不運を幸運に変えたアン・オブ・クレーヴズ

執筆した占い師:多聞先生
更新日:2025年5月2日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、前回に引き続きヘンリー8世の妃について、アン・オブ・クレーヴズ、次にキャサリン・ハワード、そして最後にキャサリン・パーについて、お話し致します。
ヘンリー8世は、ご存じのように暴君として知られ、最愛の妃であったアン・ブーリンも処刑してしまいました。
参考画像:King Henry VIII having a quality time ヘンリー8世 (イングランド王)
そして次の妃のジェーン・シーモアは、待望の男子・エドワードを産んでからすぐに亡くなってしまいました。
ヘンリー8世は、次の妃を求めて貪欲に美女を漁っていきます。
ヘンリー8世には、もっと男子の後継者が欲しいという動機があるのですが、その旺盛な意欲には驚かされます。
ヘンリー8世の4番目の妃となったアン・オブ・クレーヴズ

ヘンリー8世の4番目の妃になった女性は、アン・オブ・クレーヴズという女性でした。
参考画像:Anne de Clèves – Hans Holbein le Jeune – Musée du Louvre Peintures INV 1348 ; MR 756 – version 2 アン・オブ・クレーヴズ
アン・オブ・クレーヴズは、ドイツ出身の女性です。1515年9月22日に生まれました。
父親は、ユーリヒ・クレーフェ・ベルク公ヨハン3世です。母親は、マリア・フォン・ユーリヒ・ベルクです。
アンは、まさかイングランドの妃になろうというような野心はありませんでした。
そのため、外国語の修得や音楽やダンスなど、社交的なものは全く覚えませんでした。そのかわり家庭的な針仕事や刺繍などは得意でした。
なぜアン・オブ・クレーブズが選ばれたか
ジェーン・シーモアの死後、ヘンリー8世には嫡男のエドワード6世しかいませんでした。
ヘンリー8世は、テューダー朝を守るには、新たな王妃を迎えてさらに男子の子供を増やすことを望んでいました。
しかし、ヘンリー8世は、女性なら誰でも良いというようなタイプではありませんでした。まず美人でなければなりません。次に教養があり、音楽やダンスなどが得意な女性が好きでした。
ヘンリー8世は、例のごとく便利屋のクロムウェルを呼び出し、耳元でささやきました。
参考画像:Portrait of Thomas Cromwell トマス・クロムウェル
「妃をなくして、私はとても寂しい。新しい妃を探してくれ。」というようなことをつぶやきました。
すると、クロムウェルは、「陛下、どうぞご安心を。私が探してまいりましょう。」と言って、ほくそ笑みながら、ドイツに探しに行きました。
実は、宰相のクロムウェルには、策略があったのです。
クロムウェルの策略
クロムウェルはヘンリー8世の性格や好みなど十分に知っていたと思いますが、目的はほかにありました。
彼は、プロテスタントの有力な国と手を結び、同盟を画策していました。その手段として、婚姻を利用しようということなのです。
当時、イングランドをとりまく国際事情は複雑でした。
ローマ教皇や神聖ローマ帝国との対立
イングランドとローマ教皇の対立は、もとはと言えば、ヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚を申し立てたからです。
参考画像:Portrait of Catherine of Aragon (1485-1536), first wife of Henry VIII of England (1491-1547). キャサリン・オブ・アラゴン
もともとキャサリン・オブ・アラゴンは、ヘンリー8世の兄のアーサーと結婚をしましたが、1502年、アーサー王子が急に亡くなってしまいました。
父親のヘンリー7世とイサベル女王は、イングランドとスペインの同盟を維持するために、弟のヘンリーとキャサリンの婚約を進めたいと思いました。
ご存じのように、カトリックは離婚を認めません。そこで、ヘンリー7世とイサベル女王は、アーサーとキャサリンには、夫婦関係がなかったと申し立てたのでした。
そして、ローマ教会に、特別にアーサーとキャサリンの結婚は無効だったと認めさせました。
1503年、ヘンリー王子(8世)とキャサリンの婚約を成功させました。
1509年にヘンリー8世は、キャサリンと結婚しました。しかし、妊娠と出産を繰り返し、1520年に至るまでに、無事に育ったのはメアリーだけでした。
参考画像:Portrait of Queen Mary I of England, by Antonis Mor, 1554. メアリー1世
ヘンリー8世は、男子の後継者を得ることができず、キャサリンに絶望し離婚したいと思いました。
そして、アン・ブーリンと結婚するために、今度は、キャサリンとの結婚が無効だったと主張しました。
ヘンリー8世の二転三転する主張を、ローマ教会は認めるわけにいきませんでした。
ローマ教皇との断絶
そこで、クロムウェルが登場しました。クロムウェルの献策により、ヘンリー8世は、ローマ教皇と断絶していました。
そして、カンタベリー大司教に結婚の無効を宣言させ、離婚が成立しました。
参考画像:Portrait of Thomas Cranmer トマス・クランマー(カンタベリー大司教)
ローマ教皇との決別により、カトリックのフランスや神聖ローマ帝国がイングランドに敵対する可能性がありました。
そこで、クロムウェルは、プロテスタントの「シュマルカルデン同盟」との連携を強化することで、外交的な孤立を避け、安全保障を確立しようと考えました。
宗教改革の嵐とシュマルカンデン同盟
当時、1517年に始まったマルティン・ルターの宗教改革は、急速に神聖ローマ帝国内に広まり、多くの諸侯がルター派(プロテスタント)の信仰を取り入れました。
その結果、従来のカトリック派とプロテスタント派の争いが起きました。
参考画像:Lucas Cranach (I) workshop – Martin Luther (Uffizi) マルティン・ルター
「シュマルカンデン同盟」とは、神聖ローマ帝国のカール5世に対抗するために、1530年に、ルター派(プロテスタント)のドイツ諸侯が結成した同盟です。
神聖ローマ帝国のカトリックを奉じるカール5世に攻められたら、同盟諸国は協力して戦うという軍事同盟です。
参考画像:Rubens’ replica カール5世 (神聖ローマ皇帝)
そこに目をつけたクロムウェルは、イングランドの宗教改革を推進するには、プロテスタント諸国との連携を強めていこうと思いました。
彼は、クレーフェ公国が有力なプロテスタントの領邦であり、丁度、年頃もぴったりなアン・オブ・クレーヴズを発見しました。
「なんと都合の良いことだ。これこそ神の助けに違いない。アン・オブ・クレーヴズとの結婚は、イングランドのために、絶対に成功させなければ」
クロムウェルは、おそらく天を仰ぎ、神に感謝しながら言ったのではないでしょうか。
しかし、問題は、アン・オブ・クレーヴズが、美人ではなく、ドイツ語しか話せない、ダンスも音楽も得意でない平凡な女性だったことです。
クロムウェルは、イングランドに帰り、ヘンリー8世に対し、言葉巧みに説得を試みました。
「陛下、アン・オブ・クレーヴズは、とても美人でございます。しかも従順で陛下に逆らうような人柄ではございません。この結婚は陛下にとって、最も幸福なものになるに違いありません。」
それに加えて、クロムウェルは、アン・オブ・クレーヴズの持つ政治的なつながり(シュマルカルデン同盟)を高く評価し、ヘンリー8世に彼女を推薦しました。
肖像画を見て、その気になったヘンリー8世
ヘンリー8世は、いつも身近にいる侍女の中から愛人を選んでいました。自分の好みの女性を選ぶのに都合が良かったからです。
ところが、クロムウェルは、未知の女性を推薦してきました。
ヘンリー8世は、思いました。
「いつもクロムウェルは、強引に勧めてくるが、大丈夫なんだろうか、政治的な意味はよく分かるのだが・・・結婚はそれだけじゃない、相性が悪かったら困るだろう・・・」
ヘンリー8世は、クロムウェルを呼び、耳打ちしました。
「少なくとも肖像画ぐらいは手に入れてほしいものだ」
クロムウェルは、それはもっともなリクエストだと思い、1539年の春に、宮廷画家のハンス・ホルバインをドイツに派遣することにしました。
参考画像:Hans Holbein the Younger ハンス・ホルバイン
ハンス・ホルバインは、1536年にヘンリー8世の宮廷画家になりました。ホルバインは、人物を内面から映し出すような描き方をしました。
必ずしも写実的でなくても、豪華で見栄えの良い作品が好まれました。
ヘンリー8世の評価は高く、ホルバインは、ヘンリー8世をはじめ、宮廷の関係者たちの肖像画を多数描いています。
クロムウェルは、ホルバインにアン・オブ・クレーヴズをできるだけ魅力的に描くように依頼しました。
なぜなら、クロムウェルは、これに先立ってドイツに行き、アン・オブ・クレーヴズに対面し、美人ではないことを知っていたからです。
ホルバインは、描き上げた肖像画をヘンリー8世に見せました。なかなか良い出来栄えではなかったかと思われます。
アン・オブ・クレーヴズの肖像画は、ホルバイン以外の作家の肖像画も残っているようですが、ホルバインの肖像画が一番上品で優雅な感じがします。
ヘンリー8世、アン・オブ・クレーヴズと婚約
ヘンリー8世は、ホルバインの描いたアン・オブ・クレーヴズを気に入りました。そのことをクロムウェルに伝えました。
その結果、1539年9月24日にウィンザー城で婚姻条約が締結され、その後、アン・オブ・クレーヴズは、デュッセルドルフから出発し、大陸ヨーロッパのイングランド領だったカレーに到着しました。
アン・オブ・クレーヴズは、12月11日にそこで初代サウサンプトン伯爵ウィリアム・フィッツウィリアムをはじめとする多くのイングランド貴族と会いました。
風向がよくなかったためしばらく出港を見合わせましたが、12月27日に出発して、英国ケント州のディールに上陸しました。
そこからドーバー、カンタベリー、シッティングボーンと進み、31日にロチェスターに到着しました。
アン・オブ・クレーヴズは、初めて見るイングランドの景色を見て、期待に胸を膨らませたことでしょう。
ヘンリー8世、実物を見てがっかり
1540年1月1日、アン・オブ・クレーヴズが、ロチェスターに到着したと聞くと、彼は変装して「大理石」の柄を模した色のマントを身に着け、新しい女王に会う準備をしました。
ヘンリー8世は「愛を育むため」と予めクロムウェルに告知した上で、彼と枢密院の数人とともに、ロチェスターに馬で行き、アン・オブ・クレーヴズと会いました。2人はその夜から翌日の正午すぎまで一緒に過ごしました。
クロムウェルは、ヘンリー8世の突然の行動に、多分、びっくりして止めたのではないでしょうか。アン・オブ・クレーヴズは、英語が話せません。
当時、婚約者との突然の面会に、変装して驚かすのは、フランスの騎士道の習慣に基づいたロマンチックな伝統だったようです。
現代でも、誕生会やプロポーズで、男性が女性に対して、「どっきり」とか「サプライズ」で、相手を驚かせて倍の喜びを演出するのに似ています。
この伝統はヘンリー8世とテューダー朝の宮廷で人気があり、「真実の愛」を示すことを意図していました。
そのことが予め分かっていれば問題がなかったのですが、アン・オブ・クレーヴズは、ヘンリー8世が突然現れることなど予想していませんでした。
アン・オブ・クレーヴズは、突然、ヘンリー8世が目の前に登場したので、どのように反応してよいか分からなかったようです。
おそらく、アン・オブ・クレーヴズの侍女たちも同じであったのでしょう。ヘンリー8世の特別の演出も、しらけてしまったようです。
表面上、面会が順調に終わりましたが、ヘンリー8世は、翌日にクロムウェルに対し、婚約をなんとか解消できないかと打診しましたが、正当な理由が見つかりませんでした。
スピード結婚、スピード離婚
結婚式は1540年1月6日に挙げられました。
クロムウェルは同年4月にエセックス伯爵に叙されましたが、急転直下、6月にはロンドン塔に投獄されました。政敵のノーフォーク公から反逆罪で告発されたのでした。
参考画像:Thomas Howard, third Duke of Norfolk by Hans Holbein the Younger トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)
そして秘かに処刑されました。ヘンリー8世は、余程、クロムウェルを恨んだのか、わざと未経験の処刑人に担当させて、苦痛を味合わせたと言われています。
この急激な変貌には、一体、何が起きたのでしょうか?
『英国人名事典』の見解では、当時ヘンリー8世が神聖ローマ皇帝カール5世と対立しており、クロムウェルはヘンリー8世とアンの政略結婚でプロテスタント支援を表明し、カール5世の背後に面倒を引き起こすことを狙っているとみなされました。
しかし、ヘンリー8世がドイツのプロテスタント諸侯との同盟を解消し、カール5世と和解しようとしたため、その障害となるクロムウェルを処刑することにしたと言われています。
ひとつには、アン・オブ・クレーヴズとの気の進まない結婚があります。その原因を作ったのは、クロムウェルだと断言しました。
そのほかには、保守派のノーフォーク公(カトリック派)の反対勢力が勢力を盛り返してきたことです。
彼らは、アン・オブ・クレーヴズの古い婚約者を探し出し、その関係が完全に解消されていないことを理由に、結婚は無効だと主張しました。
このことは、ヘンリー8世にとって、「渡りに船」、あるいは「助け船」だったかもしれません。
また、ヘンリー8世は、便宜的にローマ教会と断絶しましたが、教義的にはカトリックの要素を残していました。それにルター派の急進的な宗教改革路線には抵抗感を持っていました。
それに、ヘンリー8世は、離婚に関しては、すでに「自由」を持っていました。ローマ教会と断絶し、1534年にイングランド国教会を設立していました。
参考画像:Central tower and south transept of Canterbury Cathedral, Canterbury, Kent, England イングランド国教会の総本山・カンタベリー大聖堂
アン・オブ・クレーヴズとの離婚に、何の障害もありませんでした。
しかし、現代の日本の夫婦だったら、あっさり承諾できるでしょうか。夫がヘンリー8世のように、いきなり、離婚届の用紙を取り出し、
「僕たちは、性格が合わないし、価値観も違うので、離婚届に印鑑を押してくれ」
そう言われても、「今更、何を言っているの?離婚なんて、冗談じゃないわ。性格が合わないなんて勝手な言いぐさじゃないの!」と、思いますよね。
ヘンリー8世は、結婚して以来、離婚しようと思い、アン・オブ・クレーヴズを態度と行動で、紳士的に説得しようと思いました。それというのも、彼女には非難すべき落ち度もなく、反抗的でもなく、処刑に値する罪も犯していませんでした。
離婚の動機は、ヘンリー8世は、多分、アン・オブ・クレーヴズに性的な魅力を感じなかったのでしょう。ベッドをともにしましたが、何もせずに帰っていきました。
アン・オブ・クレーヴズは、最初は、それが普通のことなのだろうと思っていました。しかし、侍女も心配して、どうしたらよいか困っていました。
ヘンリー8世は、毎晩、アン・オブ・クレーヴズに囁きました。
「もご、もご、もご、・・・」
そう言いながら、何もせずに帰っていきました。
ヘンリー8世の言葉は、英語を覚えていないアン・オブ・クレーヴズに正しく伝わりませんでした。
ヘンリー8世は、もごもごと口の中で、話しているのですが、彼女には理解できませんでした。
彼女は、何とか理解したいと思い、多分、侍女とも相談したのではないでしょうか。ヘンリー8世の言った言葉を思い出しながら、彼が言いたいことを想像しました。
それはどうやら、
「ああ、愛しいアン、私の大事なアン、私は呪われている・・・何か悪いものに呪われて、大事な夫婦関係ができない、これは、私にとっても、あなたにとっても不幸なことだ。」
と言っているようでした。
そして、アン・オブ・クレーヴズ自身は6月25日に離縁を告知され、最初は驚いて倒れたものの、「やはり、そうだったか」と思い、やがて同意しました。
「王の妹」(the King’s Beloved Sister)という称号と所領(アン・ブーリンの邸宅の一つヒーヴァー城もその中に含まれる)、年金を与えられ、ロンドン市内のベイナーズ城で余生を送りました。
参考画像:ONL (1887) 1.198 – Baynard’s Castle, 1790 テムズ川沿いのベイナーズ城
離婚の理由としては、かつてロレーヌ公フランソワ1世の弟の二コラ・オブ・ロレーヌと交わした婚約をきちんと解消していなかったことが選ばれました。
無理やりこじつけたような理由でしたが、アン・オブ・クレーヴズは逆らいませんでした。
アン・オブ・クレーヴズの次の王妃キャサリン・ハワードが失脚した後、彼女を再び王妃にする動きがありましたが、実現しませんでした。
代わりにヘンリー8世とキャサリン・パーの結婚式に出席し、メアリー1世の戴冠式にも出席しました。
ヘンリー8世が学識にあふれ、音楽やダンスを好んだのに対し、アン・オブ・クレーヴズは、ドイツ語しか読み書きができず、音楽やダンスの教育も受けていませんでした。
しかし、イングランドに住むと決めて以降は英語に適応し、さほど不自由もしなかったようです。
ヘンリー8世の6人の王妃の中でアンは最後まで存命していましたが、ルター派のプロテスタントだったため、カトリックのミサへの出席を迫るメアリー1世の時代には、のちのエリザベス1世と「宮廷でミサに出席しない」2人組となりました。
エリザベス1世の即位前、1557年7月16日に没し、8月3日にウェストミンスター寺院に埋葬されました。
参考画像:Westminster Abbey ウェストミンスター寺院
なぜ、アン・オブ・クレーヴズはイングランドに残ったか
アン・オブ・クレーヴズが離婚後、ドイツに帰らずにイギリスに残った理由はいくつか考えられます。
ヘンリー8世との離婚の際、彼女は非常に寛大な和解金と年金を与えられました。
これにより、ドイツに戻るよりも経済的に安定した生活を送ることができました。
元イングランド王妃という地位は、イギリス国内で一定の敬意と影響力を持つことを意味しました。
ドイツに戻ったとしても、これほどの地位を得られる保証はありませんでした。
離婚後もヘンリー8世との関係は比較的良好であり、彼の子供たち、特にメアリーやエリザベスとも良い関係を築いていました。
イギリスに留まることで、彼女は王室との繋がりを保つことができました。
彼女自身がイギリスでの生活を望んだ可能性も十分にあります。離婚後、比較的自由な生活を送ることができ、再婚の意思もなかったようです。
アン・オブ・クレーヴズは1557年7月16日に41歳(当時の記録に基づく)で亡くなりました。
彼女の死因となった病名は特定されていません。当時の医療水準では正確な病名を特定することが難しかったと考えられます。
アン・オブ・クレーヴズの財産は、彼女の遺言に従って、主に義理の娘であるメアリー1世とエリザベス1世に引き継がれました。
彼女はメアリーに最も高価な宝石を、エリザベスには二番目に高価な宝石を遺贈したとされています。
若く魅力的なキャサリン・ハワード

キャサリン・ハワードは、1523年頃にノーフォーク公爵家の出身として生まれました。キャサリン・ハワードは、ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンの従妹にあたります。
参考画像:Portrait miniature of a lady, perhaps Katherine Howard, by Hans Holbein the Younger. キャサリン・ハワード
父親は、第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの息子のエドムンド・ハワードです。母親は、ジョイス・カルカペーです。エドムンドは、名門の生まれでしたが経済的に困っていました。
そこで彼は、なんと持参金目当てで結婚を繰り返しました。その結果、妻の連れ子を引き取って育てていたため、20人以上の子どもがいました。かえって不経済ではなかったかと思います。
経済的な理由から、キャサリンは、父の義理の母親にあたるノーフォーク公爵夫人のアグネス・ティルニーに引き取られました。
キャサリンは、美貌であったため、すぐに恋人ができました。
貞操観念はあまりなかったのでしょう。恋人を部屋に連れ込み、音楽教師のヘンリー・マノックスなどと、次々と恋の遍歴を重ねていきました。
また、あってはならない関係として、ノーフォーク家の家令のフランシス・デレハムと関係を持ったりしました。この時、キャサリンは、まだ16歳ぐらいでした。デレハムは30歳ぐらいでした。
デレハムとは、親密な関係となり、「夫」、「妻」と呼び合うほどの深い仲だったといわれています。この関係が、ヘンリー8世の妃になってからも続いたことから、彼女の悲劇的な運命を招く原因のひとつになりました。
そのようなキャサリンでしたが、アン・ブーリンの従妹であったため、1539年、アン・オブ・クレーヴズの侍女として宮廷入りができました。
キャサリン・ハワードは、美人であったため、すぐにヘンリー8世の目に留まったようです。
1540年、ヘンリー8世は4番目の王妃アン・オブ・クレーヴズとの結婚を解消し、同年7月28日にキャサリンと結婚しました。キャサリン・ハワードは、アン・オブ・クレーヴズの侍女の一人でした。
当時、ヘンリー8世は49歳、キャサリンは20歳前後とされています。ヘンリー8世は、年の離れたキャサリンを「私の薔薇」とか、「私のいばらのない薔薇」と言って、可愛がりました。
肖像画を見ると、あどけなさと純粋さが混然とした可愛らしさと、少し大人びた女性の艶やかさを持ち合わせたような表情をしています。
ヘンリー8世は、若く美しいキャサリンに夢中になり、彼女を深く愛しました。彼はキャサリンに多くの贈り物を与え、彼女のために豪華な宮廷生活を送らせました。キャサリンも当初はヘンリー8世の愛情に応え、宮廷では明るく社交的な王妃として振る舞いました。
恋愛と不倫に陥ったキャサリン・ハワード
しかし、キャサリンには王との結婚前に複数の男性との間で恋愛関係があったという噂がありました。結婚後、これらの過去の関係が宮廷内で囁かれるようになりました。
国王の側近は、キャサリンの行動を調べ上げました。1541年秋には、キャサリンが結婚前にフランシス・デレハムという男性と婚約していたこと、さらにヘンリー8世との結婚後にもトーマス・カルペパーという廷臣と不適切な関係を持っていた疑いが浮上しました。
キャサリンは、遠縁のトマス・カルカペーや以前に恋人であったフランシス・デレハムと関係を疑われ訴えられました。
ヘンリー8世は、これらの報告に激怒し、キャサリンの行動を裏切りと見なしました。枢密院による調査の結果、キャサリンとデレハム、カルペパーとの関係は事実であると認定されました。
運の悪いことに、キャサリンはカルカペーに宛てた手紙を発見されてしまいました。その手紙には、キャサリンがカルカペーを愛していると書かれていました。
しかも、この不倫にはアン・ブーリンの義妹で、キャサリンの侍女となっていたジェーン・ブーリンが手引きをしたことが明らかになりました。
1541年11月、キャサリンは王妃としての称号を剥奪され、ロンドン塔に幽閉されました。彼女は、結婚前の不適切な行為と、結婚後の不貞行為という大逆罪で起訴されました。
参考画像:Engraved キャサリン・ハワードの処刑
1542年2月13日、処刑の時に、キャサリンは、「トマス・カルカペーの妻として死にたかった」と言ったと伝えられています。
ハンプトン・コート宮殿の廊下では、今もキャサリンの幽霊が無実を訴えようと出没する怪奇スポット「ホーンテッド・ギャラリー」(幽霊の廊下)として、世界に知られています。
参考画像:Hampton Court Palace in East Molesey, England, United Kingdom. by DiscoA340 is licensed under CC BY-SA 4.0 「ホーンテッド・ギャラリー」と呼ばれるハンプトン・コート宮殿の廊下
献身的なキャサリン・パー

キャサリン・パーは1512年頃、イングランド北部のケンダルで生まれました。
参考画像:A portrait of Catherine Parr (1512–1548), sixth and last wife of Henry VIII of England by William Scrots? キャサリン・パー
彼女は裕福な貴族の家に育ち、高度な教育を受け、ラテン語、フランス語、イタリア語を話すことができました。また、宗教的な知識も深く、プロテスタントの思想に共感していました。
キャサリンは、ヘンリー8世と結婚する前に2度の結婚を経験しています。
最初の夫エドワード・バラは1533年に亡くなり、2番目の夫ジョン・ネヴィル(ラティマー卿)は1543年に亡くなりました。2度目の夫を亡くした頃、キャサリンは未亡人として裕福で教養のある女性として知られていました。
ヘンリー8世は、5番目の王妃キャサリン・ハワードを処刑した後、新たな妃を探していました。
彼は、若くて美しいだけでなく、知性と教養を持ち、自身の晩年を支えてくれるような女性を求めていました。キャサリン・パーは、まさにそのような女性としてヘンリー8世の目に留まったのです。
ヘンリー8世は、キャサリンの知性と信仰心、そして彼女が2度の結婚で得た経験に惹かれたと言われています。
また、病気がちになっていたヘンリーにとって、献身的に看護してくれるであろうキャサリンの存在は心強く感じられたのかもしれません。
1543年7月12日、キャサリン・パーはハンプトン・コート宮殿でヘンリー8世と結婚しました。当時、ヘンリー8世は52歳、キャサリンは31歳でした。
ヘンリー8世の介護と娘たちの教育
王妃となったキャサリンは、ヘンリー8世の健康を気遣い、献身的に看護しました。
参考画像:A portrait from the Welsh Portrait Collection at the National Library of Wales. Depicted person: Henry VIII of England – King of England from 1509 until 1547 ヘンリー8世とキャサリン・パー王妃の肖像
また、彼女自身の知性と教養を活かし、宮廷内で文化的な活動を奨励しました。彼女は、プロテスタントの学者や思想家を庇護し、宗教改革の思想がイングランドに広まる上で重要な役割を果たしました。
キャサリンは、ヘンリー8世の子供たち、特にメアリー王女(後のメアリー1世)とエリザベス王女(後のエリザベス1世)の教育にも熱心に取り組みました。
彼女自身も教養が高かったため、子供たちの教育に良い影響を与え、彼女たちの将来に貢献しました。
1544年、ヘンリー8世がフランス遠征に出陣した際には、キャサリンはイングランドの摂政を務め、その政治手腕を発揮しました。彼女は、国内の安定を維持し、ヘンリー8世の不在中の国政をしっかりとサポートしました。
ヘンリー8世は、晩年、肥満や痛風など多くの病に苦しんでいました。キャサリンは、夫の健康状態が悪化する中でも、献身的に看病を続けました。
1547年1月28日、ヘンリー8世は死去しました。キャサリンは、夫の死を深く悲しみましたが、王妃としての義務を果たし、ヘンリー8世の葬儀を取り仕切りました。
ヘンリー8世の死後、キャサリンは王太后となりました。彼女は、ヘンリー8世の遺言によって経済的な安定を得て、自身の意思で生活を送ることができました。
キャサリン・パーのその後
ヘンリー8世が1547年1月28日に亡くなった後、キャサリン・パーは王太后となりました。
ヘンリー8世は遺言でキャサリンに手厚い待遇を与えると定めており、彼女は経済的な安定を得て、自身の意思で生活を送ることができました。
しかし、キャサリンはヘンリー8世の死から間もない1547年5月、かつての恋人であったトーマス・シーモアと再婚しました。
参考画像:Portrait of Thomas Seymour, 1st Baron Seymour of Sudeley (c.1508-1549) トマス・シーモア
トーマス・シーモアは、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモアの兄弟であり、当時、若くハンサムで野心的な廷臣でした。
彼は、新国王エドワード6世(ジェーン・シーモアの息子)の叔父にあたります。
この再婚は、宮廷内で大きな波紋を呼びました。王太后がヘンリー8世の死後すぐに再婚すること、そして相手が王の近親者であったことは、多くの人々に不快感を与えました。
特に、国王の摂政であったサマセット公(トーマス・シーモアの兄)は、弟の野心的な行動を警戒していました。
参考画像:Portrait of Edward Seymour, Earl of Hertford and 1st Duke of Somerset, c. 1500 – executed 1552, located at Weston Park, Trustees of the Weston Park Foundation, Brother of Jane Seymour, uncle to Edward VI. Lord Protector in Edward’s reign until he fell from favor and was executed. エドワード・シーモア(初代サマセット公)
キャサリンとトーマスは、グロスターシャーにあるスードリー城で生活を始めました。この頃、キャサリンはヘンリー8世の娘であるエリザベス王女(後のエリザベス1世)を自身の庇護下に置き、共に暮らしていました。
しかし、トーマス・シーモアはエリザベスに不適切な関心を抱き、二人の間で不穏な関係が築かれました。キャサリンはこれに気づき、最終的にエリザベスを遠ざけました。
1548年、キャサリンは36歳で初めての子となる娘メアリー・シーモアを出産しました。しかし、その直後の9月5日、キャサリンは、産褥熱のために亡くなりました。
彼女の死後、トーマス・シーモアはエリザベスとの結婚を画策するなど、更なる野心的な行動に出ますが、最終的には大逆罪で処刑されました。
キャサリン・パーのヘンリー8世亡き後の人生は、短いながらも激動に満ちていました。彼女は自身の愛情を貫き再婚しましたが、それが新たな問題を引き起こし、自身の早すぎる死へと繋がってしまいました。彼女の娘メアリーもまた、幼くして亡くなっています。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
王妃アン・ブーリンの華麗な変転の人生
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「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
---|---|
得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
今回の王妃たちの話は如何でしたか。
アン・オブ・クレーヴズは、離婚となりましたが、その運命を受け入れたため、手厚く保護されました。キャサリン・ハワードは、せっかく美人であったのに、過去の恋愛遍歴が災いしました。宮廷に入ってからも廷臣と不適切な関係を持ったことで処刑されてしまいました。
最後に妃となったキャサリン・パーは、知性と教養、そして信仰心を持ち合わせた賢明な女性であり、ヘンリー8世の晩年を支え、子供たちの教育に尽力しました。彼女の存在は、激動のテューダー朝において、一時の安らぎをもたらしたと言えるでしょう。
王の死後、かつての恋人と再婚しましたが、産後まもなく亡くなってしまいました。再婚せず、王太后のまま一生を暮らせば、安泰ではなかったかと思いますが、彼女の人生は思うようにいきませんでした。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
トラブルに巻き込まれれてしまい、落ち込んだ気持ちでいましたが、大変癒されるとともに前向きな気持ちになりました。
以前も辛い時、優しく親身になって聞いて下さったので多聞先生にお願いしたいと思っていたところ、偶然お見かけすることができたので本当に嬉しかったです。
たくさんのアドバイスもいただき、社会勉強にもなりました。
今回も、先生に聞いてもらえて本当に良かったです。ありがとうございました。