王妃アン・ブーリンの華麗な変転の人生

執筆した占い師:多聞先生
更新日:2025年4月3日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、前回のキャサリン・オブ・アラゴンに引き続き、ヘンリー8世の2番目の妃になった女性のアン・ブーリンについて、お話ししたいと思います。
参考画像:Portrait of an unknown Italian Lady, misidentified with Anne Boleyn (c.1501-1536). アン・ブーリン
皆様もアン・ブーリンのことは、ご存じの方も多いと思います。6人の妃の中では、一番愛されながら、最後は処刑されるという運命となりました。
アン・ブーリンは、プライドが高く、感受性が豊かで、頭も良く、男心を操るテクニックに長けていました。
ヘンリー8世は、彼女の魅力のとりこになり、結婚を決意しました。しかし、男子の後継者を産めなかったことから、彼の愛は急激に冷えてしまい、アン・ブーリンの悲劇につながりました。
それでは、彼女の生い立ちから始めましょう。
アン・ブーリンの生い立ち

アン・ブーリンが生まれたのは、1502年頃と言われています。
アンには、メアリーという姉妹がいます。どちらが、姉で妹かという議論がありますが、ここでは、メアリーを姉として話を進めさせていただきます。
父親はサー・トマス・ブーリンで、母親はエリザベス・ハワードという名門の家系に生まれた女性でした。アンは、6人兄妹のうちの1人です。
アン・ブーリンは、小さいころから音楽の才能があり、芸術的なセンスに溢れていました。語学も得意で、イタリア語、フランス語などを習得しました。
姉のメアリー・ブーリンは、ふっくらした顔立ち、青い瞳、明るいブロンド、どれをとっても美人の特徴を全て持っていました。
参考画像:Mary Boleyn メアリー・ブーリン
それに比べるとアン・ブーリンは、痩せており、あまり美人とは言えない容姿をしていたと言われています。そのせいか性格的には、勝ち気で短気、ヒステリー気味なタイプと言われています。
いつも姉ばかり可愛いと褒められるので、妹のアンは、「またお姉さまばかり褒められて腹が立つわ。お絵描きもお歌も、私の方が上手なのに、不公平よ、私は絶対に負けないわ、いつか勝ってやるわ」と心に思っていたかもしれません。
姉のメアリー・ブーリンの出世と晩年
姉のメアリー・ブーリンについて、もう少し詳しくお話し致します。
メアリー・ブーリンは、1499年ごろに生まれました。1514年、ヘンリー8世の妹のメアリー・テューダーが、フランスのルイ12世に嫁いだ際に、メアリー・ブーリンは、アンとともにフランス宮廷に渡りました。
ところが、ルイ12世は、1515年1月1日に崩御しました。フランス王妃だったのは、たったの3か月でした。
参考画像:Portrait of Louis XII of France, painting in Windsor Castle ルイ12世 (フランス王)
その後、メアリー・ブーリンは、1519年に帰国し、キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となりました。そして、1520年2月4日にウィリアム・ケアリー(William Carey)という貴族と結婚しました。
しかし、その後、驚いたことに、ヘンリー8世の愛人となりました。確かにメアリー・ブーリンは美人でした。ヘンリー8世は、美人を好んで愛人にしたと言われています。
結婚している女性に声をかけるヘンリー8世に良識というものはなかったのでしょうか。宮廷内では、当然、不倫の噂が広まりました。しかし、強大な権力を持つヘンリー8世に、倫理観は必要無かったのでしょう。
参考画像:King Henry VIII having a quality time ヘンリー8世 (イングランド王)
メアリー本人は、どう思っていたのでしょうか。夫のウィリアムを真剣に愛していたなら、王の誘いも断ったかもしれませんが、当時の結婚は政略結婚が多く、結婚に際して、夫に愛情を持っていたかどうか不明です。
また当時の貴族たちは、王の寵愛を得るために、自身の家族や親族を愛人として差し出すことは、自身の出世や繁栄をもたらす重要な手段でした。
夫のウィリアム・ケアリーにとっても、メアリーが王の愛人となることは、自身の出世に繋がるチャンスであったのです。
その後、ウィリアム・ケアリーは、ヘンリー8世のお気に入りの臣下となり、乗馬、狩猟、馬上槍試合などで、同じ趣味を持つヘンリー8世とは、とても気が合い、彼の出世の糸口となりました。ところが、これから彼の豊かな人生が始まろうとする1528年に重い病気にかかり亡くなりました。
メアリーとウィリアム・ケアリーとの間には、2人の子どもが生まれました。キャサリン・ケアリーとヘンリー・ケアリーです。ヘンリー・ケアリーは、ヘンリー8世によく似ていたという記録があります。
参考画像:Portrait of Henry Carey, 1st Baron Hunsdon (1526-1596). ヘンリー・ケアリー
彼は、後にエリザベス1世の側近となりました。現在のようにDNA鑑定がない時代ですので、ヘンリー8世の子どもであったかどうか確証はありませんが、とても似ていたことから、側近として重用された可能性が大きいです。
メアリー・ブーリンの2度目の結婚は、禁断の恋愛結婚
1534年、メアリー・ブーリンは、2度目の結婚をしました。相手は、ウィリアム・スタッフォード(William Stafford)という人物でした。
彼は貴族階級の家に生まれましたが、次男でしたので、財産がありませんでした。身分も低く、王宮の兵士でした。彼にとっては、王の愛人であったメアリーは、高嶺の花であり、近づくことも許されない立場でした。
メアリーは、30歳を過ぎて、夫を失った悲しさや王の寵愛に陰りが出てきたことから、寂しい毎日を送っていました。そのような時に、ウィリアムは、まだ若く純粋でした。
彼は優しい言葉で、メアリーを慰めました。
メアリーは、彼の優しさに感動し、2人は恋愛に陥りました。しかし、彼らの恋愛は、メアリーの家族や王宮からも認められるものではありませんでした。彼らの結婚は秘密裏に行われました。
そのため、彼とメアリーは宮廷から追放されました。2人は宮廷を出て、貧乏な生活に耐えました。それでも、夫婦関係は良く、2人の子どもに恵まれました。
メアリーは、1543年7月19日に亡くなりました。穏やかな晩年であったようです。夫のウィリアム・スタッフォードは、その後も生存していたようです。
フランス宮廷内で処世術をみがく
アン・ブーリンは、フランスに残り、1515年にフランス王妃のクロード・ド・フランス(1499~1524)に仕えました。クロード・ド・フランスは、フランス王フランソワ1世の王妃です。
参考画像:Ce portrait était autrefois considéré comme étant le portrait de Claude de France (1499-1524). クロード・ド・フランス
しかし、フランソワ1世との結婚生活は、絶え間ない妊娠と、夫の愛人たちの存在のため、気苦労が多く、1524年に亡くなってしまいました。
王と王妃、そして愛人たちの関係、このことは、アン・ブーリンにとって、最も重要な経験になりました。
王妃は、大勢の侍女や召使に囲まれ、豪華な衣装を身に着け、贅沢な宝石が散りばめられ、アン・ブーリンにとっては夢のような光景を見せつけられました。
強大な権限を持つ王であっても、美しい王妃にうやうやしく言葉をかけ、ご機嫌を伺います。美しさは、力よりも強く、王をも支配する魔力であることを、アン・ブーリンは、目の当たりにしたのです。
しかし、王妃は時々、暗い表情をして、沈んでいます。なぜかと言えば、愛人たちが、王の気を惹き、楽しげに語らい、音楽を楽しみ、ダンスを踊ったりしているからです。
それでも、アン・ブーリンは、王妃に憧れました。悩みの多い王妃でありながらも、王妃という権威、絶対的な存在感は、いくら愛人が王の寵愛を受けたとしても、ゆるぎないものであったからです。
間近に見る王妃の生活は、アン・ブーリンにとって、生きた教科書でした。王の気持ちをどのように惹きつけるか、王妃はどうあらねばならないのか、アンは毎日、ワクワクしながら、対処の仕方を習得できたのです。
負けず嫌いのアン・ブーリンの胸裏には、「私は王妃のように絶対に最高の女になるべきだ」という強固な信念が育ったことでしょう。
フランソワ1世の愛妾たち
フランソワ1世は、多くの愛妾を持ちましたが、彼女たちは宮廷で大きな影響力を持っていました。
その中でも代表的な2人をご紹介いたします。
参考画像:Françoise de Foix, comtesse de Châteaubriant フランソワーズ・ド・フォワ(1495~1537)
フランソワーズ・ド・フォワは、シャトーブリアン伯爵夫人として知られています。ロートレック子爵ジャン・ド・フォワと妻のジャンヌ・デディーの娘として生まれました。
1509年に、フランソワーズは、シャトーブリアン伯爵のジャン・ド・ラヴァルと結婚しました。1518年ごろ、王太子フランソワ1世の愛妾となりました。その結果、フランソワーズの兄弟や親せきの者たちは、次々と高位につくことができました。
その後、10年間、フランソワ1世の愛妾となりましたが、若いアンヌ・ド・ピスルー・デイリーに心を奪われたフランソワ1世は、フランソワーズを遠のけました。1528年、フランソワーズは、シャトーブリアンに戻りました。その後は、夫のジャンと暮らしましたが、フランソワーズは1537年に亡くなりました。
参考画像:Portrait of [:en:Anne de Pisseleu d’Heilly アンヌ・ド・ピスルー・デイリー(1508~1580)
アンヌ・ド・ピスルー・デイリーは、性格が朗らかで可愛らしく、機転のきく女性でした。彼女は1518年頃から、フランソワ1世が亡くなる1547年まで、彼の寵愛を独占し続けました。
彼女は、知性と美貌を兼ね備え、政治にも深く関与しました。アンヌは、親族を出世させ、莫大な財産を与えるのに自らの権力を行使しました。叔父のアントワーヌ・サンギュインをオルレアン司教、のちには枢機卿にしました。
アン・ブーリンとのアンヌの接点は、1518年から1522年の間になるので、時期的に密接な間柄では無かったかもしれませんが、アンヌとフランソワ1世の関係は、アン・ブーリンに、大きな影響を与えました。
アン・ブーリンの「王妃になるための野望」

フランスの宮廷におけるこれらの女性たちの存在は、アン・ブーリンにとって、生きた手本となりました。宮廷での立ち回り方、男性を魅了する方法、そして、権力を維持するための手段を学ぶことができました。
そして、アン・ブーリンは、「最高の女性、それは王妃、私は王妃になる」という確固たる信念を持つにいたりました。
フランス宮廷での経験は、アン・ブーリンの知性と野心を磨き、後のヘンリー8世との駆け引きにおいて、大きな武器となりました。
アン・ブーリンは、それだけでなく、これらの女性たちから、単に愛妾としての役割だけでなく、政治的な影響力を持つ女性としての生き方を学びました。
アン・ブーリンの貴婦人デビュー
アン・ブーリンがイングランドに帰ったのは、1522年の1月ごろと言われています。イングランドの宮廷では、フランス風の洗練されたアン・ブーリンを羨望のまなざしで迎えました。
3月4日、宮廷では大舞踏会が催されました。ヘンリー8世は、美女たちを物色しました。アン・ブーリン、王の妹のメアリー、叔母のデボン伯爵夫人、その他、主だった貴族の女性たちが集いましたが、やはり、アン・ブーリンが際立って美しく見えました。
参考画像:Henry VIII’s first interview with Anne Boleyn signed and dated l.l.: D. MACLISE 1835 oil on canvas 132 by 156 cm Exhibited at London, British Institution, 1836, no. 61 アン・ブーリンとヘンリー8世の出会い(19世紀画)
アンの容貌は肖像画で見る限り、当時の美人の型には当てはまりませんでした。やせた顔、高い頬骨、とがった顎、胸は小さく、体はやせ型で顔色も良くありません。
では、なぜアン・ブーリンは、美しく見えたのでしょうか。
アン・ブーリンは巧みに自分の欠点を長所に変えるテクニックを持っていました。アン・ブーリンが王宮に現れたとき、洗練されたフランスのファッションや艶やかな身のこなし方で、全ての女性たちを圧倒し、太陽のように輝いて見えました。
アンは、更にヘンリー8世を魅了しました。ウィットに富んだ会話、活発な性格、特に彼女の魅力的な瞳の動きは、妖しくも神秘的でした。
彼女と話す男性は、彼女の魅力に引き込まれ、蟻地獄に落ちる小さな虫のように溶かされてしまうのでした。
愛人関係を拒否・王妃になるための布石
アン・ブーリンの生活は、キャサリン妃の侍女で始まりました。当時、アン・ブーリンは、20代前半、キャサリン妃は36歳ぐらい、ヘンリー8世は、アン・ブーリンの若さに惹きつけられました。
ヘンリー8世は、得意の口説き文句をアンの耳元で囁きました。
「おお、なんと美しい、そなたと今宵すごせたら、どんな褒美も望み次第」
ヘンリー8世は、他の愛人たちのように、アン・ブーリンを手なずけられると思っていました。
ところが、アン・ブーリンは、ヘンリー8世に、「陛下は、とても嬉しい事をおっしゃってくださいます。でも、私は陛下の品位を汚すわけにはいきません。どうぞ思いとどまるように心よりお願い申し上げます」という意味のことを言いました。
ヘンリー8世は、求愛を断られるのは、初めての経験でした。彼は驚いて、目を丸くしながら、むきになり、再三再四、アンを口説きました。
参考画像:Double portrait photo made using File:Hans Holbein, the Younger, Around 1497-1543 – Portrait of Henry VIII of England – Google Art Project.jpg and File:AnneBoleynHever. by Dancingtudorqueen is licensed under CC BY-SA 4.0 アン・ブーリンとヘンリー8世
しかし、アン・ブーリンは、ヘンリー8世がいくら口説いてもなびきませんでした。
アンは、心の中で、「冗談じゃないわ、簡単に愛人にはならないわよ」とつぶやきました。そして、さらりと、「結婚後でなければ、体を許す気になれないわ」と言ってのけました。
ヘンリー8世は、「うーん」とうなり声をあげ、アンと結婚しなければ、ベッドをともにすることも、息子を産んでもらうこともできないのか、と思うようになりました。
さすがアン・ブーリン、相手の誘いを断り、逆に男心を燃えさせることに成功しました。
どうしてもなびかせたい男性に対しては、簡単に応じない、ホイホイついていかない、というのも戦術の一つです。リスクはありますが、試してみる価値はありそうです。
ヘンリー8世は、まるで少年のようにアン・ブーリンを求めてやみませんでした。
ヘンリー8世は、1526年ごろ、アン・ブーリンにプロポーズしたと言われています。そして、彼女に素晴らしい宝石や毛皮のプレゼントをしました。こうして、アン・ブーリンは、いつのまにか傲慢で尊大な女性になっていきました。
それでも、アンは思わせぶりを繰り返し、愛人関係を拒否しました。
アンとの結婚と、キャサリンとの離婚

ヘンリー8世は、どうしても男子の摘出子が欲しかったので、アンを王妃にする必要がありました。
しかし、アンとの結婚には、キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚問題を解決しなければなりませんでした。
参考画像:Portrait of Catherine of Aragon (1485-1536), first wife of Henry VIII of England (1491-1547). キャサリン・オブ・アラゴン
そして、月日は流れ、1527年の春になりました。アン・ブーリンは26歳になりました。男子の嫡出子を産むには、厳しくなりつつありました。
アンは、手練手管でヘンリー8世の心はつなぎとめてはいるものの年齢を考えなければなりませんでした。
アンは、勝負に出ました。「結婚したいわ、王妃となって子どもを産みたいの」と訴えました。ヘンリー8世も、ついに決断をしました。
ヘンリー8世、キャサリンとの離婚を決意
1528年12月2日、グリニッジ宮殿で、キャサリン妃と過ごしました。この日を最後として、ヘンリー8世は、キャサリン妃に会うためにグリニッジ宮殿を訪れることを止めました。
キャサリン妃は、キンボルトン城で亡くなるまで、ヘンリー8世に会うことはありませんでした。
1532年の春、ヘンリー8世は、キャサリンとの離婚のために議会を招集しました。次に9月1日、ヘンリー8世はウィンザー城で、アン・ブーリンに貴族の称号を与えました。それは、ペンブローク公爵という名誉と伝統のある称号でした。
参考画像:The Courtship of Anne Boleyn 王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン(19世紀画)
アンは、この式の一週間前に、初めて王とベッドをともにしました。記録によれば、アンと王との関係は非常に満足のいくものであったとされています。その結果、アンは、1533年の1月、ついに妊娠しました。この妊娠は公には知らされませんでした。
1533年1月25日、ヘンリー8世とアン・ブーリンの秘密の結婚式が挙行されました。ロンドンのホワイトホールの教会に少数の人々が集められました。
司祭はソクター・ローランド・リーであり、ジョージ・ブラウンの二人でした。アン・ブーリンは6年の歳月を経て、ついにヘンリー8世の妻となりました。
ヘンリー8世は、正式に王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を無効にし、アン・ブーリンと結婚を有効なものにしたいと考えていました。
しかし、ローマ教皇クレメンス7世はカトリックの教義に基づき、離婚を許可しませんでした。キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚は、特別に許可をだしたものでありました。それを簡単に、無効とすることはできませんでした。
参考画像:El papa Clemente VII, por Sebastiano del Piombo クレメンス7世 (ローマ教皇)
1533年、業を煮やしたヘンリー8世は、キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を無効とする一方的な通告をしました。
そして、ヘンリー8世は、お気に入りのカンタベリー大司教のトマス・クランマーに結婚の無効を宣言させました。
ヘンリー8世の便利屋・トマス・クランマー
このトマス・クランマーもなかなかの悪です。
貧乏な家庭に生まれましたが、頭が良く、14歳でケンブリッジ大学に入学しました。
参考画像:Portrait of Thomas Cranmer トマス・クランマー
21歳で酒場の女性を妊娠させ周囲の非難を浴びました。その後、大学教授となり、ヘンリー8世から離婚問題の相談を受け、王に有利な進言をしました。
王に気に入られスペインのカール5世付きの大使になりましたが、教会法を破り、神学者の姪と再婚してスキャンダルとなりました。
その後もヘンリー8世に取り入り、お気に入りになります。
アン・ブーリンともプロテスタントの思想が近く、キャサリンとの離婚問題では「結婚の無効」を進言し、アンとの結婚に承認を与え、出世ができました。ヘンリー8世にとっては、便利な存在となりました。
キャサリンとの婚姻を無効とし、アンの戴冠式へ
キャサリン・オブ・アラゴンは、ヘンリーの兄のアーサーと結婚しましたが、その後、アーサーが急逝したため、ヘンリーと結婚することになりました。
しかし、ヘンリーと結婚するためには、旧約聖書の「レビ記」に抵触するのではないかという問題がありました。
簡単に言うと、「兄弟の嫁を娶ってはいけない」という条項がありました。
ヘンリー8世は、1509年にキャサリン・オブ・アラゴンと結婚しました。その時、問題となったのは兄のアーサーとキャサリンの夫婦関係でした。
参考画像:Depicted person: Arthur Tudor (1486-1502), Prince of Wales was the first son of King Henry VII of England and Elizabeth of York. This portrait is regarded as the only surviving contemporary portrait of the sitter. アーサー・テューダー
ヘンリー8世は、キャサリンとの結婚を成立させるために、無理やりアーサーとキャサリンは何もなかったと主張しました。
ローマ教会は、特別にヘンリー8世とキャサリンの結婚の許可を与えました。ところが、今度はヘンリー8世が、この結婚は無効だと主張したのでした。ローマ教会が承認を与えるはずはありませんでした。
ヘンリー8世は、独自にアン王妃の戴冠式への手続きを進めました。1533年6月、ウエストミンスター大寺院で、アン・ブーリンの戴冠式を行いました。
しかし、ロンドン市民は、キャサリンを慕っていましたので、アン・ブーリンの戴冠式に関しては、祝福する人がほとんどいませんでした。
エリザベス(1世)の誕生
1533年9月7日、アンはグリニッチ宮殿で出産しました。男子の誕生とばかり思っていた赤ん坊は、女児でした。その子はエリザベスと命名されました。
女児が生まれたことで、余程がっかりしたのでしょう。エリザベスの洗礼式には、王も王妃でさえも出席しませんでした。エリザベスは、ハットフィールド宮殿で乳母によって育てられました。
参考画像:Elizabeth I when a Princess 1546年ごろのエリザベス
キャサリン・オブ・アラゴンが生んだメアリーは、エリザベスの腹違いの姉となりますが、当時、17歳となりましたが、なんと彼女はエリザベスの侍女として命令されました。
しかし、メアリーは、「妹としては認めるが、王女としては認めない」と突っぱねました。勝手なヘンリー8世の仕打ちに、内心腹が煮えくり返るほど、悔しかっただろうと思います。
彼女は、ヘンリー8世に遠ざけられた母親のキャサリン・オブ・アラゴンの寂しさや惨めさに同情し、「可哀そうなお母さま、それに私まで侍女になれと言うのですか、そんなことは許されません」と、アン・ブーリンやエリザベスに憎悪の念を抱き続けました。
男児の流産
その後、1536年1月、アンは男児を流産しました。ヘンリー8世の落胆はさらに大きく、怒りさえもしました。しかし、その原因は、ヘンリー8世の浮気でした。
女官のジェーン・シーモアとヘンリー8世が、睦あっていたところをアンが目撃してしまったからです。
参考画像:“Jane Seymour” (1536-1537); Kunsthistorisches Museum, Vienna ジェーン・シーモア
気性の激しいアンは、逆上し、ヒステリーを起こした結果、流産となってしまいました。6年近く、ヘンリー8世の心をつなぎとめてきたアン・ブーリンにとって、晴天の霹靂ともいうべき事件でした。
しかもヘンリー8世は、アンに腹いせに、「私の子どもは産まなくてよい」と言ってのけたのですから、アンは、子どもを失っただけでなく、夫まで取られた悔しさに嘆き悲しみました。アンは、ヘンリー8世にとって、お払い箱も同然となりました。
クロムウェルとの確執と暗転
アン・ブーリンの運命の鍵を握っていた人間として、クロムウェルが挙げられます。
参考画像:Portrait of Thomas Cromwell トマス・クロムウェル
彼は貴族の生まれでもなく、ロンドンの鍛冶屋の息子として生まれましたが、宰相の地位まで上りました。
若いころにイタリア(フィレンツェ)やフランス、オランダに渡り、商人や銀行家の下で働き、法律・経済・語学の知識を身につけました。イングランドに帰ってからは、法律家として成功しました。
1510年代、彼は枢密顧問のトマス・ウルジーの秘書となりました。トマス・ウルジーはカトリックの枢機卿であり、ヘンリー8世の側近でした。ウルジーが、1529年に、失脚し亡くなった後、クロムウェルは、ヘンリー8世の側近となりました。
クロムウェルの活躍とアン・ブーリンとの対立

ヘンリー8世とキャサリン王妃の離婚問題について、ローマ教会と膠着状態になり、クロムウェルは、ローマ教会と手を切ることを進言しました。
ヘンリー8世も承諾し、クロムウェルは「イングランド国王が教会の最高権威である」とする政策を打ち出しました。
1534年の国王至上法(Act of Supremacy)を成立させ、ヘンリー8世をカトリック教会から独立させました。
これにより、ヘンリー8世はローマ教皇の許可なしに離婚・再婚ができるようになりました。
アン・ブーリンとクロムウェルの対立点
①宗教政策と修道院の財産処分をめぐる対立
クロムウェルは、1536年から、修道院の解散を推し進め、その財産を王室の収入源にしました。修道院の財産は莫大で、ヘンリー8世の財政を大きく改善しました。
アン・ブーリンは熱心な宗教改革支持者であり、フランス系のプロテスタント思想(エヴァンジェリカル派)に影響を受けていました。彼女は修道院の財産を国家ではなく慈善活動や教育のために使うべきだと考えていました。
② アン・ブーリンとクロムウェルの政治的主導権争い
アン・ブーリンは国王の寵愛を受けることで権力を握っていましたが、クロムウェルもまた宮廷内で影響力を強めつつありました。
アン・ブーリンとトマス・クロムウェルの対立は、宗教改革や修道院解体を巡る意見の相違が背景にありました。
アンは修道院の財産を教育や慈善活動に使うべきだと主張し、クロムウェルの政策に反発していました。この対立は宮廷内でも広く知られており、アンがクロムウェルに対して敵意を抱いていたことは確かです。
逸話として、神聖ローマ帝国の大使シャピュイがクロムウェルに「王妃はあなたの首が飛ぶところを見たいと言っている」と警告したという記録があります。
クロムウェルは王の側近として実務を取り仕切っていましたが、アンの影響力が強すぎることを警戒していました。
特に外交政策において、アンはフランス寄りの立場を取り、クロムウェルは神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)との協調を模索していました。この外交方針の違いも対立を深める原因となりました。
対立の激化とヘンリー8世の極秘命令?
アン・ブーリンとクロムウェルの対立が明確に表面化し、2人の関係は1535年から急速に悪化し、1536年には敵対的になっていました。
この経緯に至る前に、ヘンリー8世が、クロムウェルを呼び寄せ、他の延臣や女官に聞こえないように、耳打ちしたのではないかと言われています。(下記のセリフは私の想像です)
「良いか、クロムウェル。アン王妃は離婚に応じないだろう。私はジェーン・シーモアと結婚し、一日も早く王子の顔が見たいのだ。アンは、キャサリンと違って、大人しく我慢するタイプではない。離婚を通告しても騒ぐに決まっている。アンを黙らす方法を考えて欲しい」
クロムウェルは、ヘンリー8世の意向をくんで、アンを排除するための策略を練りました。
アン・ブーリン、急転直下、転落の人生
アンの流産を思うにつけて、ヘンリー8世は、旧約聖書の「レビ記」を思い起こし、自分は呪われているのではないかと思うようになりました。
彼は、アンの姉のメアリーを愛人としていたことから、姉妹を嫁にしたことは、神の眼から見ると罪になるのではないかと考えたのでした。
ヘンリー8世は、新しい愛人を求め、ジェーン・シーモアに心を寄せました。彼女は、どちらかというと地味な女性でした。なぜ彼女が気に入られたかといえば、アン・ブーリンとは正反対の性格だったからです。
クロムウェルの讒言と策略
ヘンリー8世に冷たくされたアン・ブーリンは、冷静さを失い、ますます過激な行動が目立つようになりました。
その結果、アンは王妃として多くの敵を作ってしまいました。特にカトリック派や、前王妃キャサリン・オブ・アラゴンの支持者たちはアンを敵視していました。
一方、クロムウェルは、アン・ブーリンに対して、有りもしない罪をでっち上げ、ヘンリー8世に讒言しました。
「陛下、アン王妃は、反逆罪に値する重大な罪を犯しています。世継ぎを産めなかった絶望感から、不倫までしているのでございます。そして、自分を守るために陛下の殺害を企てているのでございます」
ヘンリー8世は、それを聞いて、ただ頷くだけでした。直接、彼の判断をいうのを憚り、クロムウェルには、適切な処置をするように指示を与えました。
その結果、1536年、アン・ブーリンは「不貞と反逆」の罪で逮捕されました。具体的には、アンが弟のジョージ・ブーリン(ノーフォーク公)を含む複数の男性(5人)と姦通関係を持ち、国王の暗殺を企てたとされました。
参考画像:Wynfield, David Wilkie; The Arrest of Anne Boleyn at Greenwich; Royal Armouries at the Tower of London アン・ブーリンの逮捕の様子を描いた絵画
これらの罪はクロムウェルが主導したもので、証拠も不確実なものでした。
1536年5月2日、アン王妃は、捕らえられロンドン塔に幽閉されてしまいました。この時、アン王妃の兄をはじめ、4人の延臣が逮捕されました。
アン王妃は、自分の罪状について、「私は、不倫をしたという疑いで告訴されたと聞いていますが、まったくの無実です」と言いました。
捏造の罪による裁判そして処刑

1536年5月10日、アン王妃に関する裁判が開始されました。
裁判は、アンを初めから有罪とするもので、アンには反論することは許されませんでした。
5月15日、王妃姦通の裁判が行われました。裁判長は、アン王妃の叔父のトマス・ハワードが指名されました。彼は、アンの母親の兄弟であり、第3代ノーフォーク公爵でした。
参考画像:Thomas Howard, third Duke of Norfolk by Hans Holbein the Younger トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)
陪審判事も、アン・ブーリンの関係者が並びました。なんとも残酷な裁判のやり方です。「有罪」しか言えない状況で、近い親族に身内の人間を裁かせるクロムウェルの残酷性が表れています。
このように、アン・ブーリンの裁判では、彼女の関係者、特に叔父のトマス・ハワード(第3代ノーフォーク公爵)が裁判長を務めたことは、彼女を孤立させる効果を持ちました。
クロムウェルは卑劣な手段で、彼女の家族や親しい人々が彼女を支えることを難しくし、逆に彼女に対する告発を正当化するための手段として利用しました。
起訴状が読み上げられると、驚いたことに、新たな罪状として、キャサリン王妃と娘のメアリーに毒をもったという疑いまで加えられていました。
ついに裁判長が判決を読み上げました。「王の思し召しによって、ロンドン塔内にあるタワーグリーンで火あぶりの刑が適用される」という残酷な刑罰が伝えられました。
アン王妃は、判決の後は、ロンドン塔の中にある「中尉の家」に滞在しました。この家は、後に「王妃の家」として知られるようになりました。
参考画像:Anne de Boleyn à la Tour de Londres, dans les premiers moments de son arrestation ロンドン塔のアン(19世紀画)
ヘンリー8世は、アン王妃の毅然とした態度を聞いて、「彼女は頑丈な心臓をしている。しかし、報いは受けるべきだ」と言い、祝杯をあげたというから、あきれてしまいます。
しかし、そうは言うものの「火あぶり」は、残酷すぎると思ったのか、「斬首の刑」に変更しました。
しかも、ヘンリー8世は、フランスに使者を出し、斬首の名人を呼び寄せました。そうと知らないアン王妃は、窓から処刑台が組み立てられるのを眺めていました。
1536年5月19日午前9時、ドアがノックされ、刑吏が「時間でございます」と言いに来ました。
アン王妃は、「準備はできております」と静かに答えました。
アン・ブーリンが見せた最後の剛毅なプライド
アン王妃は、女官たちと処刑台に進みました。
彼女は、グレーのローブ、真紅の長い上着、肩には白いケープをかけていました。
最後の演説が終わると、アン王妃は、死刑執行人に賃金を支払いました。ブロックの前にひざまずき、目隠しをしました。
アン王妃は、「主よ、哀れみを、イエス様、私の命をお受け取りください」と祈りました。その瞬間、斧は振り下ろされました。
参考画像:Anne-boleyn-execution アン女王の処刑の様子を描いたスケッチ
タワーの大砲が鳴り響きました。その音を聞いて、ヘンリー8世は、処刑が行われたことを知ることができました。
立ち会った女官たちは、切り落とされた首の目が開き、口が動いたことを見ることができました。
女官たちは、王妃が勇敢に死んでいったと、ヘンリー8世に報告しました。その10日後、ヘンリー8世は、第3の王妃のジェーン・シーモアと結婚しました。
しかし、ジェーン・シーモアは、エドワード6世を産んだ後、まもなく亡くなってしまいました。
その後のクロムウェルの悲劇
ジェーン・シーモアが亡くなったので、次の王妃を探そうと、クロムウェルは、ドイツまで行き、アン・オブ・クレーブズを探し出しました。
しかし、ヘンリー8世は、彼女との結婚はあまり気が進みませんでした。ヘンリー8世は、美女を好んだからです。アン・オブ・クレーブズは、残念ながら、美女ではありませんでした。
1540年、クロムウェルは王の意に反してアン・オブ・クレーブズとの結婚を推し進めました。
ヘンリー8世はこの結婚に不満を持ち、クロムウェルを見限りました。クロムウェルは反対派の貴族たち(特にノーフォーク公)によって逮捕され、1540年7月に処刑されました。
ヘンリー8世は、その後も結婚を繰り返します。次回は、アン・オブ・クレーブズ、キャサリン・ハワード、キャサリン・パーについてお話し致したいと思います。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
キャサリン・オブ・アラゴンの悲劇の生涯
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
アン・ブーリンの話は如何でしたでしょうか。
彼女は、どちらかというと、現代の感じ方や考え方に近い女性ではないかと思います。常に自分の思うままに物事を進めようとして失敗してしまいましたが、処刑に臨んでも乱れることなく、毅然として受け入れた態度は、男性でも難しいことではないかと思います。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
先程はありがとうございました。彼の性格がとても当たっていたので、ずっと「そうなんです!」と頷きっぱなしでした(笑)
長期戦になりそうですが、今の距離を保ちつつ気長に頑張ります!