ軍から『東京ローズ』という愛称で呼ばれた女性の本名は、アイバ・戸栗・ダキノ(アイバ・戸栗・郁子)です。
参考画像:Use War and Conflict Number 1308 when ordering a reproduction or requesting information about this image.
彼女は、日系2世のアメリカ人です。旧姓は、戸栗郁子(とぐり・いくこ)と言います。父は山梨県生まれの戸栗遵(とぐり・じゅん)、母はふみです。
父の戸栗遵は、山梨県出身で、1899年にアメリカに渡り、ロサンゼルスで輸入雑貨商を営んでいました。彼はシカゴ日系人会の初代会長だったそうです。
アイバは、1916年7月4日、アメリカ・ロサンゼルスで生まれました。発音的にはアイヴァ(Iva)の方が近いと思いますが、日本国内ではアイバと紹介される事が多いので、今回はそちらの表記で統一します。(イヴァと発音することもあります。)
アイバという名前は、『神から祝福を受けた者』という意味です。
日本で「幸」(さち)のつく名前の人が、必ずしも幸運にめぐまれないように、アイバも皮肉な人生を歩むことになります。
アイバの好奇心旺盛な少女時代
アイバが生まれた1916年は、日本の干支で言うと辰年(たつどし)にあたります。
一般的に辰年生まれは、明るい性格で頭が良く、好奇心が旺盛で行動力があり、情熱的かつ繊細な感受性を持ち、曲がったことが大嫌いという特徴があります。
アイバの少女時代にも、辰年生まれの長所が顕著に現れていました。その一例として、ガールスカウトの経験が挙げられます。その他にも、様々な訓練や奉仕活動に参加していました。
アイバの運命を変えた出来事
1939年9月、欧州で第2次世界大戦が始まりました。しかし、アメリカでは伝統的にモンロー主義(第5代大統領のジェームズ・モンローが唱えた孤立主義)が台頭していたので、当初はこの戦争に参加しない方針だったのです。
参考画像:Title: James Monroe Abstract/medium: 1 photomechanical print : halftone.
アイバは1940年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)を卒業後、大学院へと進みました。
1941年(昭和16年)7月、日本にいる叔母が重い病気にかかったという知らせを受け、彼女はお見舞いのために来日することになります。
アメリカを出国する際、彼女は身分証明書だけを持ち、仮パスポートを使って日本へと向かいました。
この決断が、後の自分の運命を左右することになるなど、アイバは夢にも思わなかったでしょう。
彼女が日本の地を踏みしめた時、この国はすでに軍国主義一色に塗りつぶされていました。
日米開戦によって更に混迷の一途を辿る世界情勢
1940年頃、日本と中国は、1937年の盧溝橋事件から始まった戦争が日増しに激化し、ついに日本軍は南京を占領しました。
中華民国政府の中心人物である蒋介石は、政府を重慶に移し、アメリカ・イギリス・ソ連に支援を要請しました。
参考画像:總統蔣中正著便裝肖像(贈送賓客常用玉照)
1940年9月23日、日本は、石油資源などの確保のため、南部仏領インドシナに軍隊を進めました。
この時、日本軍には「銀輪部隊」(ぎんりんぶたい)といって、自転車で移動する機械化部隊がありました。自転車で移動する部隊など、現代の戦争では考えられない光景です。もっとも、この時はフランスとの平和条約に基づく進駐であったので、戦闘はありませんでした。
しかし、タイ国におけるイギリス軍との戦闘では、舗装された道がなく自転車を担ぎながらの進軍となり、ぬかるみの多い道が自転車部隊の行く手を阻みました。
タイヤはすり減り、金属の輪のみとなり、ガチャガチャと騒音を立てながら進軍したので、イギリス軍は、「たくさんの戦車が向かってくる」と勘違いし、恐れたという逸話があります。
昭和17年2月15日、シンガポールを占領し、イギリス軍に勝利したことで、日本は沸き返りました。
日独伊三国同盟による弊害
1940年9月27日、日本はドイツ、イタリアとの間で軍事協定を結びました。いわゆる「日独伊三国同盟」です。
参考画像:Japanese Foreign Minister Yōsuke Matsuoka (1880–1946, left) visits Adolf Hitler.
この同盟により、アメリカ、イギリスに圧力をかけようとしたのですが、逆に相手の態度を硬化させる結果に繋がり、日本の外交にとっては大きな障害となってしまいました。
1941年7月になると、アメリカは日本企業の資産凍結を行い、日本に対する圧力を強めていったのです。さらに同年8月、石油の輸出禁止にまで踏み切りました。
日本の世論は、アメリカとの開戦論に強く傾いていきましたが、日本軍には石油の備蓄も少なく、戦争を継続する力がなかったといわれています。
米国に帰れなくなったアイバの憂鬱
「戦争がはじまるかもしれない。」直感的にそう悟ったアイバは、すぐに米国に戻ろうとしました。
1941年9月、彼女はパスポートを取得するために、在日米国副領事に出頭し、申請を行いました。しかし、アイバは米国市民権の証明書を持っていなかったので、パスポートの申請を拒否されてしまったのです。
彼女は、この時ほど憤りと孤独感を覚えたことはありませんでした。アメリカでは確かに人種差別がありましたが、アイバは大学も卒業し、大学院にまで進んでいたにも関わらず、このような憂き目に遭わされるとは思っていなかったのです。
アイバはアメリカで医師になるつもりでしたが、その夢はこの時点で断たれてしまいます。それどころか、彼女は在日副領事からアメリカ国民としての扱いを拒否されてしまったのです。
当時の日本は、どこもかしこも「鬼畜米英」や「撃滅米英」、「欲しがりません、勝つまでは」などという大政翼賛会のスローガンで溢れていました。
アメリカ人としてのアイデンティティを有するアイバが途方に暮れたことは、想像に難くありません。
真珠湾攻撃で反日感情が激化、日米開戦へ
そうこうしているうちに、遂に1941年12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、日本海軍によるハワイの真珠湾攻撃が始まってしまいました。
この時、日本の宣戦布告が遅れたことで、アメリカ国民から大きな非難を受けました。
ルーズベルト大統領は、これを日本による「だましうち」と非難し、「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)の合言葉のもと、アメリカ国民を結束させ、それまでの戦争不参加の政策方針を180度変えて、日本との戦争に本格突入しました。
参考画像:Portrait of President Franklin D. Roosevelt taken on June 20, 1936. by FDR Presidential Library & Museum is licensed under CC BY 2.0
この突然の日米開戦により、アイバはますます帰国できなくなりました。
アメリカ本土では、日系人に対する強制収容が始まり、両親はアリゾナ州の強制収容所に入れられることになりました。アイバの母親は、収容所に行く途中で病死しています。
アイバは、日本の特別高等警察(秘密警察)から監視を受け、何度も日本国籍へ帰化するように圧力を受けました。
しかし、彼女は負けませんでした。アメリカで生まれ、アメリカの教育を受け、アメリカの自由を愛する自分に誇りを持っていたのです。
アイバは日本人の血を受け継いではいましたが、心は根っからのアメリカ人だったので、日本への帰化を断り続けました。
彼女は敵性外国人と見做され、日本人が受けられる配給カードやその他の特権を拒否されてしまいました。
日本での生活と『東京ローズ』としての活動
アメリカに帰国できなくなったアイバは、日本で生活費を稼がなければなりませんでした。しかし、彼女は敵性外国人と見做されていましたので、一般企業に就職することは当然できません。
そんな中、オランダ人宣教師の紹介により、アイバは偶然にも同盟通信社で翻訳の仕事に就く事ができました。在日米国副領事から見放されても信仰を捨てなかったおかげで、結果的に仕事を見つけることができたのです。
驚いたことに、同盟通信社(共同通信社と時事通信社の前身)には、アイバと同じ境遇にあるアメリカ生まれの女性たちが30名以上働いていました。
太平洋戦争開始に伴い、外国のラジオ放送から情報を得たり、敵国から通信傍受した内容を日本語に翻訳するため、同盟通信社では英語の分かる女性職員を必要としていたのです。
当時の状況について、同盟通信社・外信部長の木下秀夫が、「文藝春秋」(71年12月号)に「陸軍中佐を女にする」と題して、次のようなエッセイを寄せています。
(東京空襲に備え愛宕山受信所の移転のために)川越傍受所の開設は、当時の逓信省と同盟の共同作業で行われ、逓信省からは十数人の無電技官、同盟からは外信部の翻訳係数人に、戦争中に踏みとどまった二世のお嬢さんがた30数人が、ここに勤務することとなった。(中略)
仕事はもちろん24時間態勢で行われたが、時差の関係で重要ニュースはほとんど全部真夜中に飛び込んできた。トルーマン大統領の原爆投下声明も、ポツダム宣言も、日本の降伏受諾が先方に届いた確認も、その第一報はすべてここでキャッチされた
「文藝春秋」(71年12月号)より
木下秀夫のエッセイ内で述べられているように、同盟通信社の主な仕事は外国の短波放送を傍受することでした。
後にアイバの夫となるフィリップ・ダキノも同盟通信社で仕事をしていました。不遇な環境で二人は知り合い、同棲生活を送るようになりました。
日本放送協会へ転職、チャールズ・カズンズ少佐との出会い
1942年(昭和17年)、愛宕山通信所の移転に伴い、アイバは日本放送協会の海外極米州部業務班に移りました。そして、タイピストの仕事をすることになりました。
アイバは日本放送協会で、オーストラリア人のチャールズ・カズンズ少佐と出会いました。
参考画像:A photo of Captain Charles Cousens who was later promoted to Major Charles Cousens, at the beginning his service in World War II.
カズンズ少佐は、日本軍がシンガポール侵攻を行った際に捕虜となった人物です。
オーストラリアでABC放送のアナウンサーをしていたことから、東京に移送され日本放送協会で働いていたのです。カズンズ少佐は、アイバにアナウンサーになるよう勧めました。
「この番組は、できるだけ退屈なものでいいんだよ。」とカズンズ少佐は言いました。
彼のアドバイスは、「日本軍に自分の魂を売り渡す必要はない」と暗にほのめかすものでした。彼女はこの言葉に心を動かされ、アナウンサーになることを決心したのです。
ラジオ番組『ゼロ・アワー』でアナウンサーとして活躍
1943年(昭和18年)11月より、アイバは対外宣伝ラジオ番組『ゼロ・アワー』で、アナウンサーとして活躍するようになりました。アイバの他に、アナウンサーは4~20名いたとされていますが、全員が『孤児のアン』と名乗っていました。
『ゼロ・アワー』の放送は、週6日、定期的にアメリカの音楽を流し、その合間に日本軍が捏造したニュースを挟みながら、1時間半にわたって放送されました。
その放送の中で実際にアイバが話をしたのは、15分~20分程度でした。
例えば、硫黄島の掃討作戦で従軍していたアメリカ艦隊の乗組員は、次のような放送を聞きました。
「ジス イズ ゼロ アワー フロム トウキョウ。親愛なるアメリカ軍の皆様、今日はいい日ですね。硫黄島攻略は、はかどっていますか? でも今日は何人の水兵さんが命を落としたことでしょうね。島には、まだたくさんの日本兵があなたたちを殺そうと待ち構えていますよ。」
ラジオ番組『ゼロ・アワー』の放送より
硫黄島の戦いは激戦として知られています。精神的に疲弊していたアメリカ軍の将兵にとっては、まさに絶望的な内容だったでしょう。
しかし、ラジオから聞こえてくる女性アナウンサーのハスキーな声には、なぜか深刻さがなく、不思議なことに笑いを誘うような親しみのある声として認識されていました。
戦地に赴く者にとって、「死」に対する恐怖心は常につきまとうものですが、ジャズの軽快なメロディーの合間に、緊迫感の無い明るい声で、このようなことを言われてしまうと、滑稽さから笑みが込み上げてくるのかもしれません。
『東京ローズ』と呼ばれるようになったアイバ
最終的に、硫黄島ではアメリカの将兵約7千名が死亡し、約2万2千名が負傷しました。日本の将兵の死者は約2万名に上りました。当時の記録映画を見ると、激しい戦闘であったことがよくわかります。
参考画像:Flag Raising on Iwo Jima.
『ゼロ・アワー』に出演した女性アナウンサーは一人ではありませんでしたが、当時の短波放送は音の感度が悪かったので、アメリカ軍将兵の耳には声を区別することができず、一人のアナウンサーが放送を全て担当していると思われていました。
アメリカ軍兵士は、『ゼロ・アワー』のアナウンサーにある種の親しみを込め、『東京ローズ』と呼ぶようになりました。
終戦後、『東京ローズ』は、アイバ・戸栗・ダキノということになってしまいましたが、実際には、彼女がアナウンサーになる前から『ゼロ・アワー』に出演するアナウンサーは『東京ローズ』の愛称で知られていました。
終戦間際の1945年(昭和20年)7月、アイバは同棲関係にあった日系ポルトガル人の同盟通信社員、フィリップ・ダキノと結婚しました。彼女の名前にダキノが付いているのは、フィリップと結婚したからです。
軍国主義化した日本での生活において、疎外感に苦しみながらもお互いに支え合うことで、唯一自由な生活空間を作ることができたのではないでしょうか。
第二次世界大戦が終結。そして新たな悲劇へ
1945年8月、多くの人々が犠牲となった第二次世界大戦はようやく終わりを迎えました。しかし、終戦はアイバにとって、新たな悲劇の始まりでもあったのです。
帰国した大勢のアメリカ兵の間で、「東京ローズは、いったい誰だったんだ」という声がいっせいに上がり始めました。
その疑問に応えるために、アメリカから多くの記者が日本に派遣され、調査を開始しました。
そして、コスモポリタン誌の記者、ハリー・ブランディッジと、インターナショナル・ニュース・サービスの記者、クラーク・リーが、ついにアイバ・戸栗・ダキノを発見したのです。
二人の記者は、彼女と2000ドル(当時の日本円で600万円ぐらいの価値)で独占取材契約を結びました。彼らはアイバ・戸栗・ダキノと夫を帝国ホテルに隠しました。
この時、アイバはアメリカの国民から自分が注目されているということを知り、驚きと喜びを感じていました。そして、事実を誇張した証言を行ってしまったのです。
「私が、本物の東京ローズよ」
前述した通り、『ゼロ・アワー』のアナウンサーは彼女一人ではありませんでした。しかし、カメラの前で、自分が『東京ローズ』であると公言してしまったのです。
戦犯として刑務所に収監されるアイバ
『東京ローズ』の正体を聞きつけた記者たちは、アイバのもとに殺到したといいます。独占取材は打ち破られ、たくさんの記者から取材を受けてしまい、その結果、2000ドルの支払いはキャンセルされてしまいました。
その後、アイバはGHQに呼び出され、記録映画が撮られました。
GHQとは、連合国最高司令官総司令部のことです。当時は進駐軍、または、占領軍と呼ばれていました。
一躍有名人となったアイバですが、自分が『東京ローズ』であると名乗り出た事によって、高い代償を支払う羽目になりました。
彼女に対し、米国内で「反逆者」という意見が出始め、ついにGHQは、彼女を戦犯として巣鴨プリズン(刑務所)に収監したのです。
参考画像:Iva Ikuko Toguri D’Aquino; originally a mug shot, taken at Sugamo Prison on March 7, 1946.
その後の取り調べで、アメリカが懸念する秘密情報の流出は確認されず、『ゼロ・アワー』はアメリカ将兵の戦意を喪失させるような内容の放送ではなかったと判断されました。
そして、アイバは1年後に巣鴨プリズンから釈放されました。
反逆罪で有罪判決。そして、市民権のはく奪へ
ここまでは、なんとか破滅的な結果を回避できたアイバでしたが、さらなる不運に見舞われます。
アイバが「アメリカ本土に戻りたい」という意向を示したところ、アメリカ本土で彼女に対する反感が一気に高まりました。
特に、ゴシップ記事のコラムニストとして有名なウォルター・ウィンチェルによる攻撃はすさまじく、彼の意見に賛同する多くの人々によって、アイバを反逆罪で裁判にかけるための運動が盛んになりました。
参考画像:Publicity photo of Walter Winchell from his short-lived ABC Television variety program.
そのため、彼女は1948年に日本でFBIによって再逮捕となり、裁判を受けるためにアメリカに帰国させられました。
1948年9月、サンフランシスコの連邦検事は、サンフランシスコ連邦裁判所で大陪審を招集し、彼女を起訴しました。裁判は1949年7月5日に始まり、3か月続きました。
1949年、彼女の裁判は、総費用50万ドル(約7億円)というアメリカ史上最大の裁判となりました。
15件の反逆罪のうち、1件が有罪と認定され、その結果、アイバには懲役10年と罰金1万ドル、そして、アメリカの市民権はく奪という厳しい判決が言い渡されました。
『東京ローズ』と同じ刑務所ですごした『枢軸サリー』
アイバが収監されたウェストバージニア州の刑務所に、偶然にも同じような境遇で逮捕された『枢軸サリー』がいました。
参考画像:Cropped mugshot of Mildred Gillars (née Sisk), a/k/a “Axis Sally”.
『枢軸サリー』の本名は、ミルドレッド・エリザベス・シスク(Mildred Elizabeth Sisk)で、アメリカのメイン州ポートランド出身です。
ミルドレッドは、女優を目指してオハイオ・ウェスリアン大学で演劇に没頭しました。しかし、残念ながら女優としては芽が出ませんでした。
夢破れた彼女はドイツのベルリンへと向かい、外国語学校で英語教師を務めました。そのことがきっかけとなり、ドイツのベルリン放送に採用され、ナチス政権が崩壊するまで、アナウンサーとして宣伝活動に従事しました。彼女の官能的な声は、連合軍の中でも有名だったそうです。
彼女の有名な放送として、D-Day(戦略上、極めて重要な作戦開始日時)と呼ばれるノルマンディー上陸作戦の前に放送されたラジオドラマがあります。
これは、イギリス海峡の戦闘で息子が戦死する夢を見たアメリカ人の母親を描いたものです。もともと女優志望だったということもあり、彼女の演技は真に迫ったものでした。
「The D of D-Day stands for doom・・・disaster・・・death・・・defeat・・・Dunkerque or Dieppe.」
『枢軸サリー』のラジオドラマより
(D-DayのD、それは運命、災難、死、敗北、ダンケルク、そしてディエップ)
その他にも、前線の兵士に向け、祖国の恋人が不貞を働くかもしれないと語り掛け、兵士の心を動揺させることに成功したとされています。
また、捕虜となった傷病兵のインタビューを通じ、ナチスの庇護下での「快適な日常」を宣伝していました。
終戦後、『枢軸サリー』は逮捕され、1948年にアメリカに送還されました。そして、彼女は反逆罪で起訴されました。彼女の裁判はたったの6週間で結審し、懲役10年~30年という重い判決を受けました。
その後、1959年に仮釈放が可能となりましたが、更に2年を経てから釈放されました。その後は、オハイオ州コロンバスのカトリック校で幼稚園児に音楽を教えながら、1973年にもう一度オハイオ・ウェスリアン大学に復学しました。
1988年6月25日に老衰のため死去。享年87歳でした。
晩年にようやく名誉を回復したアイバ・戸栗・ダキノ
アイバは自分の運命を受け入れ、刑務所で模範囚となりました。その結果、刑期が短縮され、6年2か月でようやく釈放されました。
『東京ローズ』が断罪された当時のアメリカは、人種差別が合憲とされていた時代でした。しかも、裁判の陪審員は全員白人であり、差別意識が高かったと言えます。
1970年代になって、日系アメリカ人市民同盟や在郷軍人たちによる支援活動が実り、ようやくアイバ・戸栗・ダキノの有罪判決が疑問視されるようになりました。
1976年、裁判の証人だった日本放送協会の元上司二人が「証言は事実ではなく、FBIに強制的に証言させられた」と告白した記事を、アメリカ人の日本特派員がスクープしました。
それでも彼女の市民権は「はく奪されたまま」であり、苦労を強いられました。3度にわたって嘆願書を提出した結果、1977年にフォード大統領の特赦を得ることに成功し、30年余りの時を経て、アイバはアメリカの市民権を取り戻したのです。
その後はシカゴに転居し、父が創業した輸入雑貨店「戸栗商店」(J. Toguri Mercantile Co.)で晩年まで働きました。
2006年1月、アイバは困難な時も米国籍を捨てようとしなかった『愛国市民』として、退役軍人会から表彰を受けました。
その年の9月26日、アイバは脳卒中のため、90歳の生涯を終えました。
晩年にようやく名誉が回復されたことによって、彼女は心安らかに天に召されたのではないでしょうか。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
東洋のマタ・ハリ、川島芳子の故国再興に夢をかけた生涯
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「戦時中、プロパガンダ(宣伝)に利用された『東京ローズ』の不運な生涯」は如何でしたでしょうか?
東京ローズとされた彼女は、戦後はアメリカ政府から反逆罪で告発されました。有罪判決を受け服役もしました。彼女に罪はありませんでしたが、当時の反日感情や人種差別から、悲劇の運命となりました。
彼女の他にも東京ローズは常時、数名いたのですが、名乗り出る人がいなかったようです。
その後の調査で、甘い声の質を持った日系カナダ人のジェーン須山という女性がいました。彼女が、本当の「東京ローズ」ではなかったか、という噂もありましたが、カナダ人であったので、アメリカのFBIには逮捕権がありませんでした。
しかし、彼女は1949年7月18日、横浜でアメリカ兵の運転する車に轢かれて死亡してしまいました。
あまりにも突然な彼女の死は、偶然にしては出来すぎていた事故であったため、アメリカの情報調整局(OCOI)による暗殺ではなかったのかという疑問を残した事件でした。
アイバは、暗殺こそされませんでしたが、彼女の名誉が回復されるまで、30年あまりの長い期間がかかりました。
しかし、彼女はそれに耐える気丈な性格を持っていました。彼女の強い忍耐力は誰にも真似ができないものだと思います。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性40代
多聞先生、この度も鑑定ありがとうございます。
私は前世にたよりすぎているかも、と思っていましたが、先生のおかげで大丈夫なのだと安心できました、ほんとうにありがとうございました。
以前みていただいた彼女の姿、はっきりと眼裏に思いうかびます。
ほんとうに、心も姿も美しい人ですね。
先生、かの人の人生が私にもたらしてくれたモノ、大きいです。
無理に忘れようとは、もう思いません。
どうも有り難うございました。