東洋のマタ・ハリ、川島芳子の故国再興に夢をかけた生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年6月12日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は20世紀、近代中国の激動の時代に生きた川島芳子の話です。
彼女は、「東洋のマタ・ハリ」とか、「男装の麗人」などと呼ばれ、日本のマスコミに大きな衝撃を与え、多くの女性から羨望と尊敬を一身に集めた人物です。
「マタ・ハリは、聞いたことがあるけれど、川島芳子のことは詳しくは知らない」という方もいらっしゃるのではないでしょうか。
川島芳子は、最近のテレビドラマで取り上げられたことがないので、知名度は低いかもしれません。
彼女は、戦前日本の軍国主義の時代に、壮麗かつ型破りな行動で、世間をあっと驚かせましたが、最終的には死刑となり、悲劇的な運命を辿りました。
そんな川島芳子の波乱に満ちた生涯を、スピリチュアル的にお伝えしたいと思います。
川島芳子の生い立ちと川島浪速との出会い
「川島芳子」(かわしま よしこ、1906~1948)というと、ありふれた日本人的な名前ですが、本名は、「愛新覚羅・顕シ」(あいしんかくら・けんし、シは王に子)と言います。
「愛新覚羅」(あいしんかくら)という名前は、どこかで聞いたことがありますよね。
映画「ラストエンペラー」に出てくる最後の皇帝の名前が、「愛新覚羅・溥儀」(1906~1967あいしんかくら・ふぎ)です。
愛新覚羅・溥儀(あいしんかくら ふぎ、1906~1967)
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愛新覚羅・顕シは、皇帝の親戚の一人です。彼女の父親は第10代目の「粛親王」(しゅくしんのう)と言います。
彼は清朝政府の中で重要な地位にありました。しかし、清朝政府は、諸外国からの圧力や多額の賠償金、それに内部の汚職など、多くの問題を抱えていました。
それに加えて、西太后の専横的な政治と贅沢な出費が仇となり、清朝政府は財政的に困難な問題をかかえていました。
しかし、粛親王は、黙々と自らの務めに最善を尽くしていました。
愛新覚羅・顕シは、粛親王の14番目の娘でした。姉妹の中でもとりわけ美しく目立つ存在でした。
粛親王は、可愛い娘たちを見るだけで、慰めとなりました。特に顕シは、目に入れても痛くないほど可愛かったので、甘やかして育ててしまいました。
そのため、彼女はわがままな性格となり、侍女たちを困らせることが多かったようですが、反面、情緒豊かな夢多き少女でもあったと言われています。
しかし、愛新覚羅顕シが、政治的な意識に目覚めたのは、「川島浪速」(かわしま なにわ)の養女になってからです。
日本のジャンヌ・ダルクになろうと男装までして、気の強いところを見せる川島芳子でしたが、内心はとても傷つきやすい純真な心を持った女性でした。
川島浪速との出会い
川島浪速という人物は、大陸浪人(たいりくろうにん)と呼ばれる日本の民間人でした。
大陸浪人というのは、明治から昭和前半期にかけて、中国大陸を放浪しながら、大アジア主義を実現するための活動を行っていた人々を指します。
とはいえ、愛新覚羅の一族である幼い皇女が、日本からやってきた平民の養女になるというのは、前代未聞の話です。
では、どうして日本人の川島浪速は、彼女を養女にできたのでしょうか?少なくとも彼は日本の皇族でもなく、軍部の権力者でもありませんでした。
それでも川島浪速は、皇帝の親族に信頼されるほど偉大な人物であったことは確かです。
彼には、壮大な志と度胸がありました。大望を抱き、大陸に渡っていった一人の無頼漢、それが川島浪速であったのです。
川島浪速の生い立ち
川島家は、もともと信濃国松本(現在の長野県松本市)の松本藩士の家柄です。彼の父親が徳川方の藩士として長州征伐に参加した時、大阪に出陣中に生まれたことで、「浪速」(なにわ)と命名されました。
川島家は徳川方の藩士だったので、明治政府になってからは、出世に恵まれず、不遇の人生を歩まなければなりませんでした。
零落した川島家は1875年(明治8年)、一家で東京に移り住み、浪速はその時、9歳でした。
彼は、お茶の水の東京師範付属小学校を卒業し、その後、東京外国語学校に入学し、中国語を学びました。
当時、川島浪速が中国語を学んだ動機は、日本の中国進出が大いに関係しています。
明治以降、没落した士族は日本で八方塞がりでした。そのままでは破滅するしかありません。
あるものは屯田兵(とんでんへい)として北海道の開拓に、あるものは、ハワイやカリフォルニアに移住して、海外に活路を見出そうとしていたのです。
上海への渡航と日清戦争
1886年、20歳になった川島浪速は、直ちに中国へ渡ることを決意しました。東京外語学校を退学し、上海に渡りました。
上海は既にイギリス、フランス、アメリカの租界(そかい)が置かれ、立派な西洋風の大きな建物が並び、国際都市となっていました。日本は列強の国々には遅れをとり、中国で大きな利権を得るには至っていませんでした。
そんな状況を見て、川島浪速は、「いつか見ていろ、俺だって」と心に誓ったのです。
その後、川島浪速は中国各地を見聞しました。しかし、徒歩で中国を歩いて回るという無謀な計画のために健康を損ね、3年後にいったん帰国しました。
1894年(明治27年)に、川島浪速が28歳の時、日清戦争が勃発しました。
日清戦争(日本軍歩兵の一斉射撃)
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この戦争が川島浪速の運命を大きく変えていくことになったのです。
川島浪速は、得意の中国語を活かすため、陸軍通訳者として従軍し、再び中国に渡りました。
日本は、清国に勝利し、台湾や澎湖諸島、遼東半島の割譲、また巨額の賠償金を獲得しました。
川島浪速は通訳の仕事が増々忙しくなり、台湾総督府に転属となりました。
彼の中国語は、とても堪能であったので、非常に重宝がられました。その評判は台湾総督・乃木希典にも知られるようになります。 そして、川島浪速は単なる通訳ではなく、台湾総督府の高級官吏に抜擢されることになったのです。
義和団の変で再度中国へ
アヘン戦争以来、中国ではヨーロッパ列強の進出が続き、清朝政府は衰退の一途をたどっていました。
1900年(明治33年)、中国の各地では、列強の進出を排除しようとする反乱が起こりました。それが有名な義和団の乱です。
義和団の乱
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義和団の乱とは、「扶清滅洋」(ふしん めつよう=清国を助けて西洋の国を滅亡させようというスローガン)を掲げて、ヨーロッパ列強の中国侵略に対する反乱です。
当時、列強の進出に悩んでいた清朝の西太后も、この義和団を支持し、欧米列強に宣戦布告を行いました。
しかし、列強の近代化された軍隊は、清朝軍をまたたくまに破り、列強の連合軍は、2か月もたたないうちに北京を占領してしまいました。
義和団の乱が起きると、川島浪速は再び陸軍の通訳として、中国に派遣されることになりました。
日本軍もまた北京の紫禁城をとり囲み、何百もの大砲を並べ砲弾を打ち込もうとしていました。紫禁城の内部では、大勢の清朝軍が籠城していました。
川島浪速の活躍で無血開城
紫禁城の大きさは、南北961メートル、東西753メートル、敷地は72万平方メートルという巨大な広さです。東京ドーム約15個分という大きさであり、世界的にも威容を誇る偉大な城でした。
日本軍は、歴史ある紫禁城に砲弾を撃ち込むのをためらっていました。
紫禁城は、明の皇帝、永楽帝が、1420年に北京に建設して以来、清朝に代わってからは歴代の皇帝が24代にわたり居城としました。
紫禁城は、豪華壮麗なだけでなく、風格と気品を漂わせています。宝石のように美しい紫禁城が、砲弾の炸裂する中で炎に包まれ、焼け落ちることなど想像もしたくはありませんでした。
そこへ川島浪速が単独で軍部に進言したのです。
「私に紫禁城の件をお任せ願いたい。なんとか説得して見せます」
川島浪速は陸軍の通訳官ですが、武官としての経験があるわけではありません。
しかし、滔々と自説を述べ、命を懸けて説得するという熱意に軍部も動かされ、川島浪速に任務を託したのでした。
その結果、川島浪速の説得が功を奏し紫禁城は無血開城となりました。
粛親王と親交を深める川島浪速
日本の軍隊が紫禁城を守ったことで、西安に避難していた西太后や光緒帝も無事に紫禁城にもどることができました。
しかし、1908年、西太后と光緒帝は、精神的に疲れたためか、まもなく亡くなってしまいました。
そして、同年12月2日、ラストエンペラーとなる「宣統帝」(愛新覚羅・溥儀)が帝位につきました。しかし、まだ彼は3歳という若さでしたので、父親の醇親王が摂政を務めました。
紫禁城の無血開城以来、川島浪速は清朝皇帝の親族である粛親王と親交を深めることができ、遂には、義兄弟の契りを結びました。
粛親王は、川島浪速の能力を大変高く評価し、北京警務学堂の学長に任命しました。彼は、清朝政府からは破格の待遇を受けたと言われています。
揺れる清国、辛亥革命までの滅亡の経緯
1911年に辛亥革命が起き、1912年、清国が滅び、皇帝の溥儀が退位しました。
辛亥革命は、孫文が起こした革命です。孫文は革命の父と呼ばれています。
孫文(そん ぶん、1866~1925)
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中国の武昌で武装蜂起が起きると、それに呼応して全国的に革命軍が武装蜂起しました。清朝側の軍との交戦が始まりましたが、革命軍の威力が強く、次々に清朝側の軍を破っていきました。
1912年、清朝は講和の条件として、宣統帝の退位を受け入れ、中華民国による政権の樹立を認めることになります。
その代わり、清朝側からは以下の条件が示されました。
清朝から示された講和の条件
- 宣統帝の尊号は存続し、退位後も君主の待遇を保障すること。
- 紫禁城を住居とし使用人も維持できること。
- 皇室の私有財産も保護すること。
中華民国もこれを承認し、皇室に対して寛容な政策をとりました。
皇帝・溥儀の退位が決まると、粛親王一家は川島浪速の働きで日本の租借地である旅順(りょじゅん)へ移り住むことになりました。
粛親王は、清朝の再興をめざし、満蒙独立運動を起こし挙兵を準備しましたが、日本政府の命令で中止となりました。
粛親王は、もはや自分の力では満蒙独立は果たせないと悟り、娘の顕シ(けんし)に期待をかけました。
そして1915年、粛親王は世話になった川島浪速に、娘の顕シを養女にしてほしいと願い出たのでした。
9歳になったばかりの娘を養女に出すことは、粛親王にとって苦渋の決断であったに違いありません。
しかし、皇帝・溥儀の再興を果たすには、他に選択の余地はありませんでした。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「東洋のマタ・ハリ、川島芳子の故国の再興に夢をかけた生涯」は如何でしたでしょうか?
中国大陸は、実際に行って見てみるとよく分かるのですが、朝には東の地平線から太陽が出て、夕方には西の地平線に太陽が沈むという場所です。
目の前には原野が広がり、何もありません。そのような大地に立つと人間が大きくなります。東京のような近代化されたゴミゴミとした都市空間では、気持ちまで狭くなり、そのような気分にはなれるわけがありません。
そうした雄大な国の再興に夢をかけた川島芳子は、最後には夢が破れてしまいました。死刑の判決も下り、悔しかったことでしょう。未だに生存説が消えないのは、彼女の気持ちに同情する女性の方たちの支援が多くあるからでしょう。
人生には苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そうした状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
仕事で不本意なことがあり何が原因か、自分の改善点は何かを見ていただきました。辛い状況ですが、結果は驚くような周囲の負の感情でした。
今は孤立していますが、その職場に馴染まないことがむしろよかったんだと思えて涙が出そうになりました。次の職場は自分の姿勢が評価される場所であると聞いて力が湧く思いになりました。
終始優しい口調で私の気持ちを汲んで下さいながら前向きになるように伝えて下さり、とても心が癒やされました。本当にありがとうございました。