悲劇のヒロイン瀬名姫の悲しみに満ちた人生
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年4月21日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
戦国時代には、悲劇の運命をたどった多くの女性たちがいます。最近大河ドラマで話題の「どうする家康」にも悲劇のヒロインが登場します。瀬名姫(築山殿)もその一人です。
彼女に対する評価は「悪女」とされていますが、瀬名姫は本当に「悪女」なのでしょうか。彼女のことを思い静かに念じると、私の霊感に彼女の言葉が聞こえてきます。
「私は決して悪女ではありません。家康殿の秘密を守ったのです」という声が聞こえてくるのです。
今回は、徳川家康の波乱万丈の人生と、その中で犠牲となった瀬名姫の悲しい物語をスピリチュアル的にお伝えしたいと思います。
家康の生い立ちと瀬名姫(せなひめ)との出会い
徳川家康が生まれたのは、天文11年(1542年)12月26日でした。父親は岡崎城主、松平広忠、母親は於大の方(おだいのかた)です。家康の幼名は竹千代と名づけられました。家康の誕生年は、寅年です。しかも寅の日に生まれました。
寅年生まれの性格は、両極端に別れます。チャレンジ精神が旺盛で、意思が強く大成功するタイプと、親分肌できっぷが良い反面、情にもろく人生を誤るタイプです。
寅年生まれの人と相性が良いのは、午(うま)、戌(いぬ)、亥(い)の生まれの人です。
反対に寅年生まれと相性が悪いのは、丑(うし)、巳(み)、未(ひつじ)、申(さる)の生まれの人です。
正妻の瀬名姫(築山殿)は、1579年の生まれと言われています。この年に生まれたとすれば、瀬名姫(築山殿)は兎年の生まれなので、家康と特に相性が悪かったとは言えません。
但し、家康は寅年にしては、慎重で疑り深い性格であり、瀬名姫(築山殿)は、明るく積極的で愛情豊かな性格なので、家康の考えや行動に、かなり苛立ちを覚えたかもしれません。
織田氏と今川氏の戦いに巻き込まれる
1545年、竹千代が3歳になった頃、三河の国一帯(現在の愛知県)は織田家と今川家が互いに争っていました。三河を守る松平家は、今川家と同盟を結んでいました。
ところが、この時、母親の於大の方(おだいのかた)の兄である水野信元が、尾張の織田信秀(織田信長の父親)と同盟を結んでしまいました。
そのため、父親の松平広忠は、於大の方(おだいのかた)と離縁しなければならなくなりました。
1547年、竹千代が6歳になった頃、織田信秀が三河に向けて侵攻を始めました。
松平広忠は、今川家に救援を要請しましたが、今川義元は援軍を送る条件として、竹千代を人質として差し出すことを要求してきたのです。
松平広忠は、竹千代を人質に出すことを承諾し、今川家の駿府(すんぷ、現在の静岡県)に移送することにしました。
竹千代誘拐事件
ところが、途中の宿泊地である田原城(たはらじょう)で、戸田康光の裏切りによって、竹千代は尾張の織田信秀のところに誘拐されてしまったのです。
織田信秀は、松平広忠に対し今川家との断交を要求しましたが、広忠は今川家への忠誠を表明し、信秀の脅迫を退けました。
幸い、竹千代は信秀に殺されることはなく、そのまま信秀の下に置かれました。もし、この時点で竹千代が殺されていたら、徳川の歴史は始まる事すらなかったでしょう。
1548年、今川義元は、織田信広(織田信秀の息子)を捕虜にしました。そして、人質の交換交渉をしました。
その結果、1549年、竹千代はようやく、今川家に引き取られることになりました。この時、竹千代は8歳でした。
天涯孤独の人質生活
ところが、竹千代が今川家に移送された直後、父親の松平広忠が家臣に殺害されるという事件が起きました。竹千代は父親まで亡くしてしまい、天涯孤独となってしまいました。
今川義元の下での人質時代は、法蔵寺の和尚に手習いや漢籍を習い、四書五経なども読んだと言われています。しかし、竹千代は病弱であったため、祖母の(源応尼)に育てられました。
祖母に育てられたことは、肉親とのつながりがない寂しい人質生活の中では、唯一大きな救いとなったのではないでしょうか。
その頃の家康をじっと霊視しますと、どこか寂しげで、祖母の後ろに隠れるようにして生きている、小さな子供の姿が浮かんできます。誰かが、「お菓子をあげるからおいで」と声をかけても、他人を怖がり怯えていました。
元服し、竹千代から元信と改名する
竹千代は14歳になり、元服(げんぷく)しました。元服(げんぷく)とは、一人前の大人となる儀式です。
名前も、今川義元から、「元」の字をもらい、「元信」と改名しました。義元から「元」の字をもらうことができたということは、義元からの信頼が厚かったと言えます。
義元の姪にあたる瀬名姫と結婚
築山殿/瀬名姫
1557年1月、元信は16歳になり、瀬名姫(せなひめ)と結婚しました。彼女は後に築山殿(つきやまどの)と呼ばれます。
瀬名姫は、今川家の中では、義元の姪にあたる身分の高い女性でした。元信にとっては、逆玉の輿と言えるでしょう。
今川家の一族としての身分も得ることができ、当時の今川義元の権勢からみても、日本に今川政権が成立したら、元信もかなりの出世が期待できたでしょう。
瀬名姫との間には、1559年(永禄2年)長男が生まれました。幼名は元信と同じ「竹千代」と名付けました。彼は後の松平信康となります。翌年には、亀姫が生まれました。
この頃の信康は、幸せの絶頂期ではなかったでしょうか。戦国の世にあって、幸せな家庭の中で暮せるなんて夢のような心地がしたことでしょう。後に大きな悲運が待ち構えているとは知らずに…。
今川義元は、元信を将来、息子の氏真(うじざね 1538~1615)の臣下として、今川家の家臣となって欲しいと思っていたようです。
松平家の発展を願い、元信から「元康」に改名
元信は、幸せの絶頂にありました。名門の瀬名姫を正妻とし、跡継ぎも生まれました。
この頃から、元康は、本来の寅年の性格が出てきたと言えます。秘かに一国一城の主(あるじ)の夢を見るようになりました。そして、名前を元信から、「元康」に改名しました。
この「康」という字は、彼の祖父である松平清康の「康」の字です。清康は勇猛果敢、知略に富んだ武将で、元信のあこがれの姿でした。彼は、祖父のようになりたいと思い、その願いを込めて、「元康」としたのです。
運命の分かれ道、桶狭間の戦い
1560年、(永禄3年)5月19日、今川義元は、2万5千人の軍勢を率いて京都に向けて進軍を開始しました。
行く手には、織田軍が待ち構えています。しかし、織田軍はわずかに3千人ぐらいの手勢しかありませんでした。
誰も今川義元が敗れるとは露ほどにも考えていなかったのです。元康も今川義元の勝利を疑うことはありませんでした。
しかし、織田信長の奇襲作戦が成功し、桶狭間の戦いにおいて、今川義元は織田信長に討たれてしまいます。
今川義元が敗れたという知らせは、元康の所にも届きました。彼は桶狭間に偵察隊を送り、義元が敗れたことを確認したのです。
この時、跡継ぎの今川氏真は、北条との戦いで余裕がありませんでした。そのため、織田家との戦いに戦力を割くことができない状況にありました。
今川家との決別
ここで、元康にとっては、幸運な状況が舞い込んできました。今川の軍勢は、次々と駿府に引き上げ始め、岡崎城を守っていた今川軍も引き上げてしまったのです。
つまり、岡崎城は空っぽの状態になってしまったのです。元康はそれを見て、「とにかく岡崎城に入ろう」と決めました。
しかし、駿府の今川家には瀬名姫と竹千代や亀姫を残しています。今川家と敵対すれば、人質として命の保証はありません。
元康は、瀬名姫と竹千代を取り戻すために、今川勢を攻め鵜殿氏長と鵜殿氏次を捕虜にし、人質交換により、竹千代と瀬名姫を岡崎城に取り戻すことができました。
しかし、この時、瀬名姫の両親が人質交換に関して、裏工作をしたという疑いをかけられ自害させられてしまいました。
瀬名姫の心境は、夫が今川家から突然独立し、人質から解放されはしたものの、両親を失い、驚きと、悲しさと、悔しさで複雑な思いであったことでしょう。
瀬名姫は、そのような複雑な思いで元康といっしょに暮すのは辛かったのではないでしょうか。岡崎城には入らず、岡崎城外の築山(つきやま)という場所にある屋敷に住むことになりました。
そのため、瀬名姫は築山殿(つきやまどの)と呼ばれるようになりました。
織田信長と清州同盟を結び、遂に「徳川家康」誕生
1562年、元康は織田信長と講和を結び、清州同盟を確立しました。元康は今川家から独立し、戦国大名の一人となりました。
1563年には、元康から「家康」へと改名しました。1563年(永禄6年)には、長男の竹千代と信長の娘の徳姫との婚約が成立しました。
1567年に結婚が成立し、二人とも9歳という夫婦なので、さぞ可愛いカップルだったと思います。ところが家康は、岡崎城に住まず浜松城に移ることになりました。
普通であれば、正妻の瀬名姫も浜松城にいっしょに移るはずですが、家康一人で浜松城に移ったのでした。
家康が、浜松城に一人で移ったことは、夫婦仲が悪かったとする説もあり、今川家の権威を持ち続ける高慢な妻と一緒に暮らすことは、たまらないと思っていたのかもしれません。
「松平」から「徳川」に改姓し完全独立
1566年(永禄9年)、家康は勅許を得て「松平」から「徳川」に改姓しました。遂に「徳川家康」が誕生したのです。
「松平」という姓も伝統のある姓ですが、朝廷から高い地位をもらうためには、貴族出身と言う肩書が必用でした。初めは源氏の流れをくむ新田一族の末裔の徳川氏ということで、朝廷に申し出ようとしましたが、間に入った近衛前久の意向で藤原姓徳川氏ということになりました。
その結果、従五位下(じゅごいげ)三河守という地位を得ることができました。従五位下以上が貴族とされていましたので、徳川家も公家の位を持つことができたという証明になったのです。
ひょっとすると家康は、瀬名姫に対して、「自分は小豪族ではない、貴族なのだ」と主張したかったのかもしれません。身分に対するコンプレックスは、今も昔も変わらない人間の心理です。
武田信玄の計略にはまり徹底的に敗北する
1573年(元亀3年)、武田信玄は遠江(とうとうみ、現在の静岡県)侵攻に乗り出しました。この時の武田軍の軍勢は2万2千人と言われています。途中、他の軍勢も加わり、総勢2万7千人以上の大軍勢となりました。
これに対して、家康の軍勢は1万5千人ほどでした。しかも、他の武将との抗争に兵を割いていたので、実際に動けるのは、8千人ほどしかいませんでした。これでは勝負になりません。
織田信長も他の武将たちとの戦闘で援軍を出すほど余裕がなく、家康は孤立してしまいました。残る作戦はひとつ、浜松城で籠城するしかありません。
ところが、武田軍は浜松城を包囲せず、浜松城を素通りし、無視するかのように、どんどん前進していきました。まるで、家康を馬鹿にしたように通過していったのです。
さすがに家康もこれには、武士の面目が立たないと思ってしまいました。家臣が止めるのを聞かずに、浜松城から出陣し、武田軍を追いかけました。
三方ヶ原の教訓
『顰像』(しかみぞう)
実は、これこそ武田軍の作戦だったのです。三方ヶ原(みかたがはら)で、家康の軍勢が追って来るのを待ち構えていました。
そうとは知らず、家康は陣形も整える時間もなく、武田軍の餌食となってしまいました。慌てて退却しますが、間に合いません。命からがら浜松城に逃げ戻りました。
家康は、この「三方ヶ原の敗戦」を深く反省し、自分の惨めな姿を絵に描かせました。それが「しかみ像」と呼ばれるものです。負けてボロボロになった家康の表情がよく出ています。家康はこの絵をそばに置いて、いつも自戒するようにしたと言われています。
それを見た瀬名姫は何と思ったことでしょう。「やはり武田家は強い。頼れるのは武田家しかない」と思ったかもしれません。
しかし、この後、武田信玄は途中で病死し、武田家は勝頼が継ぐことになりました。勝頼も武勇に富んだ武将でしたが、最終的に織田・徳川軍に敗れ、武田家は滅亡しました。
瀬名姫(築山殿)の殺害と信康の切腹事件
1579年、築山殿が殺害され、家康の長男の信康が切腹するという事件が起きました。信長の命令という説と家康が決定したという説があります。
その原因は、築山殿と信康が武田家と内通し、謀反を計画していた疑惑が浮上したためとされています。
発端は徳姫の手紙から
悲劇の発端は、信康の妻の徳姫が父の信長に宛てた手紙の中に、12箇条にわたり「信康と築山殿が武田家へ内通した」という内容が書き綴られていた事でした。
信長は、使者の酒井忠次に手紙の内容を確認しましたが、忠次が「その通りでございます」と認めたので、築山殿と信康の罪状が確定してしまいました。
そのため、信長は家康に対し、信康の切腹を命じたとされていますが、他の説では、信長は家康に処分を任せると言ったとするものもあり、真実は不明です。
他にも、家康と信康は仲が悪かったという説もあります。信康は、気が短く乱暴を働くことで、家臣を悩ませていたと言われています。
家康の手に余るほどの乱暴者と言われる信康ですが、戦いにおいては勇猛果敢な働きもあり、武将としては恐ろしく強い人でもあったようです。
いろいろな説がありますが、長男の信康を切腹させ、正妻の築山殿を殺害させるまでの罪状があったとは思えません。
全ては家康の策略だった?
戦国の世では他者を出し抜くことが当たり前となっていたので、当然、築山殿が武田家と内通していたとしても何ら不思議ではありません。
ですが、そんな世の中であったからこそ、家康が信康と築山殿を逆に利用し、秘密裏に武田家と関係を持たせたのではないかという疑いも否定できません。
問題は、その関係を徳姫に知られてしまったことです。
自分もその陰謀に加担していたとなれば、信長から疑われ、殺されるかもしれないという恐怖が家康にはあったのではないでしょうか。
徳姫が書いた12箇条は、実は家康が徳姫に書かせて、使者の酒井忠次に持たせたとする文献もあります。
家康は、使者の酒井忠次に、書状を信長に手渡す際、くれぐれも自分自身に疑いがかからないように、「悪いのは信康と築山殿」と言わせたのでした。
徳川家を守るために、家康は大事な二人を犠牲にする覚悟を決めたとみてよいと思います。
瀬名姫の悲劇から私たちが学ぶべきこと
下剋上が渦巻く戦国時代を生き抜くことは、並大抵のことではありませんでした。ですが、親子や夫婦の絆を犠牲にしてまで生き残らなければならないのは、果たして幸せな人生と言えるでしょうか?
家康の策略によって、瀬名姫が命を落としたのだとするならば、彼女は徳川家を守るために、自らを犠牲にしたとも言えるでしょう。後に家康が創立した江戸幕府は200年以上も続くことになりますが、その繁栄を陰ながら支えていたのは、他ならぬ瀬名姫の祈りだったかもしれません。
ですが、瀬名姫から見た家康は、己の保身のために、息子も妻も犠牲にした哀れな男性としか映っていなかったでしょう。
人間の醜さは、表面を綺麗ごとで済ますことです。そのために犠牲になるのはいつも弱者です。
どれだけ時代が変わっても、瀬名姫と同じような悲劇は後を絶ちません。
歴史の話に興味が無い人でも、瀬名姫の波乱に満ちた生涯から、教訓を感じ取ることができるはずです。
それでは、最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
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「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
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実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
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多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「悲劇のヒロイン瀬名姫の悲しみに満ちた人生」は如何でしたでしょうか?
現代は、昔の戦国時代のように、殺しあうことはありませんが、生存競争は変わりありません。やはり、強いものが勝ち、弱いものが犠牲となります。そのような人生の矛盾に悩まれる方もたくさんいらっしゃると思います。
困ったときは、いつでも絆にご相談頂ければ、お悩みを軽くし、未来に明るい希望を持っていただけるように努めてまいります。是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性60代
非常に優しい先生でした。
彼が最近冷めてきたのでは、と感じる事もありお電話しましたが、あまりに良いカードが出たので、戸惑っています。
一生懸命寄り添って下さり、心が暖かくなりました。ありがとうございました