源氏物語の紅葉賀・花宴・葵の笑訳
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2024年8月9日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、紫式部の「源氏物語」の中の「紅葉賀」(もみじのが)、「花宴」(はなのえん)、「葵」(あおい)までの帖について、お話をしたいと思っております。
これら4篇をスピード笑訳で爽快に解説していきます。おおよそのあらすじは、次のとおりです。
藤壺との不倫の結果、源氏は自分にそっくりな男の子が生まれました。源氏は、帝に秘密を知られてしまうのではないかと心配する日々をすごしています。
そのような時に、なんとも迂闊なことですが、典侍(ないしのすけ)という高齢の女官と浮気をしてしまいます。源氏の優雅な人格と言って良いのか、こだわりのなさと言った方が良いのか、そこは読者のご判断にお任せ致します。
また、藤壺に対する思慕の念がありながら、隣の弘徽殿(こきでん)に忍び込み、右大臣の六女である「朧月夜」(おぼろづきよ)と契りを交わします。
酒に酔った勢いにしても、危ないから止めておこうという政治的な配慮などは、全くしませんでした。なんとも軽はずみな行動ではないかと思われるほどです。
一方、葵上は、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊に憑りつかれ、亡くなってしまいます。
ここまでくると、源氏に少しは反省の気持ちはないのかと疑いたくなりますが、源氏にしてみれば、葵上は、なじみの薄い正妻でしたので、あまり情をかけることもなく、紫上に心を移してしまいます。
クールと言ってよいのか、当時の2枚目の男性は、こんなものなのか、とも思いますが、少し情けないのではないかとも思います。
紅葉賀(もみじのが)・帝の藤壺への大きな愛
紅葉賀の帖では、藤壺は、懐妊中で気分も悪く、居室から出ることができずにいました。
宮中では、華やかな祝賀会などが行われる予定がありました。
帝は藤壺にも見せてあげたいと思い、藤壺のために、わざわざ藤壺の居室のそばに舞台をしつらえて、そこでリハーサルとして、雅楽を演奏させるという異例の措置をとりました。
参考画像:Momiji no ga Guimet MA571
舞手として源氏と頭中将が選ばれました。二人の美しい舞を見て、帝も感動の涙を流しました。
藤壺は、帝の優しさが有難く感じられましたが、お腹の子どもが源氏の子であることが気がかりで、舞台を楽しむどころではありませんでした。
年が明けて、藤壺は男の子を生みました。帝はとても喜びました。この男の子は、後の冷泉帝(れいぜいてい)となります。
藤壺の心配事は、この男の子が源氏にそっくりなことでした。源氏との不倫の仲を疑われるのではないかということでした。
源氏も若宮を見て、自分にそっくりな顔立ちを見ることができました。心中はとても複雑でした。
喜びと心配と不安の入り混じった気持ちで落ち着きませんでした。一方、帝は、源氏に瓜二つということにたいそう喜び、藤壺をますます愛しく思うのでした。
七月、藤壺は、政敵の弘徽殿の女御が皇后の地位にあるにも関わらず、中宮になりました。
そのかわり、帝は、弘徽殿の皇太子に帝の地位を譲位して、朱雀帝とします。そして、藤壺の生んだ皇子を皇太子にしました。彼は後に冷泉帝となります。
帝の配慮は行き届いたものでしたが、藤壺は心配でなりませんでした。藤壺は、わざと源氏を避けるようにしていましたので、源氏は、紫上とすごすことが多くなりました。
しかし、源氏は、相変わらず、正妻の葵上とは、疎遠な日々が続いていました。
帝は、源氏に対し、葵上に愛情をもって接するように促しもしました。しかし、源氏は、葵上とはしっくりといかないので、足が遠のいていました。
中宮とはどんな地位か
先ほども述べましたが、藤壺は、中宮となりましたが、帝の皇后としては、すでに弘徽殿(こきでん)の女御が存在していました。
第一皇子も生んでいましたので、強力な存在でした。そこに新たに「中宮」を設けるという帝の意向は、弘徽殿(こきでん)の女御にとっては、面白い事ではありませんでした。
その思いを知る藤壺にとっては、心配の種が増える一方で、気の休まることはありませんでした。
「中宮」とは、皇后に次ぐ地位とされていますが、平安時代の中期になると、「中宮」は、天皇の正妻としての意味を持つようになりました。
現実的に、当時の藤原道隆が娘の定子を一条天皇に嫁がせるために、「中宮」を「皇后」と同じ意味だとする解釈を用いました。
参考画像:Fujiwara no Michitaka (藤原 道隆) was a Japanese noble of the Heian period.This picture was drawn by Kikuchi Yosai(菊池容斎)who was a painter in Japan.
その後、藤原道長が娘の彰子を一条天皇に嫁がせるために、「中宮」という地位を利用し、一条天皇には皇后と中宮の二人の正妻がいるという異例の事態が生じました。これは、「一帝二后」と呼ばれ、歴史上でも有名です。
源氏物語の「紅葉賀(もみじのが)」は、現実の世界と比べても、藤原道隆や道長の策謀により、娘を一条天皇の中宮に嫁がせ、権力の増大をはかる事象が、物語にも反映されているかのように描かれていますので、同時代の読者にとっては、とても現実感があり、ワクワクしたことだろうと思います。
藤壺は、政敵の弘徽殿(こきでん)の女御(皇后)の存在があるにもかかわらず、帝の思し召しで中宮になりました。源氏もまた、昇進するという幸運にめぐまれました。帝は、若宮を東宮(皇太子)にするために、譲位を決意しました。
源氏と頭中将が舞う青海波(せいがいは)
帝は藤壺のために、雅楽と舞を見せようとリハーサルを行いました。その時、源氏と頭中将で舞ったのが、「青海波」(せいがいは)という舞です。どんな舞かと興味のある方は、YouTubeなどでも見ることができます。
中国から伝わったとされる舞なので、日本舞踊とは違い、柔らかい変化のある動きではありませんが、ゆっくりとした直線的な動きではありますが、豪華さや優美さが感じられる雅な舞と言えます。
舞に使われる衣装の文様に、連続した波の形をした文様が使われています。そのため、この文様を「青海波」と呼ぶようになりました。
着物に趣味のある方は、「青海波」(せいがいは)という言葉を、お聞きになった方も多いのではないかと思いますが、現代でも着物の文様に、青海波が使われています。
「青海波」の文様は、古代ペルシャの柄とされています。ペルシャと中国の交易により、シルクロードを経て、中国、そして、日本に伝わりました。日本に伝わったのは飛鳥時代と言われています。
「青海波」の文様は、広い海を表し、連続する波の形をデザインしたものといわれています。無限に広がる海の姿に、末永い幸せと平安な暮らしへの願いが込められていると言われ、縁起の良い柄とされています。
雅楽の「青海波」は、管絃と舞楽があり、いろいろな楽器が使われています。舞楽は、左方の二人舞があり、二人の踊り手がゆったりと袖を振りながら舞う非常に優美な舞です。
楽器には、一般的には、笙(しょう)の笛、篳篥(ひちりき)と呼ばれる笛など、各種の笛があります。その他にも、琵琶(びわ)や筝(そう)、和琴(わごん)、太鼓など、まだその他にも楽器があります。
めったに雅楽を聞く機会はありませんが、優雅でゆったりとした曲の中で、美しい衣装を身に着けた舞手の幻想的な動きにうっとりとした気分にさせられます。
「青海波」は、二人の舞手が舞台に現れ、豪華な衣装を纏い、立派な太刀をもち、優雅に舞います。衣装には、波の形の「青海波」の文様が用いられています。
舞台の上で、二人の高貴な人が舞う姿は、あたかも極楽鳥のように大きな羽根を広げ、ゆっくりと海の上を飛んでいるように見え、美しく神々しい姿に感動いたします。
突然の登場・源典侍(げんのないしのすけ)
前の項で、源典侍と源氏の出会いを少し触れましたが、この「紅葉賀」の帖では、これまでの物語の流れとは違う異質な女性の登場が、源典侍(げんのないしのすけ)です。
源典侍(げんのないしのすけ)は、高齢の女官でした。高齢と言っても、57歳です。
現代であれば、高齢とは言い過ぎではないかと思われますが、平安時代の平均寿命はとても短く、男性は、50歳ぐらい、女性は40歳ぐらいと言われていましたので、57歳と言う年齢は、ずば抜けて高齢であると思われます。
現代の日本人の平均寿命は、男性が82歳ぐらいで、女性は88歳ぐらいとされています。平安時代は、天然痘やその他の疫病、そして結核、脚気など、十分な医療がなされないので、多くの人々が亡くなっています。
そのような環境の中で、やはり57歳と言う年齢は、当時としては、異常なほど「長生き」であると言えるかもしれません。
源典侍はどんな女性であったのか
源典侍(げんのないしのすけ)は、どのような女性であるかと言うと、身分の高い良家の出であり、才女でもあり、世間からは「偉い女性」と思われていたと書かれています。
しかし、多情な性格であったようで、好色な女性だとも言われていました。
実際に宮中には、源典侍のような高齢の女性がいたような記録があったようです。源氏物語を読んだ女御たちは、「あの人のことかしら?」と噂をしたり、面白がったりもしたようです。
源氏は、男性も女性も年をとれば、好色ではなくなるのではないかと不思議に思っていましたが、試しにこの老女に声をかけてみると、遠慮するどころか、源氏の誘いにのってきたのです。
源氏は、なんとあさましいことかと思いながらも、関係を結んでしまいました。源氏はきまりが悪いので、その後は冷淡にしていましたが、彼女は、それを恨んでいました。
典侍(ないしのすけ)は、いつも派手な着物を着て若作りに励んでいました。彼女は、いつも「私って、若いんですのよ!」と言わんばかりに、だれかれ構わず、色っぽいまなざしを向けているようでした。
源氏と典侍の関係は、御所の人々にも知れ渡りました。そうとは知らない源氏は、自分だけの秘密だと思い込んでいましたが、頭中将の耳にも入ってしまったのです。
頭中将は、源氏の秘密を探ろうと思い、典侍の情人の一人となりました。頭中将も好色の点では、源氏に引けを取らない人物でした。
御殿では、源氏は典侍と目を合わさないわけにはいきません。典侍は会うたびに、源氏に恨み言を言うのでした。源氏は、彼女の老齢には同情しながらも、それ以上に親しくするのは控えていました。
しかし、夕立のあとの夏の夜の涼しさが漂う御所を歩いていると、典侍が琵琶を弾いていました。彼女は琵琶の名手であり、その歌声は、華やかで美声でもありました。源氏は、立ち去ろうかとも思いましたが、彼女の部屋に入りました。
参考画像:Gansu Provincial Museum, Lanzhou. Complete indexed photo collection at WorldHistoryPics.com. by Gary Todd is licensed under CC0
源氏と典侍の関係を聞きつけた頭中将は、典侍の情人となり、頭中将も通い始めます。典侍の夫は、修理大夫(しゅりのかみ)です。もし夫が、妻の浮気相手が、一度に二人の男性と関係しているのを知ったなら、あきれてしまうのではないでしょうか。
それに、もし老齢の夫が疎遠になっていたとしても、若い男性の二人が、同時にかち合わないように、スケジュールを管理することは大変なことだと思います。
しかし、頭中将は、源氏と典侍の現場をおさえたいと思っていましたので、そのチャンスをうかがっていました。
頭中将が寝室に乱入・大混乱
源氏と典侍が寝入った深夜になって、頭中将はそっと室内に入っていきました。源氏は、すぐに目をさまして、「誰が入ってきたのだろう」と警戒しました。
源氏は、すぐに起き上がり、「迷惑になりそうなので、私は帰ろう」と言って、着替えを始めました。頭中将は、可笑しさをこらえて、騒ぎ立て始めました。
典侍は、恐怖にただ震えているばかりです。源氏は、冠もゆがめたまま立ち去るのはみっともないと思い、落ち着こうと思いました。よく見ると、忍んで入って来たのは、頭中将だとわかりました。
そこで、源氏は、頭中将の腕をとらえて、グッとつねりました。頭中将は、源氏にバレてしまったので、とうとう笑いをこらえられなくなって大声で笑ってしまいました。
源氏は、頭中将に、「酷い男だね」と笑いながら、頭中将の直衣を脱がせようとして、もみ合いになり、二人ともだらしない格好になってしまいました。
御所に出かけると、源氏は頭中将と顔を合わせました。しかし、お互いに目が合うと可笑しくてたまりませんでした。
源典侍(げんのないしのすけ)は、スーパーレディ
ところで、源典侍は平安時代であったので、源氏物語では、高齢な女性にしては、はしたないのではないかという印象を持つような描かれ方をされていますが、現代であれば、年齢に負けないスーパーレディと言えるのではないでしょうか。
例えば、ジェニファー・ロペス(54歳)は、2022年4月に、一度破局した俳優のベン・アフレック(51歳)と20年の歳月を超えて再び婚約し、7月に結婚ました。
その他にも、デミー・ムーア(61歳)は、3回結婚し離婚しています。3回目は、2005年9月に、アシュトン・カッチャー(46歳)と結婚しました。残念ながら、2011年に破局し、2013年に離婚しました。
ハリウッドのセレブたちだけでなく、日本でも年下の男性と結婚する女性は多くなったのではないでしょうか。
現代は、年齢に関係なく、恋愛も結婚も当たり前です。長寿の記録として、老年学研究機関の「ジェロントロジー・リサーチ・グループ」によると、フランス人女性のジャンヌ・カルマンは1997年に、122歳でなくなりました。
人間以外の生物の中には、永遠の命をもつ生物が存在します。淡水生で多くの触手を持つ刺胞生物ヒドラは、強力な再生能力により、若返りを繰り返して繁殖を続けています。
再生能力の研究は、人類に関しても行われていますので、近い将来、不死の生命を持つ人間が現れても不思議ではありません。但し、限られた食糧問題は、深刻な人口問題を引き起こすかもしれません。
現在の段階で、分かったことは、「若返りは、低カロリーの食事で、老化を遅らせることができる」ということです。余分なお金もかからず、健康になり、長寿になるという方法は、低カロリーの食事で実現可能となっています。
もし長生きを望んでいらっしゃる方は、食事の仕方を変えてみても良いのではないえでしょうか。
紫式部の懐妊の相手は、道長だったのか?
源氏と典侍の恋愛は、一時的なものですんだようですが、大河ドラマの「光る君へ」では、第27話で、まひろ(紫式部)が石山寺で、藤原道長との恋愛が展開されています。
ドラマですので、二人は一夜をともにしました。現実的にはあり得ない展開ですが、視聴者には違和感なく受け入れられるのは、脚本のすばらしさと、俳優さんの演技力が真に迫っていたからだと思います。
そして、まひろ(紫式部)の懐妊が発覚し、夫の藤原宣孝は、思いがけない懐妊に喜びました。実際に、紫式部は、藤原宣孝と結婚後、女の子を産んでいます。
この女の子は、大弐三位(だいにのさんみ)と呼ばれ、平安時代の中期に和歌の名人として知られています。母親の紫式部とは違い、恋多き女性となりました。それだけ美貌だったと言えるかもしれません。
参考画像:mid-Heian period poet, Daini no Sanmi, depicted in this 1801 woodblock print by painter Chōbunsai Eishi From the album
大弐三位は、藤原道兼の子の兼隆の妻となりましたが、交際範囲は広く、藤原公任(ふじわらのきんとう)の長男の定頼や、公卿の源朝任(みなもとのあさとう)、その他に太政大臣の藤原為光の四男の公信など、関係を持っていたと言われています。
紫式部日記には、藤原道長と紫式部の関係が、少し書かれています。親しい関係であるということは書かれていますが、恋とか愛とかいう事柄とは違うような感じです。
しかし、道長が、彰子の家庭教師として、紫式部を大切に思っていたということは、十分に分かります。源氏物語を書くための紙や硯などの提供や、丁寧な装丁を施したりして、協力しています。
花宴(はなのえん)
源氏が20歳の春、宮中の紫宸殿(ししんでん)では、桜の花の宴が行われました。源氏は、舞や詩を披露しました。
にぎやかな宴会ではありましたが、藤壺は、源氏との秘密のために、周囲のにぎやかさに比べて、心の中はいっそう悩みが深くなっていたのでした。
それに比べて、源氏はのんきなものでした。花見酒に酔った源氏は、藤壺の居室のあたりをさまよい、藤壺の居室に入ろうとしますが、戸口はピッタリと締められ、中に入るような隙間はありませんでした。
藤壺に会いたい気持ちと寂しさに、耐えられない源氏は、向かい側の弘徽殿(こきでん)を見ると戸口が開いているのが見えました。
弘徽殿は、源氏にとっては、対立する右大臣の娘である皇后が住んでいる所です。源氏にとっては、とても危険な地域ですので、避けなければならないところです。
参考画像:京都御所 紫宸殿 by Saigen Jiro is licensed under CC0
しかし、酒に酔った勢いで、源氏は、少し開いた戸口から中へ入っていきました。
すると、「朧月夜(おぼろづきよ)に似るものぞなき」と口ずさみながら、若い女性が歩いてやってきました。
とても美しい女性なので、源氏は、とっさに、若い女性を抱きかかえ、部屋に入り、戸を閉めてしまいました。
驚き慌てる女性も、相手が源氏であることに気が付きました。源氏は、この女性を「朧月夜(おぼろづきよ)」と呼んでいます。
源氏は、相手の意向も無視して、いきなり、朧月夜と契りを交わしました。
翌朝、あわただしく目を覚ました源氏は、早く帰らないと、周りの人々に気づかれてしまうと思い、扇だけを取り交わして帰りました。この時点では、この女性が誰なのか分かっていませんでした。
しかし、これは、とんでもないことをしでかしてしまったのです。実は、朧月夜は、右大臣の第6女で、4月には、東宮(後の朱雀帝)の妃になる予定の姫君でした。
源氏を一目見ようとした六条御息所
その儀式に源氏も加わることになりました。それを聞いた六条御息所は、源氏の晴れ姿を一目見ようと、人目を忍んで牛車に乗り、出かけました。
ところが、そこで事件が起きました。源氏の正妻である葵の上の行列が、途中で割り込んできました。
そのため、六条御息所の牛車は、押しのけられてしまいました。しかも牛車は壊されてしまいました。
六条御息所が、怒りに燃えたことは言うまでもありません。
そのため、彼女の魂は、身体から離れ、生霊となって、空中をさまようようになったのです。
六条御息所が生霊となって葵上を呪う
その恨みのこもった魂は、葵上に災いをもたらしました。
葵上は、原因不明の病気となりました。病状は悪化するばかりでした。これは、何かの祟りが災いしているのだろうと、人々は思いました。
有名な僧を呼び、祈祷をしましたが、全く効き目はありませんでした。葵上は、この時、妊娠していました。
源氏は、葵上が気の毒になり、一生懸命なぐさめるのでした。すると、葵上が、「祈りをやめてください」と言います。
なんと恐ろしくも不思議なことに、その声は、六条御息所の声でした。源氏は、六条御息所の生霊を感じ、背筋が凍りつきました。
六条御息所の生涯
六条御息所は、悪女のように描かれていますが、源氏に翻弄された悲しい女性です。
参考画像:上村松園『焔』(東京国立博物館所蔵)
彼女は大臣の娘で16歳の時に東宮(皇太子)に嫁ぎ、秋好中宮を産みました。しかし、20歳の時に、東宮と死別し未亡人となりました。
彼女はその後、8歳年下の源氏の求愛を受け入れましたが、源氏の浮気癖に悩みました。
その結果、彼女は、生霊となり、源氏の浮気相手や正妻の葵上に憑りつき、命を奪おうとしました。
六条御息所は、本来、気高く教養があり、上品な女性でしたが、プライドが高く、思いつめるタイプの女性でした。
源氏との関係がうまくいかないことから、伊勢に移り住もうとしました。それを知った源氏は引き留めようとしましたが、彼女は去っていき、その後36歳で亡くなりました。
葵上に祟る六条御息所の生霊
葵上は、生霊にさいなまれながらも、男の子を産みました。後の「夕霧」です。
源氏や左大臣は大喜びしました。しかし、その後、葵上の容態は、急激に悪くなりました。そして、亡くなってしまいました。
葵上の49日の法要がすむと、源氏は二条院の館にもどりました。そこでは、紫上が待っていました。
源氏は、葵上を失ったショックから、紫上と契りを結びました。紫上は、驚いてしまい、源氏と口をきくことができなくなりました。
源氏は、紫上をなだめて、三日夜(みっかよ)の餅の儀を行い、婚礼の儀式を行いました。こうして、紫上は、源氏の妻となりました。
六条御息所の生霊は、葵上を襲いましたが、源氏には被害がなく、生命も安全でした。
生霊となっても、源氏のことが好きなので、災いを与えることができなかったのかもしれません。
今昔物語に出てくる生霊の話
今昔物語などでも、生霊などの話が頻繁に出てきますが、源氏のように安全ではすみませんでした。
それは、藤原師家(ふじわらのもろいえ)という人の話です。藤原師家は、昔、好きだった女性の館を牛車で通り過ぎることがありました。その館の侍女が、師家を見て、女主人に報告しました。
女主人は、侍女に、「お話ししたいことがあるので、立ち寄ってください」という伝言を頼みました。
侍女は師家の牛車を追いかけ、女主人の言葉を伝えました。師家は、過去を思い出して、懐かしく思い、女主人の館に引き返しました。
師家が女主人の部屋に行くと、女主人は、法華経を読んでしました。師家が声をかけても、女主人は読経をやめませんでした。
師家は、もう我慢ができないので、怒りだすと、女主人は読経をやめて、「あなたに話したいことがありましたが、もう必要なくなりました」と言って、息をひきとりました。
師家は驚いて、侍女を呼びましたが、侍女も急なことなので、驚いて右往左往しています。
なんとか始末をして、家に帰りましたが、それから、しばらくして師家は、病気になってしまいました。そして数日も経たないうちに、師家は亡くなってしまいました。
世間の人は、「せっかく法華経を読んで成仏の道を歩むのかと思えば、師家に会えば、恨みの念が強く湧き上がり、結局、悪霊となって、師家の命を奪ってしまったのだ」と、言いました。
この話に比べれば、六条御息所は、源氏には祟りを与えませんでしたので、源氏は気楽だったかもしれません。それほど、源氏の魅力はすごいものであったのでしょう。
魂の存在は、科学的には証明されていませんが、臨死体験をした人から、客観的な観察から、魂が存在しているのではないかという結果を示すことができます。
次に、臨死体験から体外離脱をしたパム・レイノルズという女性の話をご紹介いたします。
魂は存在するか?パム・レイノルズの臨死体験
臨死体験についてのひとつの例として、「パム・レイノルズの臨死体験」があります。これは、1991年にアメリカ合衆国での記録です。
パム・レイノルズは、アメリカ合衆国のジョージア州アトランタの出身の女性ミュージシャンです。
彼女は、1991年8月に、頭部に動脈瘤を患っていました。アリゾナ州フェニックスにあるバーロウ神経学研究所のロバート・スペッツラー医師が、手術を担当しました。
彼は、手術の方法として、低体温心停止法を使いました。これは、患者の体温を摂氏15度ぐらいにして、心拍と呼吸を停止させ、脳波を停止させ、頭部から脳血流を抜き取ったうえで手術を行います。
パムは、この手術中に臨死体験をしました。そして、パムは医師の肩のあたりから、手術全体を眺めていました。
その時、彼女の身体からは血液が抜き取られていたので、脳幹の機能も停止しました。
しかし、彼女の意識は、はっきりとしており、彼女の祖母の声を聞きました。トンネルを抜けると、明るい世界があり、祖母や祖父など仲の良かった親族などとも再会しました。
手術が終わり、温められた血液がパムの体内に再び注入されると、脳の機能は回復し始めました。その後、心臓を機能させる電気ショックを与えられると心臓は動き始めました。
手術後、パムは幻覚を見たのだと思い、医師や看護師に手術中の詳しい内容を話しました。
彼女は冗談のつもりでしたが、医師や看護師は、全て事実であったので驚いてしまいました。
アメリでの実例では、臨死体験から、魂の体外離脱があるのではないかという説が有望ですが、日本の生霊のように、恨みを晴らしたり、災いを与えたりするようなケースは、見られません。
日本の歴史に出てくる生霊や怨霊は、体外離脱し、しかも恨みをはらそうとするので、日本人の特に女性の恨みを受けないようにしたいものです。
悪霊や怨霊は、人間の恨みの念が強い場合に、身体は死んで亡くなっても、恨みの念だけがこの世に残り、人々に災いをなすというものです。
恨みの念がこの世に残る限り、成仏はできませんので、地獄の苦しみも同時に受け続けなければなりません。
負の連鎖を断ち切るためには、恨みの念を消すことが大切です。
呪い返しの護符がもらえる貴船神社
誰かに恨みを抱かれて、生霊に祟られたらどうしようと思うことがあるかもしれません。その場合には、有名な神社にお参りする方法が良いでしょう。
貴船神社(きふねじんじゃ)は、京都市左京区にある神社です。全国に2千社ある水神の総本宮でもあります。
縁結びの神としての信仰もあり、若いカップルに人気のある神社です。その一方で、縁切りの神社としても有名です。
「丑の刻参り」でもよく名が知られています。その他に、貴船神社をお参りすると、呪い返しに効果のある護符がもらえます。
参考画像:Ushi-no-tokimairi (丑時参) from the Konjaku Gazu Zoku Hyakki (今昔画図続百鬼)
その他にも、八坂神社(京都府)、春明神社(京都府)、東京大神宮(東京都)、水天宮(東京都)、三峰神社(埼玉県)などがありますが、お近くの神社で、厄除けや災い除けの御札を買っても効果があります。
もっと簡単に、呪い返しをしたいとお望みの方は、以下の真言(しんごん)を唱えると良いでしょう。
直接、怨霊をはねのける不動明王の真言
不動明王は、ご存じのように憤怒の表情をして、悪霊などを退治する仏様です。その真言は次の通りです。
「のうまく、さんまんだ、ばざらだん、せんだん、まかろしゃだや、そわたや、うんたらた、かんまん」
これを朝と晩に、3回くりかえして、読み上げると効果があります。
どうも何か気持ちが落ち着かない、とか、心配事がなくならない、もしかして悪霊などに憑りつかれているのではないかと、心配な方は、是非お試しになると良いと思います。
さて、今回はこれまでです。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
源氏物語・末摘花の笑訳
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
源氏物語の帖も、まだ最初の9つめまでの話に進みましたが、源氏と関係を結ぶ女性は、必ずしも幸せな一生を送ることができません。美人薄命という言葉がありますが、源氏物語の華やかさとは別に、女性の運命の儚さのようなものが、強く感じられます。
六条御息所も結局、源氏を好きになったことから、寂しい人生となりました。
明治時代の歌謡曲に、「宵待草」(よいまちぐさ)という歌があります。
ウィキペディアより引用しますと、「待てど暮らせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ、今宵は月もでぬそうな」という歌詞です。作詞は、竹久夢二氏、作曲は、多忠亮(おおのただすけ)氏です。
1910年(明治43年)、竹久夢二氏は27歳、前年離婚した元妻と息子を伴い、房総方面に避暑旅行をします。銚子から犬吠埼に向かい、あしか島の宮下旅館に泊まりました。そこで、たまたま出会ったのが、長谷川カタ(賢)という女性でした。彼女は19歳という若さでした。竹下氏と親しく話すうちに心を惹かれ、しばしばデートをしたそうです。彼女の両親は娘の将来を心配して、結婚を急がせました。翌年、再び訪れた竹久氏は、彼女が結婚したことを知り、失恋を悟りました。そのような心境を歌にしたのが、「宵待草」です。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
先程はありがとうございました。とても話しやすく、穏やかで優しい先生でした。
あまり嬉しくない内容も気を使って一生懸命言葉を選んでくれていたのが伝わりましたし、私のためにきちんと包み隠さず伝えて下さったので、とても誠実な先生だと思いました。
また変化があれば相談に乗って下さい。