奇跡を起こしたジャンヌ・ダルクの栄光と悲劇
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2025年1月6日
皆様、明けましておめでとうございます。多聞でございます。
今回は、フランスの歴史上、奇跡的な偉業を成し遂げたジャンヌ・ダルクについてお話し致します。
参考画像:Joan of Arc
皆様もジャンヌ・ダルクのことは、本で読んだり、映画でご覧になったりして、ご存じの方も多いと思います。
フランスの片田舎に生まれたひとりの少女が、戦争の経験もなく、いきなり軍隊を率いて戦いに参加し、フランスを勝利に導きました。
ジャンヌ・ダルクは大天使・ミカエルの声を聞いて、本気で戦う気持ちになったと言われています。
現代では、奇跡というと何だかオカルトのような気がしてしまい、「世の中に奇跡なんて起きるのだろうか、いや、あり得ない」と思う方々が多いと思いますが、中世のヨーロッパでは、神への純粋な信仰を持つと、そのような奇跡が起きたのです。
それでは、ジャンヌ・ダルクの生い立ちから始めましょう。
ジャンヌ・ダルクの生い立ち
ジャンヌ・ダルクが生まれたのは、1412年1月6日と言われています。
生まれた場所は、フランス北東部のムーズ川沿いにあるドンレミ村です。その後、フランスを救い、シャルル7世を戴冠(たいかん)させました。
参考画像:French: Charles VII de France, dit le victorieux, roi De France (1403-1461)
そして、華々しい活躍の後、運悪く捕縛され、1431年5月30日に処刑されました。享年19歳でした。
ジャンヌ・ダルクは、裕福な自作農の家に生まれました。父親は、ジャンヌの死から8年後、1439年頃に、亡くなりました。
母親は、とても優しく信心深い人でした。ジャンヌの信心深さは、母親からの影響が大きかったと言えます。
ジャンヌの兄弟は、兄が3人、姉が1人いました。ジャンヌと兄弟たちは、家の仕事をよく手伝いました。また、友達と一緒に教会に行ったり、「妖精たちの樹」と言われる樹木の所に遊びに行ったりしました。
信心深いジャンヌ・ダルクは、7歳の時から難しいお祈りを覚え、熱心に唱えました。
夕方、教会の鐘が鳴ると、どこにいても、その場で膝をついて、十字を切ったあとに祈りの言葉を唱え、「アヴェ・マリア」を歌いました。
土曜になると、教会へ行き、聖母像に祈りを捧げました。
大天使・ミカエルとの出会い
信仰心の篤いジャンヌは、13歳になった夏のある日、家の庭で不思議な声を聞きました。
その声は、道路をへだてた教会の上のあたりから、聞こえてきました。声のする方向を見ると、まばゆい光がさしていました。
ジャンヌは、この声は天使の声に違いないと思いました。
天使の声は、ジャンヌに、「フランスに行き、オルレアンの包囲を解くのだ」と命令しました。その声は、週に2、3回、ジャンヌに向かって話しかけてきました。
参考画像:Archangel Michael defeats Sata
そして、「あなたには、フランスを立て直し、王太子のシャルルを助けるために武器を持って戦う使命があるのだ」という言葉を繰り返しました。
「あなたは天の主によって選ばれ、フランス王国を立て直し、王太子のシャルルを助ける使命がある、男の衣服をまとい武器を持ち、戦争の主となれ」という具体的な指示もありました。
それから約5年間、教会の鐘が鳴ると、天使の声が聞こえてきました。
ジャンヌは、この声を聞いてからは、ほかの子どもたちと遊ぶことをやめました。彼女は、自分が神に選ばれたことを信じ、将来も宗教生活に身をささげることを決意しました。
1428年のある夏の日の午後、天使の声は、ジャンヌがなかなか出発しないので、「早く出発するように」とせかしました。
ジャンヌ・ダルクと百年戦争
ジャンヌの活躍の背景には、百年戦争があります。これは、フランスとイングランドの間におきた戦争です。
国家対国家の戦いになったということですが、実は、相続をめぐる「お家騒動」がきっかけでした。
1316年から1328年に、フランス国王のフィリップ4世は、3人の息子が亡くなり、男子の跡継ぎがいなくなりました。
そこで、国王の甥にあたるヴァロワ伯が、フィリップ6世として即位しました。その時、イングランドのエドワード3世が異議を唱えました。
参考画像:King Philip VI of France
エドワード3世は、イングランドのエドワード2世と王妃の王妃イザベラの間に生まれました。イザベラは、フランス王フィリップ4世の娘でした。
エドワード3世は、フィリップ4世の孫にあたっていたので、親等的には一番近い存在でした。
1337年にフランス王フィリップ6世が、イングランドのアキーテ公領を没収したことから、エドワード3世は、母の血筋を根拠に、フランスに対して宣戦布告をしました。
参考画像:King Edward III, by unknown artist from the end of the 16th century
エドワード3世はフランスとイングランドの王であると主張しました。この戦いが百年戦争の始まりとされています。
この百年戦争のさなかにヨーロッパでは、1346年から1353年にかけて、黒死病がはやりました。黒死病の名前の由来は、敗血症によって皮膚が黒色に変化したからです。
発病すると2-3日で死亡してしまうという恐ろしい病気でした。ユーラシアと北アフリカでは、7500万人から2億人が黒死病で亡くなったと言われています。
1364年、王位を継いだシャルル5世は、再び戦いを始め、次々と領土を取り戻しました。しかし、王は1380年に急死し、12歳の王太子シャルル(後のシャルル6世)が残されました。1396年に、ようやく英仏間で、28年間の休戦条約を結びました。
対立するブルゴーニュ派とアルマニャック派
ジャンヌが生まれた頃のフランスは、フランス王国はありましたが、フランス全土を統一する中央集権国家にはなっていませんでした。
日本にも戦国時代がありましたが、それに似たような状況でした。
ジャンヌが生まれる前、フランスは、ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれ、対立していました。
1380年9月にシャルル5世が崩御し、11歳のシャルル6世が王位を継承しましたが、叔父たちが摂政として、政権を握り続けました。
叔父たちは、1380年11月に盟約を結び、その中でも、ブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)が、国政にもっとも影響力を持ちました。
1388年、シャルル6世は、叔父たちから政権を奪い、親政を行いました。この時は、シャルル6世は親愛王と呼ばれました。
参考画像:Charles VI (1368-1422), roi de France
シャルル6世は、オルレアン公ルイを重用し、ジャン無怖公と対立しました。ところが、シャルル6世は、20代半ばに、精神障害を起こし、統治ができなくなりました。
そのため、シャルル6世は狂気王と呼ばれています。
オルレアン公は、国王の妃のイザボーと愛人関係になり、政治権力を伸ばしました。ところが、1407年、ブルゴーニュ派は、オルレアン公を謀殺しました。
その後、オルレアン公の息子のシャルルの舅であるアルマニャック伯が、他の有力な貴族たちと同盟を締結しました。
ブルゴーニュ派とアルマニャック派の争いは、1411年7月から、内戦に発展し、両派はイングランドの支援を求めました。
先にイングランドと交渉したのは、ブルゴーニュ派でした。
10月にイングランドは、2000人の援軍を送りました。そして首都のパリを占領しました。その後、1412年5月には、アルマニャック派とイングランドが同盟を結び、今度はブルゴーニュ派が排除されました。
しかし、両派とも内戦に疲れ、8月に和睦が成立しました。イングランドは、この時、4000名の軍隊を派遣していましたが、撤収することになりました。
1413年、パリで親ブルゴーニュ派のシモン・カボシュが市民を扇動して、アルマニャック派とみられた官僚たちを虐殺しました。これをカボシュの反乱と言っています。
憤慨したシャルル6世は、8月に反乱軍を鎮圧しました。続いて、ヘンリー5世の率いるイングランド軍を排除しようとしましたが、アジャンクールの戦いで大敗してしまいました。その結果、イングランドは、ノルマンディーの一帯を掌握しました。
参考画像:Henry V The King of England
1418年には、ブルゴーニュ派が再びパリ市民を扇動し、パリは再びブルゴーニュ派が制圧しました。
1419年、シャルル王太子とアルマニャック派はブルゴーニュ派のジャン無怖公を暗殺し、勢力を挽回しました。
ジャン無怖公の息子のフィリップ3世は、イングランドと同盟を結びました。1424年、シャルル王太子は、イングランドとブルゴーニュ派との休戦協定を結びました。
1422年になると、ヘンリー5世とシャルル6世が亡くなってしまいました。ヘンリー5世は、生後8か月のヘンリー6世を残していました。ヘンリー5世は、ヘンリー6世をフランスの王位継承者と宣言しました。
ジャンヌは王太子シャルルに会いに
フランス国内では、依然として戦況が続き、混沌とした状況にありました。
1428年から1429年にかけて、イングランド軍は、オルレアンを包囲し、そのニュースは、ジャンヌのいるドンレミ村にも届きました。
オルレアンはオルレアン公国の首都であり、軍事・交通の要衝として重要な都市でした。このニュースを聞いたジャンヌは、ついに故郷を去ることを決意しました。
参考画像:France Loiret Orléans Cathédrale Sainte-Croix Photographie prise par GIRAUD Patrick by GIRAUD Patrick is licensed under CC BY 2.5
1429年1月、ジャンヌは母方の伯父であるデュラン・ラクサールに頼んで、ヴォークルールまでの同行を頼みました。
ヴォークルールでは、守備隊長のロベール・ド・ボードリクールに会うことができました。隊長は、奇妙な事を話す田舎娘のジャンヌに会いましたが、信用することができませんでした。
ジャンヌは、フランスを救いたいと訴えましたが、隊長は、伯父のデュラン・ラクサールに村に連れて帰るように言いました。ジャンヌは仕方なく村に戻されてしまいました。
しかし、ジャンヌはあきらめることができませんでした。その後、何回か守備隊長のロベール・ボードリクールに会いに行き、説得を試みました。
ジャンヌは、大天使ミカエルが彼女に王太子を救うように命じたことやオルレアンを解放し、イングランド軍を敗走させ、シャルル王太子を即位させるということを主張しました。
ボードリクールは、執拗にせまるジャンヌに根負けしてしまったのでしょうか、国王宛ての紹介状を書くことを約束しました。
ジャンヌに同情したヴォークルールの住民は、ジャンヌのために、男性用の衣服や、靴や剣など必要なものを揃えました。また、ジャンヌの馬の代金まで肩代わりしました。
1429年2月、ジャンヌはヴォークルールを出発しました。そこからは、敵側の地域に入るので、危険な旅となりました。
ジャンヌの一行には、数名の男たちが加わりました。騎士・盾持ち・従者などを加えると総勢9名となりました。 ジャンヌたちは、敵地をくぐりぬけ、500キロ以上を踏破し、シノンの街に着きました。
参考画像:Chinon by View author information is licensed under CC BY-SA 3.0
ジャンヌたちが、王太子に会いにくるという噂は、王太子にも届きました。
王太子の周辺の人たちは、ジャンヌの言っていることを信じようとはしませんでした。王太子は、ジャンヌを高位の聖職者たちに会わせ、意見を聞くことにしました。
その結果、ジャンヌは王太子に会うことが決まりました。王太子シャルルは、ジャンヌを試すことにしました。
当日は、会場にわざときらびやかな衣装を着けた数人の騎士が、配置されました。騎士たちは、「我こそが王太子だ」と言わんばかりにジャンヌの前に現れました。王太子シャルルは、地味な格好で人々の間に隠れていました。
しかし、ジャンヌは本当の王太子を見抜いて、丁寧に挨拶をしました。王太子シャルルは驚きました。
そしてジャンヌと王太子は、二人で話をすることができました。その時、ジャンヌは、王太子だけが知っている事柄として、彼と神との秘密の話を言い当てました。
王太子は、ジャンヌが話すことは、全部信用することができると思いました。
ジャンヌには、シノンの城でまた奇跡が起きました。天から天使が降りてきて、ジャンヌを伴い、階段を登り、王太子の部屋へ連れて行きました。
天使は、王冠を手にして、王に言いました。そして、王太子がジャンヌの助けを得て、王国を支配することを約束しました。
その場には、王太子とジャンヌの他に、ランス大司教や大貴族の人たちも見守っていました。王冠は王太子に渡り、天使は天に戻っていきました。
ポワティエにて
王太子シャルルは、ジャンヌを信用しましたが、それだけでは政治的に王太子の力になってくれる味方を増やすことができませんでした。
そこで、1429年3月、ジャンヌをポワティエの聖職者のもとへ送りました。王太子シャルルは、もし聖職者たちがジェンヌを認め、王太子シャルルのために役立つならば、聖職者の権威や信用力をもって、勢力の拡大をはかろうとしました。
参考画像:Blason ville fr Poitiers (Vienne) by Ssire is licensed under CC BY-SA 3.0
王太子シャルルの依頼を受けて、ポワティエの聖職者たちは、ジャンヌに執拗な尋問を繰り返しました。この尋問は3週間も続きました。
しかも、聖職者たちの質問は、彼女を疑う悪意のある質問でした。言葉が難しいだけではなく、理解も難解な宗教的な事柄に関する質問でした。
ある時、聖職者たちは、聖書の中には何もジャンヌに関する使命の予告も書かれていないとジャンヌに言いました。
ジャンヌには、宗教的な知識も学識もありませんでしたが、聖職者たちの質問に率直に答えるしかありませんでした。
ジャンヌは、私の主は、自ら選ぶ者に啓示を与えたのだと強調しました。聖職者は、「もし神がフランス王国を救うことを決めたのなら、兵士はいらないのではないか」と問いました。
ジャンヌは答えました。「兵士が戦うからこそ、神は勝利を与えたまうのです」ジャンヌの見事な回答に、聖職者たちは驚きました。
聖職者たちは、たくさんの質問をジャンヌにしましたが、カトリックの信仰に反するような悪いところは、何もありませんでした。聖職者たちは、王国回復のために、ジャンヌは必要な人物だと結論しました。
軍の指揮官となる
1429年3月22日、ジャンヌはイングランドの軍にいたヘンリー5世の弟のベッドフォード公に手紙を書きました。
参考画像:John, Duke of Bedford (Add MS 18850)
その手紙には、フランスに領土を返し、イングランドに帰るように書かれていました。
王太子シャルルは、ジャンヌにピッタリの甲冑を用意しました。またジャンヌの依頼で、立派な軍旗も作りました。そして、兵隊も増員して、「ジャンヌ親衛隊」を作りました。
オルレアン入城
ジャンヌは、イングランド軍に包囲されたオルレアンに向かいました。
1429年4月29日、ジャンヌはオルレアンに到着しました。オルレアンでは、ジャンヌが神の使いであり、フランスを救うという話が広まっていました。
ジャンヌの姿を見た市民たちが熱狂したのは言うまでもありません。
オルレアンの市民は熱狂して、ジャンヌに大きな期待を寄せました。一方で、イングランド軍は、ジャンヌのことを嘲笑して、フランス軍のことを哀れみました。
1429年のオルレアンの状況は、イングランド軍にとっては、オルレアンを落とせば、ノルマンディーとギュイエンヌのふたつの地域をつなぐことができました。
フランス国の王太子は、オルレアンで敗北すれば、さらに南に撤退をしなければならないという大事な要衝でした。
そうした存亡の危機に立たされた王太子シャルルのところに、神の言葉を受けたジャンヌが現れたのでした。
王太子シャルルは、ジャンヌの志の強さや誠実さを認め、オルレアンの守備隊に参加させることにしました。
ジャンヌの存在は、兵士たちの心をとらえました。ジャンヌの率いる槍の小隊は、日が暮れても戦闘をやめませんでした。そして、イングランド軍が築いた砦のひとつを落としました。
参考画像:Central Part of The Life of Joan of Arc Triptych
気運が高まったフランス軍は、攻撃を開始しました。5月4日にサン・ルー砦を奪回しました。イングランド軍は、オルレアンから撤退をしたのでした。
そして6月にパテーの戦いでフランス軍は、イングランド軍に大勝し、7月、王太子シャルルは戴冠式のためにノートルダム大聖堂に赴きました。
シャルル7世の戴冠式
イングランド軍に勝利した王太子シャルルは、1429年7月17日、ノートルダム大聖堂で正式にフランス王として戴冠式を挙行しました。
参考画像:Jeanne d’Arc – Panthéon III by Tijmen Stam (User:IIVQ) and one more author is licensed under CC BY-SA 2.5
シャルル7世は、大司教によって、サン・レミより運ばれた聖油入れから聖油を注がれました。
シャルル7世は、古式にのっとり、高位聖職者たちによって玉座に登らされ、世俗の全ての貴族が挨拶しました。
シャルル7世が祝聖されたその瞬間、ジャンヌ・ダルクはただちに跪き、王の膝を抱きしめて熱い涙を流しました。
ジャンヌ・ダルクは、ついにシャルル7世の戴冠式を実現することができました。この戴冠式で、ジャンヌが感動の涙を流したというエピソードは、歴史的にも非常に有名です。
ジャンヌ・ダルクはなぜ火刑となったか
戴冠式が終わると、シャルル7世は不安な思いを抱くようになりました。
めでたくフランス王の戴冠式を終えると、シャルル7世の正統性は確立しました。多くのフランスの都市やパリも含めてシャルル7世になびいていきました。
シャルル7世にとって、ジャンヌは戴冠式までは、大きな意味を持ちましたが、戴冠式以降は、ジャンヌの存在意義が薄くなってしまったのです。
シャルル7世は、外交的にイングランドと平和を達成することを望みました。その結果、ジャンヌの奇跡はもう必要なくなってしまったのでした。
シャルル7世はパリをめざしました。途中、イングランド軍の待ち伏せがありました。シャルル7世は、挟み撃ちにあって、危機的状況に陥りました。
ジャンヌは、喜び勇んで、戦いに出ました。パリに入ろうとしましたが、敵の逆襲に会い、負傷してしまいました。
一方、シャルル7世は、政治的に休戦を模索していました。そしてその望みの休戦を達成することができました。彼は軍を解散し、ジャンヌの希望を打ち砕きました。
その後のジャンヌは、孤独の戦いを強いられました。わずかに残る兵隊とともに、ジャンヌは、天使の声を頼りに戦わざるを得ませんでした。
王の支援を得られなくなったジャンヌは、めざましい戦果もあげられず、孤独な戦地で過ごしました。1430年5月、ジャンヌは少数の部隊で攻撃をしかけました。
その結果、ジャンヌの部隊は大勢の敵に囲まれてしまいました。ジャンヌも激しい戦いの中で落馬し、ブルゴーニュ側の兵に捕らえられてしまいました。
シャルル7世は、敵に捕らわれたジャンヌを救おうとはしませんでした。彼にとっては、ジャンヌは彼の政策を阻害する人物となっていたからです。
ジャンヌが、ブルゴーニュ派に捕らえられたことは、シャルル7世にとっては、丁度都合の良い結果となりました。
パリ大学の神学部は、ジャンヌが異端の罪のおそれがあるとして、引き渡しを求めました。しかし、その要求は退けられました。
結局、ジャンヌは、イングランド側が用意した身代金と引き換えにイングランド側に売り渡されました。
ジャンヌは神通力を失ってしまったのでしょうか。神からの啓示は、パリを占領し、フランスを解放するはずだったのでした。
ジャンヌの敵であるブルゴーニュ派とイングランド側の人たちは、ジャンヌを悪魔の手下や魔女と考えていました。
裁判にかけられたジャンヌ・ダルク
当時の裁判所は、世俗裁判所と教会裁判所がありました。
世俗裁判所というのは、国王裁判所、領主裁判所、都市裁判所などが該当します。
1431年5月24日、ジャンヌは異端宣告を受けました。このままでは火刑が実行されてしまいます。
聖職者たちは、彼女に悔い改め自説を撤回するように説得しました。彼女は、それを承諾し、刑を軽くしてもらいました。それでも永久入牢という重い刑には違いありませんが、死刑よりはマシだということです。
ところが、ジャンヌは再び、天の声を聞きました。ジャンヌは、聖職者との約束を撤回し、男装に戻りました。ジャンヌは再び、死刑に処せられることになりました。
5月30日、朝、牢から出され、ヴィユ・マルシュ広場に連行されました。集まった民衆は、困惑し哀れみを感じながら見守りました。
ジャンヌは死刑台に縛り付けられると、神学博士のニコラ・ミディが説教を行いました。
ジャンヌは、小さな十字架を望みました。一人のイギリスの兵士が棒を組み合わせて、十字架を作ってあげました。ジャンヌはそれを受け取ると、胸に当てました。
しかし、執行人がジャンヌの手を後ろ手に縛り付けると、十字架に手を触れることができなくなりました。ジャンヌは、再び、もう一本の十字架を目の前においてほしいと願いました。
修道士のひとりが近くの教会に行き、行列用の十字架を取りに行きました。その十字架は、ジャンヌの目の前に置かれました。
参考画像:Joan of Arc. But when they burned her at the stake
その後、薪に火がつけられました。燃え盛る火の中で、ジャンヌは、「イエス様」と叫びました。燃え上がる火の中で、ジャンヌは何度も「イエス様」と叫びました。
ジャンヌを見守る修道士は、彼女に苦悶の表情がないのを不思議に思いました。むしろ恍惚とした表情で天を見上げていました。
彼女の眼には、大天使ミカエルが迎えに来たのが見えたのではないでしょうか。熱さも苦しさも感じることなく、彼女の魂は大天使ミカエルとともに天に昇っていきました。
大天使ミカエルは、彼女をやさしく愛で包み、燃え盛る炎の中から、彼女を救い出しました。「あなたはフランスを救い、シャルル7世を誕生させ、あなたは使命を完遂させた」と耳元で囁きました。
ジャンヌは、まばゆい光に包まれて、幸福感を感じることができました。
ジャンヌ・ダルクの死後
処刑後も、人々の心からジャンヌは消え去りませんでした。
シャルル7世は、ジャンヌを憐れんで、ジャンヌの復権裁判を、ローマ教皇庁に求めました。
しかし、教会の立場としては、簡単に認めることができませんでした。ジャンヌは異端として火刑になったのであり、絶対に正しいとされる教会がそれを取り消すことは不可能でした。
そこで、シャルル7世は、パリ大学の神学博士のギョーム・ブイエに命じて、「不正な裁判」の真相や詳細を明らかにするように調査活動を開始させました。
参考画像:A meeting of doctors at the university of Paris. From the “Chants royaux” manuscript, Bibliothèque Nationale, Paris.
その結果、ジャンヌの男装については、牢番から身を守るためのものであったことが明白になりました。
また、聖職者の質問はとても難解で、有罪に導くためのものであったということが分かりました。政治的には、背後にイングランド王の復讐心があったのは否定できませんでした。
ローマ教皇庁は、初めこの問題を無視しようとしていましたが、教皇ニコラウス2世は、「十字軍」の必要性を強く感じて、キリスト教の諸君主たちの団結を求めようとしました。その結果、教皇は、調査の開始しに同意しました。
その結果、復権裁判では、ジャンヌの処刑裁判は、間違っており、ゆがんだものだったという結論になりました。
1456年7月7日、処刑裁判の破棄が宣告され、ジャンヌの復権が成立しました。
ジャンヌ・ダルクの評価の変遷
ジャンヌの死後、18世紀後半まで、アルマニャック派によって、ジャンヌを擁護して、神の使いとして崇められました。
しかし、ブルゴーニュ派にとっては、相変わらずジャンヌは魔女として扱われました。
18世紀の啓蒙主義時代に入ると、歴史家たちの間にはジャンヌ賛美の声が高まりました。しかし、理性を尊ぶ学者たちは、王政に不満を持っており、天の声も信用しませんでした。
19世紀になると、1840年代に大歴史家ジュール・ミシュレが、ジャンヌに関する最初の伝記を書いて、大成功を収めました。
参考画像:Jules Michelet par Thomas Couture
多くの歴史家は、ジャンヌの出現に、フランスのナショナリズムの始まりとしました。
皇帝ナポレオンも、「国家が危急存亡の危機にあるときには、かならず偉大な英雄が奇跡をもたらすのは、けっして偶然ではない、ジャンヌ・ダルクはそれを証明した」と言いました。
自己を正当化した発言ともとれますが、説得力がありました。
近代国家に発展していくフランスでは、ジャンヌの評価はそれぞれの立場から別れました。
ジャンヌ・ダルクの評価
- 共和主義者にとっては、ジャンヌは国王や教会から見捨てられた悲劇の人物。
- カトリック勢力にとっては、宗教的信念に殉じたヒロイン。
- 王党派にとっては、フランス国王のために身を捧げた者。
- フランス国民にとっては、愛国心の象徴。
20世紀になると、1920年5月16日、ジャンヌは「聖女」として認められました。そして、5月の第二日曜が「ジャンヌ祭」に定められました。
ジャンヌは、生前には自ら奇跡を行うことを禁じていましたので、奇跡の記録はありませんが、死後の奇跡として次のようなことが起きました。
1891年以降の調査によって、病気の治った修道女の例が3件見つかりました。それぞれ胃潰瘍、左胸の潰瘍、足の潰瘍で、ジャンヌに加護を祈った結果、突然に治癒したという記録が残っているそうです。
ジャンヌ・ダルクを愛し、彼女を信仰の対象とされている方は、彼女の奇跡を信じることができるのではないでしょうか。
現代のジャンヌ・ダルク
現代にもジャンヌ・ダルクに匹敵する人は、何人かいます。
しかし、現代社会においては、武器を持って敵と戦うといった場面はないかもしれません。
むしろ平和に向かって勇気ある行動をとった女性が、奇跡の人として賞賛されるのではないでしょうか。
その一人として、マララ・ユスフザイさんが挙げられると思います。
参考画像:Canon EOS 5D Mark IV by 内閣官房内閣広報室 is licensed under CC BY 4.0
マララ・ユスフザイさんは、パキスタンの出身です。フェミニストであり、人権運動家です。2014年にノーベル平和賞を受けました。
彼女は、1997年生まれです。パキスタン北部のカイバル・パクトゥンクワ州、ミンゴラに生まれました。マララと言う名は、パシュトゥーン人の英雄であるマイワンドのマラライにちなんでつけられました。
父親は地元で女子学校の経営者でした。彼女は数学が苦手でしたが、医者をめざしていました。
2008年に武装勢力パキスタン・タリバンが、スワード県を掌握すると恐怖政治が始まりました。
教育を受けようとする女性を反逆者として殺戮し、暴挙を繰り返しました。
2009年、11歳の時にBBCの依頼で、タリバンの恐怖におびえる人々の惨状をブログに投稿しました。特に女子校の破壊活動を批判し、女性の教育への必要性や平和を訴える活動を行いました。
一方、アメリカのパキスタンに対する軍事干渉には批判的でした。2013年にアメリカのオバマ大統領と面会した際は、アメリカの無人機によるテロ掃討作戦をやめるように要求しました。
2009年、パキスタン軍が大規模な軍事作戦を展開し、タリバンを追放した後、パキスタン政府は、彼女の本名を公表し、「勇気ある少女」として表彰しました。
その後、パキスタン政府主催の講演会などに出席し、女性の権利について熱く語りました。そのため、タリバンから命を狙わるようになりました。
2012年、中学校から帰宅途中、スクールバスが襲撃され、マララさんは、頭部と首に銃弾を受け、負傷しました。
タリバンは声明を出し、彼女が、「親欧米派」であり、「欧米の文化」を推進していたことを批判し、さらなる攻撃を予告しました。
わずか15歳の少女に向けられた凶行に対し、世界中から非難の声が上がりました。女優のアンジェリーナ・ジョリーは、パキスタン、アフガニスタンの少女のために5万ドルを寄付しました。
マララさんは、イスラマバードの軍の病院で治療を受け、さらにイギリスのバーミンガムの病院に移されました。
銃弾の摘出が行われましたが、頭部に感染症の兆候があったため、難しい状況に陥りました。しかし、奇跡的に回復し、退院することができました。
2013年1月9日、マララさんは、シモーヌ・ド・ボーヴォワール賞を受けました。その後、7月12日、国際連合本部で演説し、銃弾では自分の行動を止められないとして、教育の重要性を訴えました。
国連は、マララさんの誕生日の7月12日をマララ・デーと名付けました。10月には、サハロフ賞を受賞しました。
参考画像:Martin Schulz remet le prix Sakharov à Malala Yousafzai au Parlement européen de Strasbourg. by Photo Claude TRUONG-NGOC is licensed under CC BY-SA 3.0
2014年、ノーベル平和賞を受賞しました。17歳でのノーベル賞は史上最年少記録となっています。
マララさんは、「この賞は、終わりではなく、始まりにすぎない」と表明しました。またタイム誌では、マララさんを2014年の最も影響力のある25人のティーンのひとりとして選びました。
2017年には、ニューヨークの国連本部において国連平和大使に任命されました。19歳での国連平和大使の任命は史上最年少です。
マララさんも多くの人々に勇気と希望を与えました。彼女の存在意義はとても大きなものとなっています。
マララ・ユスフザイの存在意義
- 【リーダーシップと勇気】現代においても、彼女のようなリーダーシップは多くの人々にインスピレーションを与えます。
- 【女性の権利と平等】彼女の存在は、女性の権利と平等の象徴として現代でも重要な意味を持ちます。
- 【信念と使命感】現代においても、自分の信念を持ち、それに基づいて行動することの重要性を示しています。
マララさんは、現在は、2021年にアッセル・マリクさんと結婚し、幸せな家庭を築いています。
彼女はオックスフォード大学を卒業し、世界中で講演や執筆活動を行っています。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
源氏物語の「梅枝」(うめがえ)から後半の笑訳
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
ジャンヌ・ダルクの生涯は如何でしたでしょうか。中世の封建社会において、女性の自由はありませんでした。大天使・ミカエルは、他の誰かではなく、平凡な少女をフランスの救国の使いとして任命しました。経験のない少女が軍を率いて戦い、目的を果たしたことは驚異的な出来事です。
苦しいことに悩んでいる時には、奇跡が起きないかと思うことがよくあります。ジャンヌ・ダルクのように神を信じる力が強い時には、奇跡も起きるのです。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性40代
多聞先生、鑑定有難うございました。霊感タロットで彼の気持ちや、私達の関係を深く読み取って下さり、また優しい穏やかな口調と温かい言葉で、ホッと心が和みました。
また、今後のアドバイスも的確に下さり、私の思っていた彼への接し方とは異なっていて、アドバイスを念頭に彼と接してみようと思いました。
今は、友達関係になっていますが、復縁できると仰って頂き嬉しく思いました。
本当にありがとうございました。