スペイン女王イサベルの恋と愛にかけた生涯

執筆した占い師:多聞先生
更新日:2025年2月5日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、スペインの歴史上、偉大な功績を残したイサベル女王についてお話し致します。
参考画像:Retrato de la reina Isabel I de Castilla (1451-1504), hija del rey Juan II de Castilla y sucesora de su hermanastro, el rey Enrique IV de Castilla. イサベル1世 (カスティーリャ女王)
皆様もイサベル女王のことは、本で読んだり、映画でご覧になったりしてご存じの方も多いと思います。
イサベルは、夫のアラゴン王フェルナンドとともに、政治的、宗教的にスペインを統一し、西ヨーロッパの最後のイスラム教の拠点、グラナダを撃破しました。
彼女は、この時代にはめずらしく野心的な女性でした。海外への発展にも興味を示し、コロンブスを支援して大航海時代を開始し、世界中にスペインの植民地を増やし黄金の富を築きました。
それでは、彼女の生い立ちから始めましょう。
イサベルの不運な生い立ち

イサベル・デ・カスティーリャは、1451年4月22日に生まれました。
彼女は、カスティーリャ王国ファン2世の第2子でした。
参考画像:El rey Juan II de Castilla by is licensed under フアン2世 (カスティーリャ王) ![]()
イサベルが生まれたとき、スペインにはいくつかの小国があり、分裂していました。
「城の国」を意味するカスティーリャ王国は、10世紀にはスペイン北部の小さなキリスト教国でした。
ファン2世には、後継者として、息子のエンリケ4世(当時26歳)がいました。彼は、イサベルの異母兄弟でした。
1454年にファン2世が亡くなり、エンリケ4世がカスティーリャ王となりました。
利己的なエンリケ4世は、イサベルとイサベルの弟のアルフォンソや母親を宮廷から遠く離れたアレバロに追放しました。アレバロは、スペイン内陸の山地にある城でした。
参考画像:Location map of Spain スペイン内アレバロの位置 ![]()
カスティーリャ王国の首都にあるマドリード宮殿やパリャドリッド宮殿に比べると、アレバロは寂しい宮殿でした。
アレバロでの生活は、質素で貧しいものであったと言われています。そのためイサベルの母親は、ショックのために気落ちした状態が続いてしまいました。
それに反してイサベルは、窮屈な宮廷生活から離れ、自由な生活を楽しんでいました。母親のイサベルは、子どもの教育には熱心でした。イサベルの篤いカトリック信仰と高い道徳観は、この時代に培われたようです。
時々、イサベルの母親はアレバロを抜け出して、マケーダの城に外出したという記録があります。マケーダの城は、12世紀に建てられたものでしたが、壮大な石造りの城として有名です。
マケーダの城へ行く理由は、昔の良かった時代を懐かしむためであったかもしれません。イサベルとアフォンソは、哀れな母親を見て、自分たちはしっかりしなければならないと思い、貧しい生活にも耐えました。
王女イサベルの少女時代
エンリケ4世に追放されたイサベルは、幸いなことに父親が亡くなる前に任命された女官たちと家庭教師に囲まれていました。
そのため、イサベルは王女にふさわしい教育を受けることができました。修辞学、絵画、哲学、歴史など充実した教育を受けました。
イサベル自身も知識欲が旺盛で、特に外国の情報に関心がありました。後に夫のフェルナンドとスペインの統一を推進し、グラナダの征服やコロンブスの大西洋横断探検などに意欲を燃やしました。
エンリケ4世の世継ぎ問題
王となったエンリケ4世は、男子の跡継ぎを授かることがありませんでした。
実は、エンリケ4世には、後継者を作る能力に問題がありました。そのため世間では、「エンリケ不能王」という噂がたちました。
エンリケ4世は1455年にポルトガル王の娘ファナと結婚しました。
参考画像:Joan of Portugal (1439-1475), Queen consort of Castile due to her marriage to Henry IV of Castile. フアナ・デ・ポルトゥガル ![]()
1462年に母親と同名のファナという娘を出産しましたが、本当の父親について、いろいろな噂が立ちました。
この時、王妃の周りに二枚目の大貴族、ベルトラン・ラ・クエバが、いつも寄り添っていたからです。
宮廷内の噂では、妃のファナ女王は、カスティーリャ貴族のベルトラン・ラ・クエバを連れ込んで妊娠したのであり、王女はエンリケ4世の子ではないと言われました。
生まれた王女のファナは、ゆりかごにいる時から「ベルトランの子」という意味で「ラ・ベルトラネーハ」と呼ばれていました。
そのような噂があるにもかかわらずベルトランは、エンリケ4世に気に入られ、破格の出世をしました。
王位継承問題
エンリケ4世は、幼い娘のファナをカスティーリャの王位継承者に正式に指名しました。
参考画像:Joanna la Beltraneja, or the Excellent Mistress (1462-1530) フアナ・ラ・ベルトラネーハ ![]()
しかし、有力な貴族はファナの血統に関する噂を利用してこれに抗議しました。彼らは、ファナよりもアルフォンソを後継者にすべきだと主張しました。
ファナ王女が2歳になった頃、国王に不満を持つ貴族たちは、ファナ王女の王位継承に、ますます反対し始めました。
特にベルトランと対立していた大貴族のフラン・パチェコは、ファナ王女がベルトランの子どもだと言いふらしました。
ベルトランは、エンリケ4世の側に立ち、王立軍を率いて貴族たちと戦いました。その結果、1467年に反乱貴族軍に勝利しました。エンリケ4世は、その後の交渉で、貴族の要求に折れてアルフォンソを後継者に指名しました。
ところが、1666年1月、エンリケ4世は、この取り決めを撤回し、ファナ王女を再び後継者としたため、貴族たちと対立が深まり、内戦が勃発しました。
反乱軍は、アルフォンソを王に即位させましたが、3年後の1468年にアルフォンソは亡くなってしまいました。
アルフォンソの支持者は、次にイサベルを次の国王に据えようとしました。しかし、イサベルは、「兄のエンリケ4世が生きている間は王にはなりません」と言って、承諾しませんでした。
イサベルの結婚問題

当時、結婚は、王国間の同盟関係を築くための政治的手段でした。
エンリケ4世は、イサベルを利用して、ポルトガルと同盟を結びたいと考えていました。
当時の慣習として、14歳ぐらいで嫁ぐのが一般的でした。イサベルは、もう17歳になっていました。
そこで、エンリケ4世は、イサベルをポルトガルのアフォンソ5世に嫁がせて、2つの王国を統一しようとしました。
アフォンソ5世は、当時、先妻を失い独身でしたが、イサベルより20歳以上も年上でした。
参考画像:Afonso V of Portugal アフォンソ5世 (ポルトガル王) ![]()
年齢差の問題もありましたが、アフォンソ5世と結婚すれば、自分の自由を奪われるとイサベルは考えました。そこで、イサベルは、ポルトガルからの申し出に対して、返事を引き延ばしました。
当時、イサベルの縁談相手として、アフォンソ5世以外では、イングランドのエドワード4世の弟や、フランスのルイ11世の弟、そして、隣国アラゴンの王太子のフェルナンドなどから、熱心な結婚の申し込みが寄せられました。
エンリケ4世は、イサベルに対し、ポルトガル王のアフォンソ5世との結婚を命じました。
イサベルは、嫌いな相手との結婚を強いられることに怒りを感じました。心の中では、フェルナンドとの結婚を考えていたからでした。
王太子フェルナンドにかける思い
イサベルは、どうしたらアラゴン王ファン2世の息子のフェルナンドと結婚できるか考えました。
イサベルは、エンリケ4世の命令に対し、拒否することを決断しました。王の命令に反抗することは、追放どころか、処刑されるかもしれない重大な問題を引き起こす可能性がありました。
しかし、イサベルは、ポルトガル王アフォンソ5世の結婚の申し込みを伝える使者を突き返してしまったのでした。
激怒したエンリケ4世は、イサベルを捕らえてマドリードの牢に入れようとしました。
この時、イサベルはオカーニャの城にいました。オカーニャの町の人々は、イサベルを哀れに思い、多くの人がイサベルのもとに集まりました。この動きは他の町々にも波及しました。群衆の一団は、もはや無視できないほどに膨れ上がりました。
イサベルは、この時初めて群衆の力を認識したと言われています。驚いたエンリケ4世は、「トーロスの条約」を全て破棄すると喚きたてました。
そして腹心のビリューナ候に大軍を任せ、イサベルを逮捕することにしました。オカーニャの町は、群衆とビリューナ候の軍が衝突しましたが、やはり武装した軍隊の力が強く、群衆は鎮圧されてしまいました。
トーロスの条約
「トーロスの条約」とは、エンリケ4世がカスティーリャ王国の王位を巡る争いの中で結ばれた条約です。
エンリケ4世は、貴族たちとの対立や後継者問題で国内が混乱していました。特に、彼の娘フアナの王位継承を巡る問題が大きな争点となりました。
トーロスの条約は、エンリケ4世が貴族たちと妥協し、彼の異母妹イサベルを後継者として認めることで内乱を収束させるために結ばれました。
この条約により、イサベルはエンリケ4世の後継者として認められましたが、彼女の結婚にはエンリケ4世の許可が必要とされました。
オカーニャの城に軟禁状態となったイサベル
イサベルは、オカーニャ城に軟禁状態となりました。しかし、彼女はエンリケ4世を恐れませんでした。
自分の好きな男性と結婚することが、たとえ大きな危険を伴ってもやるべきことだという信念が、心の底から湧き上がってきました。イサベルには、フェルナンドしかありませんでした。
アラゴンは、同じ民族であり、言語も共通する部分が多く、イサベルとフェルナンドは、共通の曾祖父のカスティーリャ王ファン1世を曾祖父とする又従姉弟でした。
参考画像:Juan I de Castilla フアン1世 (カスティーリャ王) ![]()
アラゴン王ファン2世の息子のフェルナンドはイサベルより1歳年下でした。年齢も近く、噂によれば、フェルナンドは、二枚目の王太子だと言われていました。
イサベルは、フェルナンドを見たこともありませんでしたが、「きっと彼は噂通りに素晴らしい男性だ」という熱い思いを強くしました。
イサベルはオカーニャの城を脱出
イサベルは、極秘のうちに結婚の準備を進めました。
彼女は秘密のうちに、オカーニャを脱出し、バリャドリッドに逃げることにしました。
参考画像:Location map of Spain スペイン内バリャドリッドの位置 ![]()
城を出る表向きの口実は、弟のアルフォンソの墓参りでした。
この脱出は、彼女の運命を決める重要な行動となりました。エンリケ4世の命令にそむき、フェルナンドとの結婚を果たすという決断の一歩だったのです。この脱出で、彼女の運命は大きく変わることになりました。
周りに気づかれずに逃げるには、大きな荷物も持てません。また多くの従者もつれてはいけませんでした。
イサベルは味方になる貴族の人たちと連絡を取り、安全で、しかも結婚式ができる場所として、バリャドリッドが最適地だということになりました。
逃げたとしても、いつ追手がかかるかもしれませんでした。また途中の街道では、エンリケ4世に加担する貴族の領地を抜けなければなりませんでした。もし捕まったら今度は無事にはすみません。
バリャドリッドは、マドリードから160キロメートルの地点です。古くから風光明媚な場所として知られ、歴代の王国のあった場所でした。カスティーリャ王国の主要な都市でした。
バリャドリッドには防御に適した堅固な城がいくつかありました。特に有名なのは、ペニャフィエル城です。この城は丘の上に位置し、その形状が船のように見えることから「船の形をした城」として知られています。
また、モタ城もバリャドリッド県にあり、赤レンガで作られた堅固な城塞です。また結婚式に適した教会もありました。
イサベルは、最初に生まれ故郷のマドリガル・デ・ラス・アルタス・トーレスに行き、結婚式に必要な品物や装備、食料などを準備しました。そこから、バリャドリッドへと向かいました。
イサベルは、バリャドリッドで、フェルナンドと結婚することにしていました。彼女はフェルナンドに早く援軍を差し向けてくれるように手紙を書きました。
手紙を受け取ったフェルナンドは、イサベルに会うためにアラゴンからバリャドリッドに急いで向かいました。アラゴンからバリャドリッドまでは、約450キロメートルありました。
参考画像:Map of Spain with Aragon highlighted. by Mutxamel, subido por Rastrojo is licensed under CC BY-SA 4.0 スペインにおけるアラゴンの位置 (赤) ![]()
彼は召使に変装しました。人数も6人として目立たないようにして馬に乗りました。武装した集団は別のルートでバリャドリッドに向かいました。
途中の危険を回避するために、緊急であることを悟らせないように、馬を走らせず移動しなければなりませんでした。そのため10日間ぐらいかかったのではないかと思われます。途中の旅籠で、お金をなくすハプニングもあり、空腹をかかえながら、旅を急いだようです。
イサベルは、毎日、フェルナンドが来るのを、今か、今かと気をもみながら待っていました。支援する貴族の兵隊は集められましたが、数は少なく、エンリケ4世が、大軍を向けたら、ひとたまりもありませんでした。アラゴンの軍隊が、一日でも早く到着することを祈りました。
ようやく、フェルナンドの一行が、バリャドリッドの町に着いたのは、夜遅くでした。イサベルに使いの者を出し、到着を知らせました。イサベルは松明を用意し、警備の兵を出し、フェルナンドを迎えに出ました。
参考画像:Wedding portrait of King Ferdinand of Aragon and Queen Isabella of Castile フェルナンドとイサベルの肖像画 ![]()
バリャドリッドで二人は初めて会いました。その4日後、イサベルとフェルナンドは結婚しました。
イサベルは18歳、フェルナンドは17歳でした。イサベルは、彼の凛々しい姿を見て、頼もしく思いました。
1469年10月に結婚式が行われた時、トレド大司教は偽造された教皇勅書を提出しました。二人はそれを知っていました。フェルナンドの父親のファン2世が用意したのではないかと言われています。
この偽造された許可書は、トレド大司教の手に渡り、結婚が正式に認められたように見せかけられました。
イサベルとフェルナンドは従姉弟同士でした。この結婚をローマ教皇は、最初は認めませんでした。イサベルは、ローマに使者を送り、交渉の結果、12月にようやく認められました。
エンリケ4世の死
エンリケ4世は、イサベルとフェルナンドの結婚の知らせを受けて激怒しました。自分の思い通りにならないイサベルに対して、今度は本気で怒りを爆発させました。
エンリケ4世は、二人の結婚は、自分が認めたものではないとして、無効だと宣言し、娘のファナを正当な後継者としました。
このあとは、イサベルとエンリケ4世のにらみ合いが続きました。もし内乱となっても、アラゴンが味方となるし、イサベルを支持する貴族も増えてきたので、備えは十分でした。
また、イサベルとフェルナンドの結婚後、エンリケ4世に対する貴族の内乱は増加しました。エンリケ4世の治世はもともと貴族との対立が多く、彼の統治能力に対する不満が高まっていました。
イサベルとフェルナンドの結婚は、エンリケ4世の権威をさらに弱め、貴族たちの反乱を助長する要因となりました。
エンリケ4世は内乱や外交で神経をすり減らし、体力が衰えたのでしょうか、とうとう病気になってしまいました。1474年12月11日、エンリケ4世が亡くなりました。(享年49歳)
参考画像:Enrique IV de Castilla by is licensed under エンリケ4世 (カスティーリャ王) ![]()
彼の死の知らせが、イサベルのもとにも届きました。翌日、イサベルは、カスティーリャ女王を宣言しました。イサベルはこの時を待っていたのかもしれません。数週間後、ファナも王位を宣言しました。
イサベルは、それから4年間、王位をめぐって、ファナ女王とポルトガルの連合軍と激しい内戦になりました。
イサベルとフェルナンドは、二人で協力して内戦に立ち向かいました。イサベルにもう怖いものはありませんでした。1479年までに二人は内戦に勝利しました。
アフォンソ5世は、イサベルとフェルナンドの王位の正統性を認める和議に調印しました。(アルカソヴァス条約)
イサベルは、ファナに選択をせまりました。イサベルの1歳の息子と結婚するか、修道院に入るかの選択でした。ファナは修道院を選びました。
結婚後のイサベル女王とフェルナンド王

1479年、夫のフェルナンドがアラゴン王に即位しました。
これによって、カスティーリャとアラゴンが結合し、スペインと呼ばれるようになりました。
フェルナンドは、アラゴンの王としては、フェルナンド2世を名乗りましたが、カスティーリャ王としては、フェルナンド5世を名乗りました。
次に、二人はイベリア半島におけるイスラム支配を終わらせることに力を注ぎました。最後のイスラムの拠点のグラナダは、1492年1月に陥落し、イベリア半島は、キリスト教徒の支配下となりました。
レコンキスタの完遂(グラナダの陥落)
当時、イベリア半島には、イスラムの支配地としてグラナダがありました。グラナダというと、有名なアルハンブラ宮殿を思い浮かべる方もいらっしゃると思います。
イスラム教徒がイベリア半島に進出する前は、8世紀初頭まで、この地は西ゴート王国の支配下にありました。711年、ウマイヤ朝が進出し、イベリア半島を占領しました。
アルハンブラ宮殿は、13世紀のイスラム王朝のナスル朝(1232~1492)の時代に建設されました。初代ムハンマド1世が建築に着手し、その息子のムハンマド2世が60年の歳月をかけ、水道を設置し、宮殿の拡張工事を行いました。
その後のムスリム政権下で増築がなされました。グラナダは夏になると非常に暑い地域でしたが、アルハンブラ宮殿は、緑の多い小高い丘の上の涼しい場所に建てられました。
アルハンブラ宮殿の構造は、長期にわたって増築されたものであったので、時代により、建築様式や形状が異なっています。
その後、ナスル朝の黄金時代を築いたのが、ユースフ1世とその息子のムハンマド5世でした。
イサベルとフェルナンドは、グラナダ攻略のために、近くのコルドバに移りました。彼は、アラベスク模様の葡萄酒の門やライオンの中庭のある宮殿を造営しました。
1482年、グラナダで内乱が起きました。これを好機ととらえたイサベルは、グラナダへの侵攻を開始しました。1486年までにグラナダの西半分を制圧しました。その後、1489年には残りの東半分も制圧しました。
参考画像:The Surrender of Granada: The last king of Granada, Abu Abdullah Muhammad XII, hands over Granada, the last Muslim stronghold in Andalusia, to the Catholic King Ferdinand II of Aragon グラナダの降伏 ![]()
1490年、カスティーリャ軍はグラナダを包囲しました。その後、2年間、戦いは続きました。1492年、グラナダは陥落しました。
ユダヤ教徒とイスラム教徒の追放
イサベルたちは国内の宗教問題に着手しました。
イサベルは、自国民のすべてがキリスト教を信仰することを望みました。それゆえ、当時のスペインに住んでいたユダヤ教徒とイスラム教徒が問題となりました。
14世紀には、1347年から1349年にかけて、スペインはペストが流行し、深刻な危機に陥りました。
国内では、悪いうわさが蔓延しました。ユダヤ人は高利貸しとして金を奪い取るとか、イスラム教の同盟者だとか、キリストを殺害した神殺しの民だとかいわれるようになりました。そのため多くのユダヤ人が迫害を受けました。
14世紀末には、セビーリャでユダヤ人への強制改宗が行われました。15世紀なかばには、ユダヤ人の追放や異端審問所の設立を求める動きが強まっていきました。
イサベルは、ローマ教皇との交渉の結果、1480年にスペインに異端審問所を導入しました。1492年、イサベルはついにユダヤ人に対して4か月以内の改宗か追放の二択を迫りました。
この結果、10万人のユダヤ人がスペインを離れました。
イスラム教徒の追放
イサベルは、グラナダのイスラム教徒にも圧力を加えました。グラナダが陥落した後も、その多くの住民はイスラム教徒でした。
イサベルは、グラナダをキリスト教に改宗させようとしました。ローマ教皇がこれを支援しました。グラナダでは、イスラム教徒の反乱が生じました。
1501年、イサベルは、イスラム教を禁止し、イスラム教徒にはキリスト教への改宗か移住かを迫りました。多くのイスラム教徒は、スペインから離れることを選びました。彼らの多くは、オスマン帝国や北アフリカのイスラム教国に逃れました。
コロンブスのアメリカ発見と植民地の建設
新大陸を発見したコロンブスのことは、皆様もよくご存じだと思います。
彼はイタリアのジェノヴァで生まれ、イタリア語では、クリストロ・コロンボと言いますが、通常は英語読みのクリストファー・コロンブスの名前で知られています。
参考画像:Christopher Columbus クリストファー・コロンブス ![]()
コロンブスは、若い時から、マルコ・ポーロの書物「東方見聞録」などから、インド、中国、日本に興味を持っていました。
天文学者のトスカネリの地球球体説を知り、西回りでアジアに到達することを考えました。
1486年、コロンブスは、イサベル女王に面会し、西回りでアジアに到達することを説きました。当時は、まだグラナダとの交戦中で財政的に余裕がありませんでした。
1492年にグラナダを陥落させ、レコンキスタを完了させた直後に、イサベルはコロンブスに再度会いました。そして、コロンブスに支援を与えることを決定しました。
1492年コロンブスは、サンタ・マリア号を旗艦とした船団を組んで、航海に出発しました。1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着し、翌年、スペインに帰ったコロンブスは西回りのインド航路を発見したと宣言しました。
それ以降、コロンブスによる成功を受けて、スペイン人たちは金銀財宝を求めてアメリカへと大量に押し寄せ、スペインは中南米での植民地化を進めました。
フェルナンド国王は、西インド探検航海を企画し、アメリゴ・ヴェスプッチは、1497年から1498年にかけてカリブ海を探検しました。その後、カリブ海を南下し、ブラジル北岸まで探検を行いました。アメリゴ・ヴェスプッチは、探検の結果、そこはインドではなく、新大陸であることを発見しました。
スペインは、交易品を求めて南アメリカ大陸に進出し、豊富な金銀を手に入れました。
イサベルの死
イサベルとフェルナンドはレコンキスタや宗教政策などにより、1496年に教皇アレクサンデル6世から、「カトリック両王」の称号を得ることになりました。
1504年、イサベルは後継者問題に頭を悩ませながら亡くなりました。(享年53歳)
参考画像:El lienzo representa a la reina Isabel I de Castilla, que falleció en Medina del Campo en 1504, dictando su testamento en presencia de su esposo, Fernando II de Aragón, y de otros personajes de la Corte castellana. 遺言をのこすイサベル女王(エドゥアルド・ロサレス作、1864年の絵画) ![]()
夫のフェルナンドは、1516年に亡くなりました。(享年64歳)
彼は、1468年にシチリア王を継承し、シチリア王フェルナンド2世となり、1469年にイサベルと結婚し、カスティーリャ共同統治王として、フェルナンド5世となりました。
これ以降、イサベルとともにカスティーリャの国内統一や、イベリア半島に残ったイスラム教の国家のグラナダ王国との戦争に力を注ぎました。
イサベルは、死の直前、フェルナンドのことを「スペインの最高の王」と呼んだそうです。フェルナンドとは、政略的な意味の強い結婚でしたが、共同で政策を進めてきた夫婦の歴史の中で、深い愛が築かれたようです。
35年間の結婚生活の後、1504年11月26日にイサベルは亡くなりました。フェルナンドは彼女を悼み、「最も素晴らしい妻」と呼びました。
イサベルの子どもたち
イサベルは、フェルナンドとの間に一男四女をもうけました。現在のスペイン王家は次女ファナと三女マリアの血統になります。
長女のイサベル(1470~1498)、ポルトガル王ジョアン2世の息子のアフォンソ王太子と1490年に結婚しましたが、翌年王太子が亡くなり、帰国しました。
彼女は、その後、1497年にマヌエル1世と再婚し、男児(夭折)を出産し、その後、死亡しました。
唯一男子のファン(1478~1497)は、フィリップ美公の妹、マルガリータと結婚後、間もなく亡くなりました。
次女ファナ(1479~1555)は、ハプスブルク家出身のフィリップと結婚しましたが、精神を病んでしまい、スペインの王位継承に問題を生じました。
そして、その子のカルロスがスペイン王位を継承することになりました。1516年、カルロス1世として、17歳で即位しました。
3女マリア(1482~1517)は、姉イサベルの死後、マヌエル1世の王妃となりました。
4女カタリナ(1487~1536)は、イングランドのアーサー王太子と結婚し、アーサーの死後、その弟のヘンリー8世と再婚しました。ご存じの方も多いと思いますが、ヘンリー8世は、世継ぎを求めて、次々と妃を取り換え、全部で6人の女性を妃としました。その中には処刑された女性もいました。
カタリナは、ヘンリー8世の最初の妻となり、英文名をキャサリン・オブ・アラゴンと呼ばれました。
彼女は、懸命にヘンリー8世に尽くしましたが、男子の後継者に恵まれず、無事に育ったのは、メアリーだけでした。そのため、ヘンリー8世から離婚をせまられ、悲運の人生となりました。
イサベルの人生は、波乱万丈の生涯と言って良いでしょう。しかし、最愛の夫を持てたことは、彼女の人生の最高のできごとでありました。二人は、天国でも愛し合い、夫婦の絆で結ばれたことと思います。
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奇跡を起こしたジャンヌ・ダルクの栄光と悲劇
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「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
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多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
イサベル女王の生涯は如何でしたでしょうか。
中世の歴史の中で、自分の意志で結婚相手を選んだ女性は、数少ないと思います。イサベルは、命をかけてフェルナンドと結婚しました。結婚してからも多くの政治的な問題が山積しており、心の休まる時間がなかったかもしれません。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
今日はありがとうございました。
とても優しく寄り添って下さり、そしてたくさんのアドバイスもくださってありがとうございます!
5年も待たなくて良いように神様にお祈りしてみます。
去年の私はここまで強くなかったかもしれませんが、今はだいぶ強くなれました。これも彼のおかげですし、前世から繋がっていた彼と今世でも出会えたのは神様のお陰だと思います。いつも感謝を忘れずに自分のなりたい未来を思い描いていきます!
また何かあったらよろしくお願い致します。