人生を生きたいように生きる輝く女性になるための方法
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2022年11月18日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、「人生を生きたいように生きる輝く女性になるための方法」の話です。
もちろん生きたいように生きている女性の方たちは大勢いらっしゃいます。「私は美しく生きたい」とおっしゃる方は、メイクに凝る方もいるかもしれません。綺麗な髪型も魅力のひとつです。素敵なヘアスタイルや髪の毛の色も魅力の要素として必要不可欠です。健康的な体を維持することも大切です。謙虚さや勤勉さも魅力のひとつです。女性の優しさや微笑みの美しさも女性の最大の魅力と言えるでしょう。
でもそれだけでは、不満足な感じがしませんか?何のために現在苦労しているのだろうか?辛い思いに耐えている意味は何だろうか?もしそんな風に感じているのであれば、「生きたいように生きる自分」について、一度考えてみることも無駄ではありません。
作家の林芙美子(1903~1951)の有名な言葉に、「花の命は短くて苦しき事のみ多かりき」というフレーズがあります。女性特有の悲劇的なヒロインとしての感情にはピッタリかもしれませんが、現代の女性は、もっと前向きな人生観を持つ人が増えてきているのではないでしょうか。
医学の進歩もあるかもしれませんが、長命にもなりました。それでも、やはり多くの女性の気持ちとして「花の命は長くなっても、苦しむことは変わらない」と嘆かれている方もいらっしゃるかもしれません。それではせっかくの人生を苦労だけで終わらせてしまいます。
そのような人生にならないように、今回は「生きたいように生きた女性」をご紹介してみますので、試しにお読み頂き参考にして頂ければ幸いです。
三角関係を生き抜いた額田王(ぬかたのおおきみ)
下居神社にある額田王の歌碑:BySuomi3
いきなり三角関係が出てきましたが、三角関係が輝く女性になるための方法だと言うわけではありません。額田王(ぬかたのおおきみ)は魅力ある女性として、二人の男性から愛された結果、三角関係となったのです。
額田王(ぬかたのおおきみ)は、飛鳥時代を堂々と生き抜いた女性です。いろいろな説がありますが、生まれたのは631年~637年頃ではないかと言われています。出生地は、現在の奈良県、或いは島根県と言われています。
10代の頃、斉明天皇(594~661年、天智、天武天皇の母)の女官として宮中に出仕し、大海人皇子(おおあまのみこ)と出会い結ばれました。歌人としての才能があり、斉明天皇の代作として作った歌が次の歌です。
「熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
(熟田津で船出しようとして月の出を待っていると、ようやく月も出て潮も満ちてきたので、船をこぎ出してみましょう)
この歌が作られた当時、朝鮮半島では大きな戦争が起きていました。655年、中国の唐と高句麗が戦争を始めました。南部では百済(くだら)が新羅へ侵攻したため、新羅は唐へ救援を求めました。唐と新羅は百済に攻め入り、660年に百済は滅亡しました。
百済は日本に救援を求めました。友好関係にあった百済の救援要請を受けて、斉明天皇と中大兄皇子は、百済再興のために朝鮮に出兵することになりました。
額田王は、戦いの勝利を祈って、この歌を作りました。熟田津の港で、月の光に照らされた明るい海に多くの兵を乗せた船が出航の準備していたところ、潮も満ち、いよいよ戦いに船をこぎ出そうという戦意を高揚させる歌とされています。
この歌が示すように額田王が、政治的な意味でも、斉明天皇の代作を務めるほど才能があったという証拠の歌です。そして、母の気に入った女官と大海人皇子が結ばれるのは、ごく自然なことでありました。
「日本書紀」には、大海人皇子(後の天武天皇)の妻となり、女の子を生んだことが記されています。しかし、そのような関係であった額田王は、大海人皇子と別れてしまいます。歴史上の詳しい記録はありませんが、大海人皇子の兄である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、額田王に惚れこんで、自分の娘4人と引き換えに大海人皇子から額田王を譲り受けたとされています。
普通に考えれば、額田王は大海人皇子と恋愛中で女の子も生んでいる仲ですので、いくら中大兄皇子からの求愛があっても、断ったかもしれません。しかし、中大兄皇子は次の天皇の候補者でもあるので、彼の寵愛を受けることは、これに勝るチャンスは2度とないという感情があったかもしれません。
或いはもっと政治的に考えると、大海人皇子でさえ、天皇になる可能性をもった人物です。中大兄皇子に近づくことは、一番情報が得やすい立場となり、大海人皇子も額田王は重要な情報源となり得ると考えたかもしれません。
次の歌は、大海人皇子に対し、「私のことは好きにならないでください」と言わんばかりの歌ですが、わざわざそのような歌を詠んだのは、中大兄皇子に対して、「私は中大兄皇子以外に好きな人はいませんよ」と公言したようにも思えます。
「茜(あかね)さす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る」
この歌の意味は、「茜さす(紫の枕詞)紫草のはえた野に行き、標野(一般の人は立ち入り禁止の御料地)で狩りをしながら、そんなに袖を振って私に愛情をお示しになられると、見張りの人たちの人目についてしまいますよ」という事を大海人皇子に言っているのです。
すでにこの歌を詠っている時には、額田王は中大兄皇子のもとにいましたが、それにはお構いなしに袖を振る(愛情を示す)行為を続けている大海人皇子に対して、額田王が、「私たちの仲を疑われてしまいますよ」という警告の歌です。
この歌に大海人皇子が歌を返しました。
「紫草の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆえに 我が恋ひめやも」
この歌の意味は「紫草のように美しいあなたを憎いと思うなら、人妻であるあなたをどうして恋しく思ったりしようか(いや恋したりしない)」と答えています。
近年の学説では、上記の歌は、中大兄皇子と大海人皇子が同席している宴席で座興として詠まれたものだという解釈が有力となっています。額田王は、このような歌を詠い、中大兄皇子から疑いをかけられないように上手に宴席を盛り上げることができる才能があったのです。
この後、中大兄皇子は天智天皇として即位し、自分の子どもである大友皇子(おおとものみこ)に天皇の地位を継承させたいと願うようになりました。そして皇太弟である大海人皇子を排除しようと画策し始めました。
大海人皇子は、この動きを敏感に察知していました。おそらく、そのような微妙な情報は額田王から大海人皇子にも伝えられたのではないでしょうか。
天智天皇が病気に倒れ、大海人皇子を枕元に呼び、「次の天皇はあなただ」と言って、将来を託そうとしますが、大海人皇子はそれを断り出家してしまいます。実は天智天皇は、大海人皇子が天皇を引き継ぐのであれば、彼を捕えて罪に陥れる計画を持っていたのです。大海人皇子には、額田王から天智天皇の本当の気持ちが伝えられていたと考えることができます。
大海人皇子は、すぐに都を退散し吉野山に逃げてしまいました。
天智天皇が崩御すると、大海人皇子はすぐに兵を起こし都に攻め入りました。実は、この天智天皇の死にも謎が残っています。天智天皇が狩りに出かけ、行方不明になったという不思議な事件だったのです。
天皇が狩りをする場合、たくさんの護衛がつくはずです。それが行方不明になることは考えられません。ひそかに暗殺されたのではないかという説もあります。この事件も額田王と大海人皇子の計画されたクーデターであったかもしれません。
大海人皇子が起こした乱が、「壬申の乱」(じんしんのらん)と言われる事件です。大友皇子は、反撃もできずに都で自害しました。そして大海人皇子は、天武天皇として即位しました。
その後の額田王はどうなったのでしょうか。いろいろな説があり、壬申の乱で死亡したという説もありますが、宮廷を退いて藤原大嶋と再婚したという話もあります。もしそうだとすると、80歳近くまで生きていたと言われています。
いずれにしても聡明な額田王のことですから、壬申の乱で死亡したとする説は考えにくいのではないでしょうか。もともと天武天皇の妻でもあったのですから、決して無駄に殺されるような死に方は選ばなかっただろうと思います。この場合、したたかに生きのびた額田王が、一番ぴったりとくるのではないでしょうか。
夫の志を継いだ「鉄の意志の女性天皇」持統天皇
藤原宮跡 持統天皇文武天皇藤原宮趾碑:BySaigen Jiro
この時代、もう一人偉大な女性天皇が出現しました。持統天皇です。持統天皇は即位前の名を鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といい、父は大化の改新を実行した中大兄皇子(天智天皇)です。13歳の時に大海人皇子(天武天皇)の妃となりました。
671年、大海人皇子が吉野の山に逃れた時に、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)も草壁皇子をつれて逃げました。彼女もこの乱に従い、美濃の国へ脱出しました。「日本書紀」には大海人皇子とともに乱の計画を立てたとされていますので、知略にも長けた女性であったようです。
天智天皇が崩御すると、すぐに大海人皇子は兵を集め壬申の乱をおこしました。大海人皇子の軍勢はにわかに膨れ上がり、都では大友皇子はどうすることもできません。戦いのための兵を集めることもできませんでした。遂に大友皇子は自害して果てました。
壬申(じんしん)の乱の後、大海人皇子が天武天皇に即位すると、鸕野讃良皇女は、皇后の地位となりました。681年、天皇は皇后を伴って大極殿に入り、当時19歳の草壁皇子を皇太子にすることを決めました。これは、皇后で母親である、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の働きかけが功を奏したものと思われます。
ところが、685年頃から、天武天皇は病気がちとなり、皇后が政治を行うようになってきました。686年には、天皇は「天下の事は大小を問わず、ことごとく皇后と皇太子に報告せよ」と命令を出しました。これから先は、本格的に皇后が政治を行うようになっていきました。
草壁皇子は皇太子でありましたが、他の皇子の中に優れた人物がいました。それが大津皇子(おおつのみこ)です。才覚があり、文学にも優れた人でした。日本書紀にも大津皇子が優れた人物であることが記されています。このことを皇后が面白く思うはずはありません。彼女は何としても、自分の子どもである草壁皇子を天皇にしたかったからです。
そこで事件が起きました。686年10月1日、天武天皇が崩御した翌10月2日に大津皇子の謀反が発覚し、翌10月3日に大津皇子は自害しました。この事件の背景には皇后の策略がからんでいるのではないかという説が強いのも頷けます。
天武天皇の2年3か月にわたり葬礼が行われました。この時、草壁皇子が皇太子であることを全国の人々に印象づけることに成功しました。
皇后は草壁皇子に皇位を継承させようとしていましたが、草壁皇子は、突然、689年4月に亡くなってしまいました。この時、草壁皇子は27歳、これからという時でした。彼の死因についても、病気という説もありますが、暗殺説もあります。
天智天皇が暗殺されたという説もあるので、それを憎んで草壁皇子を暗殺すると言う報復手段をとった人がいたのかもしれません。
これで一番困ったのは皇后でした。草壁皇子の子どもである軽皇子(かるのみこ)は、まだ7歳でした。そこで690年、皇后である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が即位して持統天皇となりました。
持統天皇は夫の天武天皇の遺志を継ぎ、藤原京の造営に力を注ぎ694年に藤原京を完成させました。場所は現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる地域です。大和三山(香久山、耳成山、畝傍山)に囲まれた藤原京の設計は天武天皇のアイデアであったと言われています。
持統天皇の有名な歌として、香久山を詠った歌があります。(万葉集)
「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山」
(春が過ぎて、夏がきたらしい。白い衣が干してある天の香久山に)
香久山は藤原京からは東の方向にある山です。畝傍山、耳成山とともに大和三山のひとつです。この衣は、初夏に田植えをする神聖な早乙女の資格をとるために山に入ってお隠(こも)りをしている娘たちが着る斎服だとする説があります。田に早苗を植える夏がやってきたという感動が伝わってきます。山の緑、衣の白、そして青い空が広がる藤原京の美しさを象徴的に表しています。
持統天皇は、律令を制定し、本格的な日本の政治の中心地としての藤原京を造営し、政治の礎を築きました。701年には、大宝律令を制定し、刑罰を制定する「律」と、行政組織を定める「令」を整えました。この時、我が国の呼び方も「倭」から「日本」とするように制定しました。
しかし、持統天皇は、天皇の後継者問題に関して、まだ大きな問題をかかえていました。持統天皇の統治期間において、高市皇子(たけちのみこ)が太政大臣についていました。
彼は、天武天皇の皇子(長男)であり、壬申の乱で非常に功績がありました。次の天皇となる有力な候補者となり得る人物だったのです。ところが高市皇子が突然亡くなってしまったのです。結局、持統天皇の孫である軽皇子が皇太子となりました。
この一連の流れを見ると、持統天皇の執念を感じないわけにはいきません。息子の草壁皇子を亡くし、どうしても孫の軽皇子を皇太子にさせたかったのです。持統天皇は軽皇子が15歳になると、すぐに譲位をして天皇の位を譲りました。697年、軽皇子は文武天皇となりました。
702年に持統天皇は病のために崩御しました。享年は58歳でした。しかし、兄弟の皇位継承問題にからみ、壬申の乱を生き抜き、そして、子どもや孫に皇位を継承させるために暗躍したとされるほど、気の休まる暇もない人生であったことでしょう。
政治面においても天武天皇をしのぐ才能を発揮して、日本の政治の礎を築きました。非凡な才能を持った女性天皇であったことは間違いありません。
天智天皇の非凡な才能を引き継ぎ、政治問題を解決しながら、一方でライバルを排除し、子どもや孫の将来を築いていった人生は、苦労の連続であったと思います。しかし、それが彼女の生き甲斐であったことは間違いありません。
戦乱を収め京都の再建に尽くした日野富子
足利将軍室町第跡:BySaigen Jiro
日野富子(ひのとみこ、1440~1496)は、室町時代後期から戦国時代前期の人です。室町幕府8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)の正室です。生まれは山城国(やましろのくに、現在の京都府)で、足利将軍家とは姻戚関係にあった日野家の出身です。
1455年、16歳で足利義政の正室となり、1459年に第1子を産みましたが、その日のうちに亡くなりました。
富子は、よほど悔しかったのか、当時権力を持っていた義政の乳母の今参局(いままいりのつぼね)が呪いをかけたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし、刺客を差し向けましたが、本人は途中で自害してしまいました。
それだけでなく義政の側室4人も追放しました。その後の出産では女子しか生まれなかったので、義政は実弟の仏門に入っていた義尋を還俗させて、名前を足利義視(あしかがよしみ)と改めさせ、将軍後継者としました。
待望の男子出産
しかし、そのような事があった翌年1465年に富子は男子を出産したのです。名前を義尚(よしひさ)としました。そうなると当然将軍の後継者の争いが始まりました。富子が、我が子の義尚を将軍にさせたいという強い思いを持つのは当然のことです。そして、我が子の後ろ盾に、山名宗全に依頼しました。
一方、この動きに対して、足利義視は後見役である細川勝元に応援を頼んだのです。このため細川勝元は、山名宗全と鋭く対立することになりました。
応仁の乱は、1467年、足利義尚、畠山義就、山名宗全の「西軍」に対し、足利義視、畠山政長、細川勝元の「東軍」に別れて戦いが始まりました。それに加えて、新たに守護大名の大内政弘が西軍に参戦したことで戦いは激化していきました。
併せて、斯波氏や畠山氏では家督争いが起き、利害関係のある武将たちが、細川氏あるいは山名氏に応援を頼むなど、対立の波は全国に広がっていきました。
この事態はさらに悪化し、山名方を西軍とし、細川方を東軍として2分され、応仁の乱が勃発しました。戦いは1467~1477年までの11年間続きました。そのため京都は焼け野原となってしまったのです。
このごたごた続きの中で、ようやく足利義正が義尚を後継者に決定したのは、1469年でした。そして、義尚が9歳で元服し1473年に第9代将軍に就任しました。ようやく足利家の跡継ぎ問題は解決しましたが、応仁の乱の終結にはまだまだ問題が残っていました。
戦いのさなか、1473年に山名宗全と細川勝元が相次いで死亡しました。しかし、戦いは終わることがありませんでした。1477年に畠山義就(はたけやまよしなり)が河内に兵を引き、大内正弘(おおうちまさひろ)も本拠地の周防に引き上げたため、他の武将たちも領地に帰ったため、ようやく戦乱が終わりました。
しかし、京都は戦乱の荒廃のため、寺社や公家の家は焼失し、人々の生活は困窮し、疫病や火災が発生し、人々の生活を苦しめました。
幸いなことに将軍の御所や天皇のおられる花の御所や内裏、仙洞御所は焼けずに残りました。また商工業者の住む下京の地区は火災に合わず残りました。
京都の再建に乗り出す日野富子
戦乱で焼け野原になった京都の再建策として、富子は京都の七か所に関所を設けました。そこで、税金を徴収したのです。さらにコメの投機や高利貸からわいろを受け取ることで、どんどんとお金を貯めていきました。
人々からは、反感を買いましたが、富子からすれば財政の立て直しに必死であったことが推測できます。夫の足利義政は政治に関心がなく、全く頼りにならない存在でした。
再建どころか、3代将軍の義満が造営した「花の御所」と呼ばれる大邸宅の再建に着手しようとしました。これには、後花園天皇から和歌でたしなめられて中止せざると得ませんでした。
富子が、このようにして集めた金銀は、現在のお金にすると70億円にもなったと言われています。
富子はそのお金を朝廷に献金し、内裏の修復や新築を行いました。また神社や仏閣の修復も積極的に行いました。また富子は応仁の乱の終結のために畠山義就に対し、1000貫文のお金を貸し付け、京都から兵を引かせることに成功しました。
苦難の続く富子の苦労
将軍となった義尚は、母の富子と対立することが多くなり、政治から遠のいていきました。そして酒や女性におぼれて1489年に25歳で亡くなってしまいました。その直後、夫の義政も1490年に亡くなりました。
子どもと夫を亡くした富子は、次の将軍職を誰にするか考えました。候補者として、義視の子で義政の養子となった義植(よしたね)を1490年、第10代将軍に擁立しましたが、その義植からも反発を受けてしまいました。
そのため、日野富子と細川政元は、1493年、将軍職の義稙を辞めさせ、足利政知の子の義澄(よしずみ)を1495年、第11代将軍とし、富子が引き続き権力を持つという体制を維持しました。
将軍職を辞めさせられた足利義稙は、美濃の土岐成頼を頼って京都から逃れていきました。
将軍職を次々と変えながら、富子は権力を維持することに力を入れてきましたが、1496年6月30日に富子は亡くなりました。享年57歳でした。どのような原因で死亡したのか、まったく記録はありません。
このように苦労を重ねた日野富子ですが、世間の評判は悪く、3大悪女のひとりとされています。他の悪女とされる女性は北条政子、淀殿ですが、彼女たちの歴史的な評価は、彼女たちの大きな功績を考えれば、再認識されるべきであろうと思います。
最高権力に上り詰めた一人の女性の生涯・西太后
頤和園:ByErmell
西太后(せいたいこう、1835~1908)というと悪名高い女性のひとりですが、ひとりの女性として最高権力に上り詰めた人として見ると興味深いものがあります。
西太后は、中国の清の時代、咸豊帝の側妃で、同治帝の母となった女性です。西太后の出生地は不明ですが、北京で生まれたという説があります。映画「ラストエンペラー」にも出てくる重要な人物です。彼女の父親は、中堅官僚でした。
后妃選定面接試験「選秀女」を受け合格
彼女(西太后)の出世のきっかけとなったのが、1852年、后妃選定面接試験「選秀女」を受け、合格したことでした。この時、彼女は17歳でした。翌年1853年に、18歳で咸豊帝の後宮に入ることができました。
この時は、咸豊帝には正式の皇后がいましたが、子どもがいませんでした。1856年、彼女(西太后)は咸豊帝の長男を生み、出世の第一歩となったのです。
咸豊帝の崩御の後、クーデターを起こす
清は、この時、ヨーロッパの国々の侵略の対象となり、次々と引き起こされる事件によって弱体化しつつありました。1856~1860年にかけて、イギリスとフランス連合軍との戦い(アロー戦争、第2次アヘン戦争とも呼ばれています)では、北京で清には不利な講和条約を結ぶことになりました。
清の国の間には、外国に対する排斥運動が盛んに起こりましたが、それが外国の侵略の口実ともなり、次々と不利な条件を突き付けられて行きました。
このような混乱した状態の中で、1861年、咸豊帝が崩御しました。皇帝の継承をめぐり、皇太子の長男を生んだ彼女(西太后)は、8人の皇太子の後見役となっている大臣と権力争いになりました。
彼女(西太后)は皇后と咸豊帝の弟を味方に引き入れ、クーデターを起こしました。そして、後見職となっている大臣のうち3人を処刑することに成功しました。いよいよ政治的な権力を手にすることに成功したのです。
彼女(西太后)の生んだ長男は、同治帝として即位しました。咸豊帝の皇后であった女性は、この時から、皇太后となり東の宮殿に住んでいたので東太后と呼ばれるようになり、彼女(西太后)は西の宮殿に住んだことから西太后と呼ばれるようになりました。
体制的には、東太后、西太后、咸豊帝の弟との三頭政治が始まりましたが、東太后は政治に関心が無かったので、実質は、西太后と咸豊帝の弟との二頭政治となりました。
同治帝は、自ら親政を行おうとしましたが、1874年、突然崩御してしまいました。死因は天然痘とされています。この事は、西太后にとって、皇帝の母親という地位を失うことになるので、大変不利な状況に置かれることになりました。
皇帝の後継者問題は西太后の失脚にもつながることになります。そこで考え出したのが、西太后の妹の子どもを光諸帝として即位させたのでした。この措置は旧来のしきたりを破る異例の事でしたが、西太后は強引に推し進め、自分の意思を通したのでした。
1875~1879年に中国では大飢饉が起きました。しかし、清朝政府は西太后が政治の実権を握っていたので、何の救済措置を取らず、1000万人以上の餓死者を出してしまいました。
1881年、東太后が突然、死去しました。死因は不明です。続いて、1884年には、咸豊帝の弟に清仏戦争の敗北の責任を取らせて失脚させてしまいました。これにより西太后の絶対的な地位が整いました。
しかし、政治の面では、1895年の日清戦争の敗北により財政的に困難な状況に追い込まれて行きました。それにもかかわらず西太后は、自分の居所である頤和園の再建に莫大な経費をかけたのです。その額は日清戦争にかかった総額の3倍にもなっていたのです。そのため、清朝政府は軍事費を削らざると得ず、軍事的に弱体化してしまいました。
皇帝である光諸帝は、政治の改革に乗り出しましたが、西太后に反対され思うように改革は進みませんでした。いろいろな改革運動や列強の圧力が増す中で、西太后はクーデターを起こし、光諸帝を幽閉し、反対派を全て粛清していきました。
義和団の乱とその後
1900年になると、義和団の乱が起きました。中国国内では飢饉による流民の大量発生やヨーロッパの国々による中国内での経済的な特権による経済的な打撃が大きくなりました。義和団の乱は、そのような状況に起きた騒乱事件です。
彼らは、「扶清滅洋」(清を助け外国を滅ぼす)という標語を掲げたために、清朝政府の中にも義和団を支持する主戦派と外国と上手くやっていこうとする和平派の対立が生まれました。
義和団の勢力が増々強くなり、西太后は主戦派に傾きました。そして、外国に対し、「宣戦布告」を行いました。これに対し、諸外国は連合軍を組織し、清朝政府と戦争が始まりました。しかし、戦力には格段の違いがあり、たちまち諸外国の軍隊は、北京にせまってきました。
西太后はしかたなく北京を脱出し、西安に避難しました。この時、西太后は光緒帝が寵愛していた珍妃という女性を紫禁城の井戸の中に投げ捨てる旨の殺害を命じました。
この義和団の乱の処理に関して、清朝政府の李鴻章と慶親王奕劻(咸豊帝の親族)は、諸外国への多額の賠償金と諸外国の軍隊の駐留を認める代わりに、西太后の責任を回避することに成功しました。
しかし、西太后は内外の圧力が増し、事態の改革に乗り出さざるを得ませんでした。5人の大臣を諸外国に派遣し政治制度を視察させ、最終的に立憲制への移行を宣言したのです。
しかし、西太后は光緒帝の親政を許さず1908年に殺害しました。その代わりに愛新覚羅溥儀(ラストエンペラー)を宣統帝として擁立し、西太后の独裁体制を維持しようとしました。しかし、西太后は1908年の光緒帝の殺害の翌日、72歳で亡くなりました。最後まで、権力の座にこだわり続けた西太后の最後でした。
競争相手を次々に殺害した生涯
西太后の権力欲が強いことは有名ですが、次々にライバルを殺害していったことは、さらに彼女の悪名を高めました。咸豊帝の側室が産んだ子は全て早死にしています。また同治帝(西太后の長男)が西太后の勧めた女性ではなく、東太后の勧めた女性を皇后としたことを恨み、同治帝の崩御後に皇后を殺害しています。次の光緒帝の妃である女性も光緒帝の親政を促したとして、光緒帝も殺害し、この女性も殺害しています。
最高権力という魅力あった西太后は、次々と人を殺害しても罪に問われることもなく、最後までその地位にしがみつき一生を終えたことに、人間の欲の深さを感じざると得ません。しかし、身分も高くなかった一人の女性が、最高権力者になるまでの過程を考えると、男性以上に努力しなければなし得ない偉業であったことでしょう。もし西太后が男性であったならば、大いに称えられたのではないでしょうか。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「人生を生きたいように生きる女性になるための方法」は如何でしたでしょうか?生きたいように生きるためには、ライバルを排除し、犠牲を伴わなければならないのでしょうか。今回取り上げた女性の例は、女性として、生きたいように生きるためには手段を選ばず激しく求めていくタイプの女性だけをご紹介しました。
「私は絶対にそんな女性にはなりたくない」と思われても良いのです。むしろそうした思いになって頂いた方が、平和で幸せな人生になることでしょう。
生きたいように生きることは、本当に難しいことです。悩みや苦しみは尽きることがありません。
困ったときは、いつでも絆にご相談頂ければ、お悩みを軽くし、未来に明るい希望を持っていただけるように努めてまいります。是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
プロフィールからとても深く優しくみて戴けそうな気がしてお話できるのを楽しみにかけました。そのままのとても優しい優しい先生でした。好きな方の気持ちをみて戴いたのですが、神秘のカードの結果は嬉しいものでした。けれど恋愛としては物足りず。でもきっと長い目で見ると素敵な関係と言える様になるのでしょうか。前世から御縁があることも教えて戴いたし、今支えになっていることも空回りじゃないとわかってホッとしました。ありがとうございました。
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