源氏物語の賢木・花散里・須磨・明石の笑訳
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2024年9月6日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、紫式部の「源氏物語」の中の「賢木」(さかき)、「花散里」(はなちるさと)、「須磨」(すま)、「明石」(あかし)までの帖について、お話をしたいと思っております。
源氏は、葵上(あおいのうえ)を亡くし、寂しい思いをします。六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が、伊勢に行くという話を聞き、会いに行きます。
一方、源氏は、朧月夜(おぼろづきよ)との関係を続けており、右大臣に現場を見つかってしまいます。源氏は、どんな罪を着せられるかわからないので、須磨に蟄居しました。
あるとき、亡き桐壺帝が夢に現れ、須磨を離れよという言葉を聞き、須磨を去ることにしました。同時に明石の入道も同じような夢を見て、明石に源氏を迎えに来ました。
源氏は、明石に行き、入道の娘と出会い、結婚しました。やがて、美しい姫君が生まれました。これが明石の姫君です。
彼女は源氏物語の中心人物のひとりとなります。これ以降も源氏の波乱万丈の物語は続きます。
賢木(さかき)・六条御息所との別れ
「賢木」(さかき)の帖では、源氏と六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)との別れが書かれています。
源氏の正妻の葵上(あおいのうえ)が、亡くなり、世間では、源氏と六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が結婚するのではないかと噂になりました。
六条の屋敷の者たちは、源氏と六条御息所が結婚すれば、何と喜ばしいことであろうかと大きな期待を持っていました。
ところが、源氏はそれに反して、冷淡な態度を取り続けました。源氏には紫上(むらさきのうえ)がいましたし、葵上(あおいのうえ)が亡くなったのも、六条御息所の生霊のことが原因となったことが、源氏の胸に突き刺さっていたのではないかと思われます。
六条御息所も、自分が葵上を呪い殺したのではないかと悩んでいます。源氏が、そのことに気付いているのではないか、とも疑います。
参考画像:上村松園『焔』(東京国立博物館所蔵)
それに、いつまでも源氏を恋焦がれる自分自身に、半ば嫌気がさし、終止符を打ちたいと思うようになりました。
そのような時に、六条御息所の娘が、「斎宮」(さいぐう)に選ばれました。彼女は、後に、源氏の養女となりました。その後、冷泉帝の妃となります。彼女は、「秋好中宮」(あきこのむちゅうぐう)と呼ばれました。
伊勢に出発する直前に、六条御息所は、野宮(ののみや)に娘といっしょに滞在していました。そこは、斎宮が身を清める場所でした。
野宮とは、風光明媚な嵯峨野(京都市右京区)などの清浄な地に設けられた施設です。斎宮に選ばれると、宮中で1年、野宮で1年、身を清めます。
源氏は野宮(ののみや)を訪れました。源氏は、野宮(ののみや)で六条御息所と最後の別れを惜しみました。
その冬には、父である桐壺帝が亡くなり、藤壺は実家に戻ることになりました。政権は、右大臣に移り、藤壺は頼る人がなく、我が子の東宮の後見としての源氏に頼りたいと思っていました。しかし、源氏の意識は、後見役などに興味はなく、藤壺を愛人として求愛し続けています。
藤壺の思いは、自分と源氏の不倫が最後まで、桐壺帝に秘密にできたことで、心の悩みがひとつ減り、安心しました。しかし、東宮を守るためには、源氏との仲を公にするわけにはいきません。そのような事態となれば、流罪や処刑も免れません。
そのような緊迫した事態の中であるのに、源氏の求愛はそれ以後も続いていました。藤壺は、我が子を守るには、源氏との仲を断たなければならないと考え、藤壺はついに出家を決心しました。情に流されず、思い切った決断でした。
源氏は、藤壺の心の中まで考えることができませんでした。しかし、彼を取り巻く政治的な状況の変化は、否が応でも受け入れざるを得ません。
斎宮(さいぐう)とは
斎宮(さいぐう)とは、日本の古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕のためにいかされる女性です。斎王は、天皇の即位ごとに選ばれます。
斎宮は、「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所があったところを言います。
斎王は、天皇に代わり伊勢神宮に仕えます。皇族女性の中から選ばれ、伊勢神宮に派遣されました。
参考画像:Saiō in Heian Imperial kimono (from 2006 Saiō Matsuri) by Ka-ru is licensed under CC BY-SA 3.0
斎王に選ばれると、宮中に定められた初斎院(しょさいいん)に入り、翌年の秋に都の郊外の野宮(ののみや)に移り、潔斎の日々を送り、身を清めました。
その後、翌年の9月、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめまつり)に合わせて都を旅立ちました。
斎王が都にもどれるのは、天皇の譲位や崩御、肉親の不幸などの場合に限られています。そのため、天皇一代に対し、一人の斎王が、決められます。
在原業平と斎宮・恬子内親王(てんしないしんのう)の恋
斎宮は、一切の関係を断って、神に仕える仕事です。恋愛や結婚も許されませんが、例外となったケースもあります。
恬子内親王(てんしないしんのう)は、859年、清和天皇の即位に伴って斎宮に選ばれました。恬子内親王は、父親が文徳天皇で、母親は更衣の紀静子(きのしずこ)です。
「伊勢物語」では、第69段「狩の使」で、恬子と在原業平との一夜のロマンスが語られています。
参考画像:「三十六歌仙額」 在原業平朝臣/青蓮院宮尊純親王
光源氏のモデルの一人である在原業平は、伊勢に立ち寄った時に、斎宮と結ばれました。斎宮は、本来は男女関係を持ってはいけない立場でしたが、母親から最高のもてなしをするように手紙が届けられていました。
そこには、近々勅命により、「狩の使」が下向するので、丁重にもてなすようにと書かれていました。この「狩の使」が、在原業平とみなされています。
恬子内親王は、母親の言う通りに、在原業平をもてなしました。業平は、恬子に恋心を抱いてしまいました。夜になると、恬子が業平の寝所までやってきました。業平は、とても喜び、彼女と一夜をともにしました。
恬子は、妊娠して男の子を産みました。事件の発覚を恐れた伊勢神宮では、伊勢権守(いせごんのかみ)の高階峯緒の子である茂範の養子としました。それが、後の高階師尚(たかしなのもろなお)であると言われています。
朧月夜との危険な関係
桐壺帝が亡くなったため、次の朱雀帝に移りました。政治の実権は、母親の弘徽殿の女御の父親の右大臣に移り、権勢をふるうようになりました。
源氏にとっては、不都合な事態となりましたが、成り行きには逆らえません。左大臣も辞職しました。源氏の後援者は、誰も宮中にはいません。彼も宮中への出仕を休むようになりました。
それでもなお、源氏は、右大臣の娘の朧月夜(おぼろづきよ)との恋愛関係を続けていました。しかし、本当は、この関係は、絶対に避けなければならない「危険な情事」であったのです。
朧月夜は、尚侍(ないしのかみ)となり、女官としては最高位になります。朱雀帝は、朧月夜を寵愛しました。ところが、源氏は、朧月夜との仲を解消せず、関係を続けていたのです。
源氏は、朧月夜の魅力に負けてしまったのでしょうか、それとも、単にルーズな性格であったのでしょうか、源氏物語の読者は、ハラハラドキドキして読んだのではないでしょうか。
朧月夜も、源氏との関係を断ることができませんでした。源氏のように、不倫を続けるような悪い男ほど、悪魔的な魅力があったかもしれません。
参考画像:from the series “Genji-kō no zu”
それに反して、育ちの良い朱雀帝は、頼りなく面白みが薄かったかもしれません。朧月夜は、罪の意識を感じながらも、源氏の蠱惑的な魅力から離れられません。朧月夜からは、女性の弱さを感じることができます。
朧月夜は、藤壺のように、源氏の愛を断ることができませんでした。源氏も、危険な恋を避けることもせず、通い続けていました。
この不倫が露見すれば、無事ではすまされません。そんなスリルを味わっていたのでしょうか。
そして、ついに密会現場を右大臣に目撃されてしまいました。右大臣は、源氏の官位をはく奪しました。さらに謀反の罪をきせようと画策しました。
ここまでくると、源氏もようやく、「このままでは、無事にすまされない」と感じるようになりました。
恋多き光源氏は、メンタルの病気ではなかったか?
「源氏物語」や「光る君へ」のファンの方には、源氏が、病気だなんて言えば、不愉快な話になってしまうかもしれませんが、あまりにも移り気な源氏を見ていると、精神的に問題があったのではないかと心配になります。
源氏の行動をみると、いくつかの点で、パーソナリティ障害の特徴と似通っているところがあります。
源氏物語では、源氏は、新たな恋を求めて、いろいろな女性と関係を持つというのが、文学的に美しく描かれています。ひとりの女性を深く愛する物語ではありません。
なぜ、正妻もいるのに他の女性を求めるのか、源氏の心は、愛に対して常に不安を抱いてしまう心の表れではないかと思えなくもありません。
源氏は、幼い時に母親をなくしています。子どもにとって、母親は絶対の愛という存在であって欲しいと思うのが当然でしょう。
ところが、藤壺は、あくまでも帝の妃であり、母親代わりにはなりませんでした。源氏は、母親に似た藤壺に、自分の母親の面影を求めていました。
つまり、源氏の心の中には、理想の女性像として、藤壺があり、打ち消すことができなかった存在でした。
しかし、藤壺は、帝の妃であり、自分の恋人にはできない存在です。源氏は、藤壺の幻影を他の女性に求めますが、「帯に短し、たすきに長し」で、ピッタリの女性は見つかりません。
紫上(むらさきのうえ)を理想の女性に育てようとしますが、物語の中では、紫上の存在があっても、違う女性との関係を次から次へと求めていきます。
参考画像:Ilustration of the The Tale of Genji, ch.5–Wakamurasaki, traditionally credited to Tosa Mitsuoki (1617–1691), part of the Burke Albums, property of Mary Griggs Burke
彼の気持ちの中では、理想の女性の存在が、常に不安定であり、いつ失うかもしれないという恐れが消えないことから、ひとりでは満足できなかったのです。
現代においても、経済的に余裕のある男性は、何人も愛人を持つことに躊躇することはないかもしれません。一夫多妻制度が認められるアラブの石油王のように、何人も妻を持つことは、男性のステータス・シンボルを誇示する行為とも見られます。
高級車に趣味を持つ男性は、通勤にはベンツやBMW、アウディなどドイツ車を好んで乗っています。レジャー用のスポーツカーになると、スタイリッシュなイタリア車やフランス車など、好みは様々です。
高級車に限らず、最近はクルーザーと呼ばれるヨットなどにも趣味が広がっています。クルーザーは、イタリア製が最高だそうです。アメリカのフロリダのヨットハーバーなどの光景を見ると、ゴージャスなクルーザーが並んでいます。お金に余裕のある大富豪になれば、何種類もの船を揃えて、航海を楽しむことができるのです。
源氏が女性に対して、現代の男性の車やクルーザーと同じように考えていたのかどうか、わかりませんが、頭中将などと競い合うところを見ると、愛人比べをして、自慢しあうという所有物的な存在であったのかとも思います。
そういう面はあったにしても、女性は人間ですので、車やクルーザーのように金銭で購入するものではありません。恋愛は、心が通い合わなければ成り立ちませんので、源氏は、和歌を送ったり、優雅な会話をしたり、女性の心をつかむのが上手であったのでしょう。
パーソナリティ障害とは、社会の大多数の人と大きく違うことで、社会生活が上手く送れないという状態を表しています。例えば、物事のとらえ方が偏っているとか、感情の表し方に異常な面があるとか、感情をうまくコントロールできないとか、対人関係がうまくいかないなどの特徴があります。
源氏が、パーソナル障害にあたるかどうかについては、専門の医師の判断に任せることが適切ですが、皇子として生まれ、贅沢な環境で育ってはいますが、どこかに、満たされない孤独な思いが消せないという苦しみの中で生きて来たという気がします。
パーソナル障害には、様々な原因が考えられますが、アメリカの精神医学会の診断基準では、次のように分類しています。
①妄想性パーソナリティ障害 | 周囲への不信感が強い |
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②シゾイドパーソナリティ障害 | 非社交的で他者への関心が乏しい |
③統合失調型パーソナリティ障害 | 風変りで周囲に流されない |
①境界性パーソナリティ障害 | 感情が不安定、衝動的な行動が多い |
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②自己愛性パーソナリティ障害 | 自信過剰で自分の評価にこだわる |
③反社会性パーソナリティ障害 | 反社会的な行動をとる |
④演技性パーソナリティ障害 | 周りの注意を集めようとする |
①依存性パーソナリティ障害 | 他者への依存が強い |
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②強迫性パーソナリティ障害 | 物事に執着し融通がきかない |
③回避性パーソナリティ障害 | 自信がなく物事におびえる |
これらの特徴が組み合わされて他の精神疾患を伴う場合もあります。その結果、薬物依存、うつ病、社会不安障害などの症状を起こします。
原因については、人によって違いがありますが、よくあるケースは、先天的に脳の働きが、ぜい弱なために、幼い時から不安を抱きやすいなど、メンタルが弱いため、集団生活に馴染めないということが原因となることが多いと言われています。
遺伝性もありますが、後天的な場合、幼い時期に母親との愛情関係が築けなかった場合、自己の確立や感情のコントロールがうまくできないということが解明されています。
成長の過程で親が子どもを褒めたり、認めたりせず、欠点ばかりを指摘し、子どもの人格を否定し続けると、子どもが委縮して、親の価値観に合わせすぎる「真面目な優等生」で育ってしまうということになります。
この場合、本人は自己否定感が強くなり、幸せを感じることができにくくなり、精神障害を発症しやすくなると言われています。
花散里(はなちるさと)のあらすじ
源氏は、桐壺院の妃であった麗景殿女御(れいけいでんのにょうご)をたずねてみようと思いました。
彼女は、皇子を産みませんでしたので、恵まれた生活はできませんでした。源氏は、気の毒に思い、生活の援助をしていました。以前は、麗景殿女御の妹の花散里(はなちるさと)と契りを結んだことがありました。
参考画像:Tosa Mitsunobu – Falling Flowers (Hanachirusato), Illustration to Chapter 11 of the Tale of Genji (Genji monogatari) – 1985.352.11.A – Harvard Art Museums
源氏は、花散里のこともなつかしく思い、同時に会っていきたいと思いました。その途中、中川(京都市上京区)あたりに、昔の恋人の家がありました。
その家からは、琴の音が聞こえました。ホトトギスの声もして、何か心地よい気分になって、その家に誘われているように思いました。
そこで、源氏は和歌を渡して安否を尋ねることにしました。しかし、昔の恋人からは無視されてしまいました。
気まぐれな源氏のことを知っているので、本気にはとられなかったのかもしれません。何の反応もないので、源氏は寄っていくのをあきらめました。
その後、源氏は、麗景殿女御の屋敷に到着しました。庭には、橘の花が咲き、良い香りを漂わせています。
源氏は、麗景殿女御と語り合った後、花散里の部屋を訪れました。花散里は、長い間、源氏の訪問はありませんでしたが、心変わりせず、歓待してくれました。なんと優しい女性なのでしょう。
途中で寄ろうとした中川の昔の恋人に比べると、花散里の心の優しさや温かさに、とても癒されました。
須磨(すま)のあらすじ
ある晩の事、源氏は、朧月夜との密会を右大臣に目撃されてしまいました。朧月夜は、帝となった朱雀帝の寵愛を受けています。
右大臣としては、源氏を反逆罪で流罪としようとしました。源氏は、流罪を免れるために須磨に引きこもることにしました。
須磨と言う場所は、現在の兵庫県神戸市須磨区にあたる所です。瀬戸内海を望む須磨の浦は、名高い白砂清松の景勝地として有名です。
平安時代は、須磨は、平安京に住む人々のわび住まいの場所であり、流刑の場所としては、もっとも軽い場所でした。在原業平の兄の在原行平が、天皇の怒りを買い流された地でもあります。
在原行平と松風・村雨との恋
在原行平(ありわらのゆきひら)は、文徳天皇の時に、須磨に蟄居を余儀なくされ、須磨で寂しい生活をしたと言われています。
参考画像:Ariwara no Yukihira
この須磨の地で、行平の心を慰めたのは、村長の娘の「もしほ」と「こふじ」でした。
ふたりは須磨へ塩を作るために海岸へ汐汲みに通っていたところ、行平に出会いました。行平は、ふたりに「松風」と「村雨」という名前をつけました。
3年後、行平が天皇の許しを受けて、都に帰ることになりました。
行平は、二人との別れを惜しんで、「立ち別れ、いなばの山の、峰に生ふる、待つとし聞かば、いま帰り来む」という歌を詠みました。
明石(あかし)のあらすじ
暴風雨が、幾日か続き、源氏の屋敷に雷が落ちました。火災が起きて屋敷の一部を焼失してしまいました。
その夜、源氏は疲れ果て、眠るともなく意識を失ってしまいました。すると、亡き帝の桐壺帝が夢に現れました。
桐壺帝は、住吉大社の祭神の導きによって、須磨を立ち去るようにと言いました。翌日、明石の入道が源氏を迎えにきて、船で明石に向かいました。
参考画像:Sumiyoshi Taisha Main Shrine in Osaka. by Saigen Jiro is licensed under CC0
明石の入道の屋敷は、とても立派なものでした。明石の入道は、自分の娘を源氏に引き合わせました。
源氏は、明石の入道の娘をとても気に入りました。和歌を送り、結婚することになりました。
明石の入道の娘との出会い
どんなに辺境の地に行ったとしても、源氏の行くところには、恋が芽生えます。
現在では、須磨は風光明媚な場所で、海岸の美しいところです。当時は、都から遠く離れた寒村であったので、華やかな生活をしていた源氏にしてみれば、寂しい場所であったと思ったかもしれません。
須磨に移った源氏の生活は、厳しいものとなりました。ぜいたくもできませんし、親しい人たちとも別れ、孤独な生活となりました。
毎日、絵を描いたり、和歌を詠んだりしていましたが、寂しい思いはなかなか消せませんでした。
そのような源氏のことを聞きつけた明石の入道は、自分の娘を源氏に引き合わせようと考えました。
年が明けて、2月となり、親友の宰相中将(頭中将)が源氏を訪れてきました。源氏は、久しぶりに京の話を聞き、慰められました。
3月になり、源氏が海辺で「上巳の祓」(じょうしのはらえ)を行いました。その時、突然、暴風雨となり、恐ろしい思いをします。
さらに明け方には悪夢を見て、源氏は、須磨から立ち去りたいと思いました。
明石の入道とは、どんな人
「明石の入道」とはどんな人物なのでしょう。
「入道」とは、多くは、もとは公家や武家などの在家の人ですが、仏門に入り、修行を行っている人です。
明石の入道は、光源氏の母方の祖母の甥にあたる人です。桐壺の更衣とは、いとこ同士になります。父は大臣で、妻も高位の出の人です。明石の入道も、三位中将(さんみのちゅうじょう)という高官でした。
宮中の仕事に見切りをつけて播磨守(はりまのかみ)となり、そのまま出家して明石に住んでいました。
娘の良縁を住吉明神に祈願したところ、霊夢を見て、光源氏を明石に招きました。そして、源氏と結婚させ、娘が生まれました。それが明石の姫君です。
明石の姫君は、この後の「澪標」(みおつくし)から「手習い」(てならい)までに再度登場します。
源氏は、明石の姫君を紫上(むらさきのうえ)の養女とします。そして、東宮の妃となりました。まもなく懐妊し、その子が男子であったため明石の入道は大変喜びました。
入道としては、満願成就であったので、現世を捨てて入山しました。
明石の姫君の重要性
明石の姫君は「源氏物語」の中で非常に重要な人物です。彼女は、紫上(むらさきのうえ)の養女となり、高い教育を受けました。彼女は後に東宮の妃となり、源氏の家系と皇族を結びつける重要な役割を果たしました。
紫式部は、「源氏物語」の中で、明石の姫君を通じて、作者の願望や理想を反映したキャラクターとしています。
紫式部は、明石の姫君を紫式部の理想の女性像として描いています。明石の姫君は、美しさ、知性、品位を兼ね備えた女性として表現しています。
参考画像:Tosa Mitsuoki 土佐光起 – Landscape with Murasaki Shikibu writing at Ishiyamadera (Frontispiece to an album containing 54 illu – 1985.352.55 – Harvard Art Museums
また、明石の姫君と紫上(むらさきのうえ)とは、実の母娘ではないにもかかわらず、深い愛情と絆で結ばれています。紫式部は、家族の絆や愛情の重要性の大切さを明石の姫君を通して表現しています。
紫式部は、幼少期に母親を亡くしています。才女としての逸話も多く、父親が、「この子が男であったなら」と言わしめるほど、頭脳明晰でありました。
紫式部の「紫」は、物語中の紫上(むらさきのうえ)に由来すると言われています。紫式部も自分の母親の姿を紫上(むらさきのうえ)に表現したかったのかもしれません。
紫式部は、明石の姫君を中心にして、女性の地位の向上や理想像、願望などを物語の中に反映させ、展開させていきます。
「源氏物語」を読んでいくのに、見逃せない女性であると思います。
さて、今回はこれまでです。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
源氏物語の紅葉賀・花宴・葵の笑訳
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
葵上(あおいのうえ)を失い、寂しい思いをしている源氏に、六条御息所も伊勢に移るという話を聞き、ますます寂しさを募らせてしまいますが、その一方で、朧月夜との交際が続いています。しかもその現場を右大臣に見られてしまい、絶体絶命の危機に見舞われます。源氏は、須磨に蟄居します。
そのような姿を見た明石の入道は、自分の娘と源氏を結婚させます。物語は、そこから次第に大きな流れとなって、源氏物語に厚みを増していきます。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
初めて鑑定して頂きましたが、とても温かく穏やかな先生でした。
復縁について視て頂きましたが、詳しく丁寧に教えて下さり、またこれからの流れを具体的に教えて頂きました。そんなことまで視えていらっしゃるのかと驚きました。
復縁は諦めようかと思っていましたが、諦める必要は全く無いと言って頂き、頑張る勇気を頂きました。
また視ていただきたいです。本当に有難うございました。