キャサリン・オブ・アラゴンの悲劇の生涯

執筆した占い師:多聞先生
更新日:2025年3月4日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、キャサリン・オブ・アラゴンの悲劇の生涯のお話です。
キャサリン・オブ・アラゴンは、ヘンリー8世の最初の妻です。
参考画像:Portrait of Catherine of Aragon (1485-1536), first wife of Henry VIII of England (1491-1547). キャサリン・オブ・アラゴン ![]()
ヘンリー8世のことは、ご存じの方も多いと思いますが、男子の後継者を求めて、6回も結婚しました。6人の妃たちは、悲劇の道を歩みました。
今回は、最初の妃になったキャサリン・オブ・アラゴンについて解説致します。
それでは、キャサリン・オブ・アラゴンの生い立ちから始めましょう。
キャサリン・オブ・アラゴンの生い立ち

キャサリン・オブ・アラゴンは、英語での読み方ですが、スペイン語では、カタリーナ・デ・アラゴンと言います。ここでは、キャサリン・オブ・アラゴンで統一いたします。
キャサリンは、1487年12月16日に生まれました。彼女の両親は、スペインを統合し、共同統治を行った「カトリック両王」と呼ばれたアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世です。
参考画像:Ferdinand II of Aragon, the Catholic フェルナンド2世 ![]()
彼女の人生は、マドリード近郊のアルカラ・デ・エナーレス大司教館で始まりました。この壮大な邸宅は、約300年前の1209年に、トレド大司教の仮住まいとして、ヒメネス・デ・ラダ大司教によって建てられたものです。
キャサリンは4番目の末子でした。彼女は、幼いころからラテン語、フランス語、哲学などを学びました。教師は人文主義の学者で知られるアレッサンドロ・ジェラルディー二(1455~1524)でした。
キャサリンは、古典を始め、神話、語学、算数、法律、歴史学など幅広い学問を習得しました。
また、得意の刺繍、料理、レース編み、裁縫、音楽、ダンス、絵画なども趣味として楽しみました。
人文主義者で知られる学者のエラスムスは、彼がイングランドにいた時に、キャサリンと会いました。彼は、キャサリンの優れた博学を褒めて、「キャサリンは、文学やその他の学問をよく愛し、勉強していた」と述べています。
参考画像:Portrait of Desiderius Erasmus of Rotterdam with Renaissance Pilaster. デジデリウス・エラスムス ![]()
キャサリン・オブ・アラゴンの家系は、イングランドの王室とも親しい関係にありました。母方の祖先は、ランカスター家の出身でした。キャサリンは、イングランド王のヘンリー7世の従兄弟にあたる家系でした。
キャサリンが、公の場にデビューしたのは1489年3月でした。3歳の時に、初めてイングランドの大使のリチャード・ナンファンとトーマス・サベージという2人の大使の前に姿を見せました。場所は、バリャドリッド県メディナ・デル・カンポで、両親のフェルナンドとイサベルが、大使と謁見しました。
その時、キャサリンの姉のファナは、大使の前で14人の侍女といっしょに踊りを披露しました。翌日は、王室の人たちと大使たちは、闘牛を見物しました。キャサリンも母親の膝の上で見物したと伝えられています。
参考画像:Juan de Flandes 003 フアナ (カスティーリャ女王) ![]()
キャサリンの姉のファナは、その後、1496年10月20日に、神聖ローマ帝国の長男でブルゴーニュ公フィリップと結婚しました。しかし、元来真面目なフアナは、夫の不実を許すことが出来ませんでした。
ファナは、夫や相手の女に激昂することもしばしばで、フィリップの心は離れていきました。夫への猜疑心から、次第にフアナの精神状態は不安定になっていきました。夫の死後は、ファナは、「狂女」と呼ばれました。
1500年、英国のヘンリー7世とスペイン王妃イサベルが、王太子アーサーとキャサリンの婚約が成立しました。アーサーは、この時、14歳でした。キャサリンは、13歳でした。
1501年、キャサリンはイングランドに向けて、グラナダを離れました。
イングランドのばら戦争

イングランドの王太子アーサーとの結婚の話に行く前に、簡単にイングランドの歴史についてお話しいたします。
1455年から1485年まで、百年戦争の後のイングランドでは、王位継承権をめぐり、ランカスター家とヨーク家の争いがありました。
ランカスター家は、赤バラの家紋であり、ヨーク家は白バラを家紋にしていたので、「バラ戦争」と呼ばれました。
参考画像:Red Rose of Lancaster. by Sodacan is licensed under CC BY-SA 3.0 ランカスター家の紋章 ![]()
参考画像:From en:Image:Shields.tar.bz2, by Lupin Raster version: en:Image:Yorkshire rose.png by Booyabazooka is licensed under CC BY-SA 3.0 ヨーク家の紋章 ![]()
「バラ戦争」は、30年間にわたって繰り広げられ、最終的にランカスター家の一族であるテューダー家のヘンリーが、ヨーク家のリチャード3世を倒し、テューダー朝を開いて、ヘンリー7世として即位しました。
ヘンリー7世は、ヨーク家のエリザベスと結婚することで、両家の争いに終止符を打ちました。
アーサー王太子との結婚

1485年にばら戦争が終結しましたが、イングランドの国情は不安定であり、ヘンリー7世は、スペインとの結束を求めていました。丁度、スペイン側も敵対するフランスを包囲したかったので、イングランドとの縁組は望むところでした。
そして、スペインの王女カタリナと、ヘンリー7世の長男のアーサーとの縁組の話が、進められました。貪欲なヘンリー7世は、スペインに巨額の持参金を要求しました。
参考画像:Henry Seven England ヘンリー7世 (イングランド王) ![]()
スペインのイングランド駐在大使であるデ・プエブラが、1489年3月に交渉をまとめました。ところが、フランスとの抗争が一時中断し、イングランドもスペインもフランスと和議を結んだために、婚約が破談となりました。
その後のヨーロッパの情勢の変化で、1497年に再び縁談がもちあがり、婚約が成立しました。アーサー王太子は、1499年と1500年に代理結婚式をあげ、キャサリンと文通をしました。特に1500年にアーサーが送った手紙には、キャサリンへの深い愛情にあふれた文面が見られ、キャサリンもアーサーに愛情を感じました。
参考画像:Depicted person: Arthur Tudor (1486-1502), Prince of Wales was the first son of King Henry VII of England and Elizabeth of York. This portrait is regarded as the only surviving contemporary portrait of the sitter. アーサー・テューダー ![]()
14歳のキャサリンには、まだ少女の面影が残り、結婚にはまだ早いという年齢でしたが、イングランドとスペインの政略結婚の意味が強く、当事者の意向は全く無視されました。
スペインからイングランドへ嫁入り
1501年5月、キャサリンはスペインのグラナダを出発し、10月にイングランドのプリマス港に到着しました。11月15日にセント・ポール大聖堂で、アーサー王太子との結婚式が挙げられました。
参考画像:Old St Paul’s Cathedral in London from Early Christian Architecture by Francis Bond (1913). From a Copy, in the possession of Mr. Crace, Esq., of the earliest known view of London, taken by Van der Wyngarde for Philip II. of Spain. (Signed W.H. Prior, Typographic Etching Co., Pub. c.1875) 旧セント・ポール大聖堂 ![]()
純白のウェディングドレスは、数々の宝石が散りばめられ、ヘッドチュールには金とパールで飾られ、約4センチの大きなダイヤモンドも輝いていました。
ヘンリー王子は、この時10歳でした。彼の眼には、スペインの美しい王女の姿が焼き付き、驚きと感動を覚えました。キャサリンをエスコートしアーサーに引き渡すのが、彼の仕事でした。
披露宴では、キャサリン王女が、カスタネットを鳴らしながら、スペイン風の音楽に合わせてダンスを披露しました。
アーサー王太子は、体が弱く病気がちでした。それゆえに、夫婦の関係はなかったとされています。アーサー王太子は人前では、「結婚とは、喉が渇く仕事だね」と言いましたが、実際には、何もできませんでした。
それでも、アーサー王太子は、スペインのイサベル女王とフェルナンド国王にお礼の手紙を書きました。スペインからは、持参金の半分が送られてきました。金額は、10万クラウン(約4億3千万円)です。ヘンリー7世は、お礼の手紙を書きました。
ヘンリー7世は、二人のために様々な歓迎を用意しました。お芝居やダンスなど、アーサー王伝説や聖カタリナにちなんだ演目が披露されました。キャサリンの案内役は、当時、10歳のヘンリー王子(後のヘンリー8世)でした。
この時、キャサリンが着用したドレスのファージンゲールは、たちまちイングランド宮廷に流行しました。ファージンゲールとは、スカートを膨らませ豪華に見せる下着のことです。
参考画像:A support, such as a hoop, worn beneath a skirt to extend it horizontally from the waist, used by European women in the 1500s and 1600s. ファージンゲール ![]()
アーサーの死、動揺するイングランド
1501年11月14日、二人は、セント・ポール大聖堂で結婚式をあげました。ところが、12月、アーサーは、流行性の感冒にかかってしまいました。そして、1502年4月2日、アーサーは、15歳で亡くなってしまいました。
アーサーが亡くなってしまったので、本来であれば、キャサリンはスペインに帰らなければなりませんでした。キャサリンの心の中は、アーサーを失った悲しみと、将来への不安な気持ちが交錯し、暗い毎日をすごすことになりました。
ヘンリー7世は、持参金の返却を惜しみ、ヘンリー王子との縁組を進めるようにスペインに働きかけました。
参考画像:Portrait of Henry VIII of England (1491-1547), reigned 1509-1547. ヘンリー王子(ヘンリー8世) ![]()
アーサーの死は、スペインも動揺しました。1499年から1504年にかけて、イタリアをめぐる戦争でフランスと対立したからです。スペインはイングランドの援軍を期待していました。
アーサーの死によって、同盟が破られるのは困った事態でした。スペインとしても、弟のヘンリー王子との縁組を進めるようにイングランドに働きかけました。
アーサーを失ったキャサリンは、両親からも何の慰めの手紙もありませんでした。この結婚が、愛情よりも政略結婚の意味が強かったからでしょう。
キャサリンは、スペインとイングランドの政治のかけひきのために、宙ぶらりんの立場に置かれました。キャサリンは、孤独な生活をロンドンのダラム司教館で暮らしていました。
参考画像:Photos of Durham Castle and Cathedral by Merlin-UK is licensed under CC BY-SA 3.0 ダラム大聖堂 ![]()
ヘンリー7世は、莫大な持参金を返すことが惜しくてたまりませんでした。そのため、当時、妃を失ったヘンリー7世は、再婚相手にキャサリンを望みました。しかし、さすがに持参金目当ての再婚話に、イサベル女王は、烈火のごとく怒ったそうです。そのため、ヘンリー7世は、すぐに取り下げました。
ヘンリー王子との再婚と旧約聖書のレビ記
スペインは、アーサー王太子の代わりにヘンリー王子との再婚を望みました。ところが、ローマ教皇からは、旧約聖書に抵触するという問題で、ヘンリー王子との再婚が認められませんでした。
旧約聖書のレビ記の18章16節や20章22節には次のように記されています。
「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである」
レビ記18章16節
「兄弟の妻をめとるものは、けがらわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に恵まれることはない」
レビ記20章22節
キャサリンの結婚に祝福を与えたジェラルディニ神父は、「関係はあった」としましたが、女官長のマヌエル夫人は、「関係はなかった」としました。
スペインもイングランドも、女官長の「関係はなかった」という説に喜びました。結局、ジェラルディニ神父は、スペインに帰国する事態になり、再婚には支障がないという結論になりました。
しかし、吝嗇なヘンリー7世は、アーサー王太子とキャサリンの結婚が成立していないという理由から、キャサリンに対して、寡婦財産や生活費を与えることを拒みました。
彼の言い分は、キャサリンはスペイン側が面倒をみるべきだという主張だったのでしょう。
スペイン側は、この時、イタリア戦争のために、お金に困ってしました。そのため、キャサリンにお金を送ることができませんでした。キャサリンは経済的に困窮し、マヌエル夫人に頼らざるを得ませんでした。
ようやくスペインがイタリア戦争に勝利すると、正式にヘンリー王子との婚約が決定されました。
こうして、1503年6月23日、ヘンリー王子とキャサリンの婚約がイングランドとスペイン双方の合意で成立しました。ヘンリー王子は、この時、12歳でした。キャサリンは、16歳になりました。イングランドに来てから、もう2年が経過していました。
婚約式では、アーサー王太子との結婚は成立していないことを理由に、ローマ教皇に結婚の許可を申請することが決定されました。
また婚礼は、ヘンリー王子が15歳に達し、残りの持参金が支払われた時に行われることになりました。
母親のイサベルの死
スペインの女王イサベルは、1504年、第二次イタリア戦争での勝利を理由に、キャサリンとアーサーの弟ヘンリー王子との再婚を、ローマ教皇ユリウス2世に非公開を条件に許可させました。
ところが、イサベル女王は、1504年11月26日、バリャドリッドのメディナ・デル・カンポの王宮にてその波乱の生涯に幕を閉じました。
参考画像:Retrato de la reina Isabel I de Castilla (1451-1504), hija del rey Juan II de Castilla y sucesora de su hermanastro, el rey Enrique IV de Castilla. イサベル1世 (カスティーリャ女王)
遺骸は遺言に従いアルハンブラ宮殿の聖フランシスコ修道院に埋葬されましたが、後にグラナダ大聖堂の王室礼拝堂に改葬されています。
ヘンリー8世との再婚

キャサリンは、1487年12月16日に生まれであり、ヘンリー王子は1491年6月28日生まれなので、キャサリンはヘンリーよりも4歳年上でした。
ヘンリー王子は、ラテン語やフランス語、イタリア語に堪能でした。また乗馬が好きで、よく狩りをしたそうです。それだけでなくダンスも得意で、音楽の才能もありました。
1503年にヘンリー王子とキャサリンは婚約しましたが、ヘンリー王子が15歳になるまで結婚ができません。アーサー王子のように手紙を出したという記録はありませんので、行動的なヘンリー王子は宮廷内でキャサリンと親しく話をしたり、音楽を聴いたり、ダンスを楽しんだりしたと思われます。
1509年4月、ヘンリー7世が肺結核で亡くなりました。彼は、ヘンリー王子にキャサリンとの結婚を命じました。ヘンリー王子は、王位を継承し、ヘンリー8世と名乗りました。
参考画像:King Henry VIII having a quality time ヘンリー8世 (イングランド王) ![]()
ヘンリー8世は、キャサリンと婚約をしていましたが、まだ結婚式はしていませんでした。
当時のヘンリー8世は、キャサリンと早く結婚したがっていました。キャサリンの美しさは、他の誰にも負けませんでした。
ヘンリー8世は、枢密院の同意もとりつけることなしに、1509年6月11日に、立会人を一人として、ロンドンのグリニッジにあるプラセンティア宮殿で、キャサリンと結婚式を強行しました。
こうして、キャサリンはイングランドの王妃となり、ウェストミンスター寺院にて、6月30日に戴冠式を行いました。
参考画像:Henry VIII Catherine of Aragon coronation woodcut ヘンリー8世とキャサリンの戴冠式 ![]()
アーサーとの死別以来8年近く苦境にあったキャサリンにとって、ヘンリー8世との再婚は、幸福への道を示すものに思われました。当時、ヘンリー8世とキャサリンの仲は、相思相愛の夫婦であり、とても円満でした。
結婚後のキャサリンの苦悩
ヘンリー8世との夫婦仲は、良かったのですが、妊娠はしたものの度重なる流産と死産に見舞われました。
参考画像:Mary Tudor/Catherine of Aragon 王妃キャサリン ![]()
最初の出産は、女児でしたが死産でした。次の出産は男児でしたが、わずか生後52日で亡くなってしまいました。
落胆したヘンリー8世は、他の女性に手を出すようになりました。
名誉挽回、摂政となりイングランドを守る
1513年6月、ヘンリー8世は、フランス遠征に出かけました。イングランドに残るキャサリンは、摂政を命じられました。
8月21日、スコットランド軍と戦い、大勝しました。スコットランド軍のジェームズ4世は、この戦いで戦死しました。
参考画像:Porträt of James IV of Scotland; Oil on panel ジェームズ4世 ![]()
キャサリンは、この勝利で、国民からたくさんの称賛を得ました。
スペインとイングランドは、フランスを挟撃する計画でしたが、ローマ教皇は戦争終結を望み、外交的に画策し、スペインと講和を結びました。
キャサリンは、スペインの父親のフェルナンドの裏切りに対し、激怒しました。そして、キャサリンはスペインと決別することにしました。
キャサリンの出産記録
その後、キャサリンは男児を死産し、ヘンリー8世をまたもや落胆させました。ヘンリー8世は、また新たな愛人を求めて、宮廷内を漁りまくっていました。
1516年、ようやく健康な女児のメアリー王女が誕生しました。今度ばかりは、ヘンリー8世も、出産を喜び、メアリーを溺愛しました。
参考画像:Portrait of Mary I (1516-1558) メアリー1世 (イングランド女王) ![]()
キャサリンは、ヘンリー8世と結婚して、全部で6回妊娠しましたが、彼女が生んだ子供は生存したのは、メアリーの1人だけでした。
以下は、キャサリンの妊娠と出産の時系列です。
1509年 | ヘンリー8世とキャサリンが結婚。 |
---|---|
1510年 | 第一子が誕生。しかし、子供は早世しました。 |
1511年 | 第二子が誕生。健康状態が悪く、早世しました。 |
1513年 | 第三子が誕生。これも早世しました。 |
1516年 | 第四子メアリーが誕生。彼女は唯一生存した子供で後にメアリー1世となりました。 |
1518年 | 第五子が誕生するも、早世しました。 |
1520年 | 第六子(性別不明)が誕生するも、早世しました。 |
愛人に男子誕生
愛人のひとりにエリザベス・ブラントという女性がいました。エセックス州にある別荘に彼女を住まわせました。1519年に、彼女は男子を産みました。
ヘンリー8世は、彼にヘンリー・フィロッツロイと名付けました。
正式な世継ぎに男子は恵まれませんでしたが、浮気の相手には男子が誕生したという、なんとも皮肉な話です。
参考画像:portrait miniature ヘンリー・フィッツロイ ![]()
ヘンリー8世は、議会法によってヘンリー・フィロッツロイを嫡出子として認めさせようと思いました。可能ならば、メアリー王女と結婚させようとも考えました。
ヘンリー・フィロッツロイは、王室の公爵領地のリッチモンドを与えられ、英国海軍最高幹部に任命されました。
アン・ブーリンに翻弄され離婚問題が起きる
キャサリンは多くの妊娠を経験しましたが、最終的にはメアリー1世だけが成人まで生存しました。妊娠の結果、男児を得ることができなかったため、ヘンリー8世は離婚を望むようになりました。
その原因となった事件は、1522年に、アン・ブーリンが、フランスから帰り、キャサリン付きの女官として登場したからです。
参考画像:Portrait of Anne Boleyn, probably based on a contemporary portrait which no longer survives. アン・ブーリン ![]()
アンは20歳、頭もよく美しい女性でした。しかし、彼女はヘンリー8世の愛人になることを拒否しました。
断られると、ますますアン・ブーリンに対する思いが倍増しました。なぜ、アン・ブーリンが愛人になることを拒否したかというと、アン・ブーリンの姉が、ヘンリー8世の愛人となりましたが、簡単に捨てられてしまったからです。
アン・ブーリンは、「私を愛人にしたければ、妃にしてください」と言いました。ヘンリー8世は、彼女の要求に驚きましたが、男子を産めないキャサリンを疎ましく思い、アン・ブーリンと結婚しようと思いました。
最終的にヘンリー8世は、キャサリンに離婚を宣言し、1533年にアン・ブーリンと結婚しました。
しかし、この離婚宣言は、ローマ教会に認められていませんでした。キャサリンとの結婚は、ローマ教会の特免状まで取得して結ばれた結婚でしたので、ヘンリー8世の要求通りには、離婚は成立しないことは、ヘンリー8世にも分かっていました。
この離婚問題から、カトリック教会との争いに繋がり、イングランド国教会の成立にも影響を与えました。
ヘンリー8世との結婚生活は幸せだったのか

ヘンリー8世は、6人の妃を持ちましたが、キャサリンの結婚生活は25年間続きました。他の5人の妃たちは、アン・ブーリンとキャサリン・ハワードは斬首され、アン・オブ・クリーブスは離婚となりました。
ジェーン・シーモアは、出産中に苦しみながら亡くなりました。キャサリン・パーは、ヘンリー8世の死後も生き延びましたが、1年後に亡くなりました。
参考画像:A portrait of Catherine Parr (1512–1548), sixth and last wife of Henry VIII of England by William Scrots? キャサリン・パー ![]()
ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの結婚式は、1509年6月11日、グリニッジ宮殿で行われました。
結婚当時、キャサリンは23歳でした。ヘンリー8世は、18歳になるところでした。最初の夫のアーサー・テューダーの死後、キャサリンは多くの苦難を経験しました。しかし、ヘンリー8世は、キャサリンのことを愛し、少しでも早く結婚したいと思っていました。
なぜならキャサリンは、世界で最も美しい女性と評されていたからです。学者のトマス・モアは、絶頂期のキャサリン女王に匹敵する女性は、ほとんどいなかったと述べています。
参考画像:Hans Holbein, the Younger – Sir Thomas More – Google Art Project トマス・モア ![]()
この幸せの結婚は、1533年5月23日で婚姻無効となりました。しかし、キャサリンは、それを認めませんでした。1536年に息をひきとるまで、自分がヘンリー8世の正式の妻であったという信念を持っていました。
いずれにしても、キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚期間は、他の誰よりも長かった事実は変わりません。この期間に彼女は6回の妊娠をしました。しかし、流産や死産で無事に成長したのは、メアリーだけでした。
こうした苦難のなかでも、キャサリンの気丈な性格は変わりませんでした。
参考画像:William Bromley (c.1818–1888) – Catherine of Aragon – 1910.18 – Manchester Art Gallery キャサリン・オブ・アラゴンと枢機卿たち ![]()
1517年5月5日の朝、メーデーの暴動が起き、300人近い男たちが逮捕されました。ヘンリー8世は、全員に死刑を宣告すると宣言しました。しかし、キャサリンは、この決定に反対し、代替案を提案する勇気を持っていました。
キャサリンは、ヘンリー8世の前に進み出て男たちに代わって同情を乞い始めました。ヘンリー8世は、キャサリンの話を聞き、態度を軟化させました。彼は、300人のうち15人だけを処刑し、あとの男たちを許しました。
発表を聞いた群衆は喜びに飛び上がり、キャサリンを讃えました。
しかし、ヘンリー8世は、アン・ブーリンと結婚したいという思いから、裁判を起こし、キャサリンと離婚しようとしました。
第2幕第4場ブラックフライヤーズ殿の大広間
キャサリンがどのような気持ちでいたか、シェークスピア(1564~1616)は、キャサリンの死後の生まれですが、彼の戯曲に描かれたキャサリン女王の心情は、観客の心を捉え不朽の名作となりました。
参考画像:William Shakespeare ウィリアム・シェイクスピア ![]()
日本の作家の坪内逍遥が、見事な翻訳でそれを現代に伝えています。以下に彼の翻訳をもとに要約したものをご紹介いたします。
キャサリンは、ヘンリー8世を前にして、彼女の心情を訴えました。
(ヘンリー8世閣下、)どうぞ、寛大なお裁きをお願いします。私には誰の味方もありません。哀れな私にどんな罪があるのでしょう。
どうして離婚をなさろうとするのですか。私は常に誠実で謙遜な妻でした。この20年、私は貞順な妻として、多くの子どもを儲けましたことを思い出してください。
おそれながら閣下の御父上のヘンリー7世は、思慮深い方でした。わが父、フェルディナンドとの合意の上、私たちの結婚が決まりました。そのことをお考えになって、離婚にはご猶予をお与えくださいませ
シェークスピアの戯曲よりキャサリン女王の心情を抜粋
シェークスピアが描いたように、キャサリンの心には、過去20年間の苦労や苦しみが沸き上がり、尚且つ貞順に従い、不平不満も言わず、忍耐の生活を続けてきたキャサリンの真実の声のような気がします。
参考画像:Katherine of Aragon Denounced Before King Henry VIII and His Council 国王の前で弾劾を受ける王妃(19世紀画) ![]()
キャサリン・オブ・アラゴンは、1536年1月7日に亡くなりました。その日の早朝、キャサリンは、これから起こることを予感し、司祭を呼びました。
ランダフの司祭ジョージ・デ・アテクアは、キャサリンの告解を聞き、聖体拝領を執り行いました。また、キャサリンの最期の数時間に、司祭は、最後の手紙を書くことを手伝ったと言われています。
この手紙の内容は、ヘンリー8世への不滅の愛が力強く書かれていました。「死期がせまっています」と書き出された手紙には、ヘンリー8世に対し、「私は、あなたのすべてを許します。そして神があなたを許してくださるよう、熱心に神に祈ります」と書かれていました。最後に、「キャサリン女王」と署名しました。
翌日、彼女の死の知らせはヘンリー8世のもとに知らされました。
スペイン大使のユースタス・チャプイスによると、ヘンリー8世は、黄色の服を着ていたと報告されています。黄色が喜びを表す色か、喪服の色なのか、よく問題になりますが、ヘンリー8世は、心の中ではキャサリンの死を嘆いていたために、スペインの伝統的な喪服の色である黄色い服を着ることで、キャサリンの死を悼んでいたという可能性が高いと考えられています。
数週間後、1月29日、キャサリン・オブ・アラゴンの遺体は、ピーターバラ修道院(現在はピーターバラ大聖堂)に埋葬されました。
彼女はウェールズの未亡人王女として埋葬されましたが、彼女の墓には現在、「キャサリン、イングランド女王」という言葉が刻まれています。
参考画像:The grave of Catherine of Aragon at Peterborough Cathedral in Cambridgeshire, England. by Diliff is licensed under CC BY-SA 3.0 キャサリン・オブ・アラゴンの墓所 ![]()
ピーターバラ大聖堂は、彼女の死後5世紀が経った現在でも、毎年、たくさんの人々が訪れ、献花がなされています。礼拝や年間行事を通じて、彼女の死を悼む人々が多く、現在でも人気が衰えていません。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
スペイン女王イサベルの恋と愛にかけた生涯
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
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得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
キャサリンの運命に襲い掛かった不運の数々にもめげず、彼女は強く生き抜きました。
アーサーの死、旧約聖書に抵触したヘンリー王子との婚約、ヘンリー王子との婚約期間にも続いた経済的な困窮、ヘンリー8世と結婚後に続いた出産の不運、それに続くヘンリー8世の浮気など、生きる気力を失わせるような問題ばかり、それでもへこたれなかったキャサリンの姿に感銘いたします。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性40代
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本当にありがとうございました。