悲劇のヒロイン淀殿の波乱万丈の生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年5月17日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、「悲劇のヒロイン淀殿が歩んだ波乱万丈の人生」についてお話します。
淀殿は後世において、あまり良い評価が与えられず、「悪女のひとり」とされています。
「悪女」と呼ばれる原因となった事柄はいくつかありますが、前回のコラムでご紹介した瀬名姫しかり、多くは徳川家との関係性において、不名誉な烙印を押される事になってしまいました。
彼女に対する妬みや嫉妬もあるかもしれませんが、「徳川家にとって、淀殿が悪女でないと困る。そうでないと、豊臣家を滅ぼした理由がなくなる」というような背景事情がありました。
それでは、これより淀殿の人物像を紐解きながら、徳川家の犠牲となった一人の女性としての悲しい物語を、スピリチュアル的にお伝えしたいと思います。
淀殿のおいたちと流転の人生
淀殿について語る際、どうしても<「織田信長」(おだ のぶなが)を抜きにしては話を進めることができません。
なぜなら、淀殿の母親は、織田信長の妹の「お市」だからです。お市は大変な美人だったと言われています。
お市が浅井長政の妻となる
お市は、織田信長の妹ですが、1567年(永禄10年)頃、政略結婚のため、隣の国の「浅井長政」(あざいながまさ)に嫁ぎました。浅井長政も当代きっての美男子と言われた武士でした。
この婚姻によって、織田家と浅井家の同盟が成立し、織田信長は美濃を攻略することができました。
さらに浅井長政の天敵である六角氏を攻撃して、南近江の甲賀郡まで後退させることに成功しました。
この同盟は、両者にとって有益なものとなりました。浅井長政とお市の方は、政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったと言われています。
「茶々」の誕生
浅井長政とお市の間には、3人の娘が生まれました。
長女の「茶々」(ちゃちゃ、後の淀殿)は、1569年(永禄12年)に生まれました。
3姉妹の中では、茶々が母親の面影を最も強く受け継いでいたとも伝えられています。彼女は後に豊臣秀吉の側室となり、「淀殿」と呼ばれるようになりました。
次女の「初」(はつ、後の常高院)は、1570年(永禄13年)に生まれました。後に「京極高次」(きょうごくたかつぐ)に嫁ぎました。
京極高次とお初は「いとこ同士」でもあり、当時としては珍しく「恋愛結婚」だったのではないかとも言われています。
三女の「江」(ごう、後の嵩源院)は、1573年(天正元年)に生まれました。呼び名は「江与」(えよ)としても知られています。
後にお江は、淀殿と因縁深い関係となる「徳川秀忠」(とくがわ ひでただ)の正室となりました。
足利義昭と朝倉家
子宝にも恵まれ、順風満帆な人生を送っていた浅井長政ですが、その後、運命を一転させるような事件が起きてしまいます。
室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかが よしてる)が、1565年(永禄8年)に「永禄の変」で殺されてしまったのです。そのため、「足利義栄」(あしかが よしひで)が14代将軍となりました。
この動きを快く思わなかったのが、義輝の異母弟である「足利義昭」(あしかが よしあき)です。
当時は仏門にいて「覚慶」(かくけい)と名乗っていましたが、兄が殺されたことによって彼もまた、将軍職を狙える立場になったのです。そこで、当時、越前一帯を支配していた朝倉家の庇護を受けて、「義昭」と改名しました。
義昭は上洛をして、将軍職を朝廷から認めてもらおうと、「朝倉義景」(あさくら よしかげ)に働きかけますが、朝倉義景は、長期に渡って越前の国を離れることを不安に思い、なかなか動こうとはしませんでした。
その結果、業を煮やした足利義昭は朝倉家に頼ることを諦め、当時勢いを増していた織田信長の力を借りるしかないと考えたのです。
織田信長は義昭の願いを聞き入れ、上洛を実現させました。その結果、義昭はなんとか15代将軍となることに成功しました。
14代の義栄は、京都から追われ阿波へと逃れていきましたが、持病が悪化して阿波で亡くなりました。
織田信長も信じられなかった浅井長政の裏切り
その後、当然の結果ですが、織田家と朝倉家の対立が深まりました。1570年に両者の戦いが始まり、朝倉義景は、織田・徳川軍に攻められて、窮地に追い込まれました。
何とそこへ、浅井長政が朝倉家の援軍として、急遽、戦いに参入してきたのです。
さすがの織田信長も、この展開には驚きを隠せず「何かの間違いではないのか」と言ったそうですが、ひとまずは京都に逃げ込むことにしました。
浅井長政の裏切りについては、戦国史の謎とされていますが、後に書物としてまとめられた「浅井三代記」によれば、浅井氏が六角氏との死闘を繰り広げていた際に、「朝倉教景」(あさくら のりかげ)が援軍に駆け付けたとされています。
さらに、長政がお市と結婚する際、「朝倉家は疎略にしない」という約束を、信長と交わしていたとの記述もあり、この約束が守られなかった事で、浅井長政が織田信長を見限ったのではないかとする説もあります。
姉川の戦いから小谷城の陥落まで
そして遂に、織田・徳川軍と朝倉・浅井軍は姉川で激突しました。これが有名な「姉川(あねがわ)の戦い」です。
1573年、信長は3万の軍勢を率いて、朝倉義景を攻めることになりました。追い詰められた朝倉義景は「賢松寺」という寺まで逃げましたが、その寺の住職に見放され、信長に通報されてしまいます。
信長は200騎を向けて賢松寺の襲撃を行いました。逃げ場を失った義景は、ついに自刃するほかはありませんでした。
一方、浅井長政もまた、信長の進軍によって追い詰められ、ついに本拠地の小谷城(おだにじょう)に逃げ込みます。
信長は「木下藤吉郎」(きのした とうきちろう、後の豊臣秀吉)を使者として、降伏を勧めましたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂しました。冷血と評されることもある織田信長ですが、浅井長政のことはなんとかして救いたかったのでしょう。
結局、浅井長政は自害し、小谷城が陥落する前に、お市の方と茶々をはじめとする3姉妹は、「藤掛永勝」(ふじかけ ながかつ)によって救出され、織田家に引き渡されました。
お市の方と3姉妹の放浪の始まり
命からがら窮地を脱したお市の方と3姉妹ですが、織田家での生活も長くは続きませんでした。
織田信長が「本能寺の変」(1582年)で「明智光秀」(あけち みつひで)の謀反により、突然の攻撃を受けたのです。
信長を守る軍勢は全くなく、たちまちのうちに追い詰められ、信長は寺に火をかけて自刃してしまいました。遺骸は見つかっておらず、もしかしたら生き延びたのではないかという噂もあります。
信長の死後、お市の方は「柴田勝家」(しばた かついえ)と再婚しました。お市の方は3人の娘と共に、「ようやく安心できる場所が得られた」と思ったかもしれません。しかし、それも束の間の安息でした。
その翌年の1583年、柴田勝家は、「羽柴秀吉」(はしば ひでよし、後の豊臣秀吉)と対立し、賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで敗れてしまったのです。勝家は越前北ノ庄城に引き上げました。秀吉は、城を包囲して激しく攻めたてました。
勝家は、もはやこれまでと覚悟を決め、お市の方をはじめとする一族80名余りと酒宴を催し、今生の別れをしたうえで、自害しました。
勝家とともに自害したお市の方の辞世の句があります。
「さらぬだに 打ぬるほども 夏の夜の 夢路をさそう ほととぎすかな」
(今、死のうとしているのだけれども、たとえ、そうでないとしても、夏の夜なので、もうそろそろ眠りに入り、幸せな夢でも見る時間ですよと告げるように、ほととぎすの鳴き声が、悲しく聞こえてきます) お市の方の辞世の句
勝家もお市の方の辞世の句に歌を返しています。
「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ ほととぎす」
(人生は夏の夜の夢のように短くはかないけれども、私の名を、天高くあげてほしい、ほととぎすよ) 柴田勝家の返歌
苦難の末、茶々が秀吉の側室になる
「お市の娘まで自害させるわけにはいかない」と考えた勝家は、3姉妹を「富永新六郎」という武士に預けて、秀吉のもとへ届けさせました。
その後、「茶々」は、1588年頃、秀吉の側室になりました。そして、1589年、鶴松という男子を産みました。このことを大変喜んだ秀吉は、「茶々」に山城淀城を与えました。
そのため、「茶々」は以後、「淀の方」あるいは「淀殿」と呼ばれるようになりました。
残念ながら鶴松は、1591年に病死しました。そして、1593年に淀殿は秀頼を産みました。
秀頼は本当は誰の子か?
「秀頼は秀吉の本当の子ではない」このような噂がどこからともなく広がり、現在に至るまで数々の議論が行われています。
その噂の根拠として、豊臣秀吉は、正室の「おね」との間に一人も子を授からなかったという事実があります。その他にも秀吉には16人の側室がいましたが、誰一人として秀吉の子供を産むことはありませんでした。
ライバル関係にいた側室の京極龍子は、秀吉の側室になる前に、結婚相手との間に3人の子供がいました。
また秀吉は、別の側室を伊達家の家臣に与え、その側室が伊達政宗の側室になってからは2人の子供を産んでいるという事実から、豊臣秀吉は子供ができない体質だったのではないかとも噂されているのです。
秀頼の父親とされる人物
秀頼の父親として、よく名前が挙げられる人物は3人います。
一人目は「石田三成(いしだ みつなり)」です。秀吉に小姓として仕えてからずっと、側近として勤め上げた人物です。
石田三成は、曲がったことが大嫌いな潔癖症です。性格的に、淀殿との関係はあり得ないとみて良いのではないでしょうか。しかも、石田三成は朝鮮征伐に出かけており、大阪にはいませんでした。
二人目は「片桐且元(かたぎり かつもと)」です。武勇の人であり、賤ケ岳七本槍の一人と言われるくらい戦争で功績のあった人です。彼も朝鮮征伐のために大阪にはいませんでした。
こうしたことから、秀頼の父親としてはやはり可能性が低いと言わざるをえません。
そして、三人目は「大野治長(おおのはるなが)」です。今回名前を挙げた三人の中で、あえて一人を選ぶとするならば、秀頼の父親は大野治長という説がもっとも有力であると言えるでしょう。
大野治長が秀頼の父親である可能性が高い理由
大野治長と淀殿は、とても強い縁がありました。なぜなら、大野治長の母は、もともと茶々(淀殿)の乳母だったからです。
ですから、淀殿にとって大野治長は、一番信頼のおける親族にも近い関係でした。年齢も同年代と言われています。小さい時から、顔見知りでもあるので、幼友達のような感覚で接していたのではないでしょうか。
大野治長は1592年、文禄の役(ぶんろくのえき)の際、秀吉に従い九州の名護屋城に配置されました。
この時、秀吉は淀殿やその他の側室を連れていきました。その甲斐あって、翌年に秀頼を産んだのでした。
秀吉の死で家康の野望が激しさを増す
1598年、朝鮮出兵に意欲を燃やした豊臣秀吉は、病によってこの世を去りました。遺言として、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家を5大老にしました。
遺言には、徳川家康を伏見城に置いて、関東には下向させないことも書かれていました。家康を江戸に返せば、反乱のもとになると心配したからでしょう。
そして、もっとも印象的なのは、家康に当時6歳の秀頼を支えてほしいと懇願したことです。秀頼の本当の父親と噂される大野治長は、秀吉の死後、秀頼の側近となりました。
秀吉としては、家康の動きを封じた事で、豊臣家は安泰であると高を括っていたかもしれません。そのような中、またもや重大事件が起きました。
家康の暗殺計画が発覚
1599年、徳川家康は、菊の節句でもある「重陽(ちょうよう)の賀」のために大阪城に登城しました。
その時、五奉行の一人である増田長盛が、家康暗殺計画があると密告したのです。
首謀者として名前が挙がったのは、前田利家、浅野長政、土方雄久、土方治長です。彼らが共謀して、家康を暗殺する計画を企てているというのです。
家康は、身辺の警護を厳重にして、祝賀を終えるとすぐに大阪城・西の丸に入り、天守閣を造営し、自らが秀頼に並ぶ存在であることを天下に知らしめました。
しかし、そもそもこの騒動は、家康がわざと仕組んだ計略ではないかと言われています。
首謀者の一人とされた前田利家は、天下に野心など持たない秀吉の旧友でもあります。さらに、前田利家は秀吉の遺言を守って秀頼を補佐することに専念しています。家康を暗殺しても何の得もありません。
だからこそ、家康からしてみれば、前田利家は一番邪魔な存在だったのです。前田利家さえ排除すれば、後の3人は何とかなると思っていたのではないでしょうか。
暗殺計画の顛末
暗殺計画の主謀者とされた諸将の処分ですが、浅野長政は隠居、大野治長は下総に蟄居、土方雄久は常陸水戸に流罪となりました。
そして、暗殺計画の嫌疑をかけられて間もなく、前田利家は病によってこの世を去りました。
暗殺計画の実行役は、「渡辺 糺(わたなべ ただす)」という主戦派の代表者でした。そのことを事前に察知した板倉勝重によって捕らえられた渡辺糺は、「母の一生のために金子百両で暗殺者となり、命をささげることにした」と弁解しました。
板倉勝重は、親孝行のためにという主張を受け入れ、渡辺糺を牢獄に入れるだけで済ましたというのですが、事の重大性を考えれば、ずいぶんと甘い処置ではないでしょうか。
兎も角、次々と豊臣家の重臣たちの切り崩しを図る家康の計略はうまく進んでいきました。
関ヶ原の戦いで西軍の敗北
豊臣秀吉の死後、大阪城では、豊臣政権の維持を目指す石田三成が実権をにぎり、徳川家康と対立関係になりました。
1600年、石田三成を中心とした勢力(西軍)と、徳川家康を中心とした勢力(東軍)が、関ヶ原で天下分け目の合戦を行いました。
東軍は徳川家康を総大将として、福島正則・黒田長政らを率い、一方の西軍は、毛利輝元を総大将として、宇喜多秀家・石田三成らが中心となって戦いました。結果は、東軍の勝利となりました。
1600年に関ヶ原の戦いで、石田三成らの西軍が敗れ、家康は完全に実権を握ることに成功しました。
戦いに敗れた三成は春日山に逃れ、その後姉川に出て逃走を続けましたが、遂に徳川軍に捕縛されてしまいました。そして家康の命令で、六条河原で斬首されました。享年41歳でした。
家康が征夷大将軍に就任
1603年に家康は、伏見城で征夷大将軍に就任し、徳川幕府の政治体制を強化していきました。
また、1603年には、徳川秀忠の娘の千姫(7歳)が、秀吉の遺言に基づき豊臣秀頼(11歳)の妻として輿入れしました。
この婚礼は、淀殿とお江が取り仕切って日程を決めました。久々に会う姉妹の心には、どんな思いが浮かんだのでしょうか。
淀殿にとってお江は、文字通り苦楽を共にした肉親です。同時に、対立関係にある徳川秀忠の正室という存在でもあります。淀殿の心は愛憎が渦巻き、複雑な思いであったことでしょう。
淀殿は、秀頼に千姫が嫁ぐことで、秀頼の地位は安泰になると信じたかったかもしれません。秀頼が関白になれば、家康よりも高い地位になり、秀頼が天下人になることが実現します。
ところが、そんな淀殿の神経を逆撫でするような事件がまたもや起きてしまいます。
家康のずうずうしい振る舞い
1605年に、徳川秀忠が16万の軍勢を従えて上洛しました。その時、家康は将軍職を秀忠に譲り、徳川幕府が世襲して政権を維持することを内外に示したのです。
その際、家康は秀頼に対して、臣下の礼を取るよう要求しました。それを聞いた淀殿は烈火のごとく怒り、要求を拒絶しました。
家康は、「いやいや、そのような大げさなことではございませぬ」と、松平忠輝を使者にたて説得に当たらせましたが、話し合いは平行線に終わりました。
当時、秀頼は朝廷から「右大臣」の位を任命されていました。秀忠は、征夷大将軍ではあるものの、官位は正二位内大臣でしたので、秀頼の方が上位です。当然、臣下の礼をとることはできません。
礼節をわきまえない家康の振る舞いに、淀殿が怒るのは当然のことだったでしょう。
「まったく、家康とはずうずうしい。太閤殿下が亡き後、この天下を我が物しようと企んでいるのが見え見えではないか」淀殿はこのように考えたのではないでしょうか。
孤立を深める豊臣家
1611年、家康は上洛した折に、二条城で秀頼と会見を要請しました。初めは秀頼(19歳)も断り続けました。
しかし、関ヶ原で西軍が敗北した後ですので、加藤清正や浅野幸長など豊臣家の旧家臣らは、秀頼の将来を心配し、淀殿に会いました。
彼らは、「淀殿、ここで家康と再び喧嘩にならないようにしてくだされ、家康に戦いの口実を与えれば、家康の思い通り、戦いとなります。それだけはさせないように」と説得しました。その結果、淀殿も仕方なく会見を了承しました。
その後、1611年以降、浅野長政(65歳)・堀尾義晴(69歳)、加藤清正(50歳)・池田輝政(50歳)・浅野幸長(38歳)・前田利長(53歳)らの旧豊臣家家臣が相次いで亡くなってしまい、ますます豊臣家は孤立を深めていきました。
大坂冬の陣
とうに我慢の限界を超えていた淀殿は、徳川家康との戦いを強く意識するようになりました。
そして、大阪城に多くの浪人たちを集め始めたのです。その結果、豊臣家に集まった軍勢は10万人を超えました。
しかし、淀殿は家康とどのように戦えば良いのか、戦術までは分かりません。
豊臣家内部では、籠城派と主戦派との対立が生まれてしまいました。主戦派は、奇襲などを行い家康の首さえとれば、戦いは終わるという主張をしましたが、すでに勇猛な旧家臣の武将たちは、この世を去っていました。
結局、籠城派の意見が通り、大阪城に籠城する政策がとられることになりましたが、その選択が失敗の原因となってしまったのです。こうして、「大坂冬の陣」が始まりました。
徳川軍は、総勢20万の軍勢で大阪城を囲みました。鉄砲や大砲を使い、大阪城には多くの弾丸や砲弾が撃ち込まれました。
結局、豊臣側は砲弾や食料が不足し、徳川軍との和議に応じることになりました。
その際、徳川軍は和議の条件として、大阪城の本丸を残し、二の丸・三の丸を破壊すること、さらには、南堀・西堀・東堀を埋めることや、淀殿を人質としない代わりに、大野治長・織田有楽斎から人質を出すことなどを要求しました。
その引き換えに、秀頼の身の安全と本領を安堵することや、常駐庶士については不問とすることが決まったのです。
2度の大坂の陣で壊滅的な終局へ
1607年、豊臣秀頼は、家臣の片桐且元を奉行として、方広寺の大仏や大仏殿の再建を命じました。
しかし、ここでまたもや家康の嫌がらせがありました。
方広寺鐘銘事件
1614年、方広寺の再建に際して、お寺に納める梵鐘の銘文をめぐり、徳川家からクレームが入りました。
梵鐘に刻まれた「国家安康」という文言と、「君臣豊楽」という文言が問題視されたのです。
「国家安康」は、家康を二つに分断しているので許しがたく、「君臣豊楽」には豊臣を君主として楽しむという意味が込められており、徳川家に反抗する内容だと言い掛かりをつけてきたのです。
家老の片桐且元は、弁明のために家康に会いに行きましたが、面会は許されませんでした。そこで、大野治長の母の大蔵卿局が出向いたところ、家康は機嫌よく会うという極端な態度をとりました。
これでは、家老としての片桐且元のメンツは丸つぶれです。しかも、豊臣家内部では、片桐且元は家康と内通しているという噂まで広がりました。これも家康の策略です。
内部分裂を起こさせて豊臣家を弱体化させようとする魂胆でした。
そして大坂夏の陣へ
鐘銘事件の解決策として、家康から豊臣家に厳しい条件が示されました。
その条件を大まかにまとめると、以下のような内容です。
家康から示された条件
- 秀頼を江戸に参勤させる。
- 淀殿を人質として江戸に置く。
- 秀頼が国替えに応じ大阪城を退去する。
この条件を聞いた淀殿は、またもや激昂したと言われています。淀殿は、そのような条件を受け入れることはできないと、強硬に反対しました。
しかも、片桐且元は豊臣家の家臣から家康に内通しているのではないかと疑われ、暗殺されそうになりました。秀頼が仲裁に入り、且元は家老職を辞めて大阪城を去ることになりました。
徳川家との交渉は打ち切られ、戦いが間近にせまることが必至となりました。豊臣側の重臣でもある織田信雄・織田信則・石川定政などは、「これ以上は豊臣家も続かない」と判断して、大阪城から退去しました。
こうして、「大坂夏の陣」が開始されることになってしまったのです。
大坂の陣は、1614年~1615年に、徳川家康と豊臣家との間で行われた合戦です。大阪冬の陣(1614年)と大阪夏の陣(1615年)の2回にわたって戦火が交えられました。
大阪城の落城と淀殿の最期
いよいよ大阪夏の陣に向けて徳川軍の集結が始まりました。豊臣家も必死に浪人衆をかき集めましたが、それでも戦力は7万8千人がやっとでした。15万の軍勢を従える徳川軍とは勝負になるはずもありません。
さらには、家康の策略で大坂城の外堀・内堀を埋められてしまいました。籠城戦では勝ち目がないということで、総大将の首をとるための野戦に方針が変わりました。
大阪城が堅固なうちに、ゲリラ戦法などによって相手陣営をかき乱しながら、徐々に徳川軍の勢力を減じていけば、もともと戦いを望まない他の武将たちの離反を誘う可能性もありました。しかし、取るべき戦術が全く逆になってしまったのです。
各所で豊臣軍は善戦したものの、徳川軍の軍勢の多さにしだいに押され、最終的には大阪城に立てこもることになりました。
悪いことには、内部から寝返りが出て城の大台所から出火し、大阪城は火の海となってしまいます。大野治長は千姫を脱出させ、秀頼と淀殿の助命嘆願を行いましたが、秀忠に拒否されてしまいました。
そしてついに、淀殿と秀頼は燃え盛る大阪城内で自刃し、無念の思いと共に炎の中に消えていったのです。
遺骸は見つかっておらず、一説によれば九州に逃れたともいわれています。
もし、その噂が真実であるとするならば、淀殿が残りの人生で幸せを手にし、心穏やかに生涯の幕を閉じたと思いたいものです。
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悲劇のヒロイン瀬名姫の悲しみに満ちた人生
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「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「悲劇のヒロイン淀殿の波乱万丈の生涯」は如何でしたでしょうか?
信長の血を受け継ぐ淀君は、秀吉に大事にされましたが、家康にとっては邪魔な存在となりました。大阪城が落城するまで、家康の嫌がらせが続き、淀殿も堪忍袋の緒が切れたのではないでしょうか。淀殿の生涯については、いろいろな見方があるかもしれませんが、秀吉の側室になったことで、ある意味幸せであったかもしれません。家康は、正妻の築山殿を殺していますから、家康の側室にならなくてよかったのではないでしょうか。
今回は、淀殿の悲劇をお伝えしましたが、現実世界におられる皆様も困ったときは、いつでも絆にご相談頂ければ、お悩みを軽くし、未来に明るい希望を持っていただけるように努めてまいります。是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
仕事で不本意なことがあり何が原因か、自分の改善点は何かを見ていただきました。
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終始優しい口調で私の気持ちを汲んで下さいながら前向きになるように伝えて下さり、とても心が癒やされました。本当にありがとうございました。