東洋のマタ・ハリ、川島芳子の故国再興に夢をかけた生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年6月12日
1915年に来日した川島芳子は、東京赤羽の川島家から豊島師範付属小学校に通いました。
養父の川島浪速は、芳子に常々こう言い聞かせていました。
「お前は日本と中国の楔(くさび)となって生きる人間だ」
芳子が中国の将来を背負って立つことを期待した川島浪速は、乗馬や剣道、射撃などに取り組む芳子の姿勢を見て、大変誇らしく思っていた事でしょう。
川島芳子の波乱万丈の人生の幕開け
芳子は幼いながらもジャンヌ・ダルクを夢見て、皇帝・溥儀のために、男に負けない活躍をする自分の姿を心に描いていました。
芳子は、ノートを開くとジャンヌ・ダルクの名前を何度も書き記し、ノートが真っ黒になるまで書き続けました。
ジャンヌ・ダルク(1412~1431)とは、祖国フランス国王・シャルル7世のために勇敢にイギリスと戦った女性の戦士です。しかし、異端の審問にかけられ有罪となり、19歳で火あぶりの死刑となりました。
ジャンヌ・ダルク(英: Joan of Arc、ユリウス暦1412年ごろ1月6日 – 1431年5月30日)
参考画像の引用元
それでも芳子は、ジャンヌ・ダルクのようになりたいと思いました。ヨーロッパ列強に侵略される母国の姿を見て、愛新覚羅の一族として、皇帝・溥儀のために命を捧げようと誓ったのです。
スピリチュアルな意味では、芳子は、ジャンヌ・ダルクの生まれ変わりであったかもしれません。
ジャンヌ・ダルクは裁判で死刑を宣告され火刑となっていますが、芳子も結果的には惨い最期を迎えることになりました。
粛親王との別れ
川島芳子は、小学校を卒業後、跡見女学校に進学しました。その後、養父の故郷である長野県松本市に転居し、松本高等女学校に転校しました。
1922年2月17日、芳子のもとに中国から悲報が届きました。
父親の粛親王が死去したのです。
芳子は川島浪速とともに葬儀参列と遺産分割の話し合いのために中国の旅順に戻りました。
ちなみに、現在でも遼寧省の旅順には、粛親王が晩年を過ごした赤レンガ作りの立派な邸宅が残っています。
粛親王府跡
参考画像:旅順の粛親王邸跡 by kamakura is licensed under CC BY-SA 3.0
失意のどん底から自殺未遂事件
実の父を亡くした芳子の心には、ぽっかりと穴が開いたような寂しさが残りました。そのことは、養父にも口に出しては言えなかったでしょう。
そんな芳子に、さらに追い打ちをかけるような出来事がありました。
川島浪速の家には、よく軍部の人たちの出入りがありました。その中に、陸軍松本連隊の少尉、「山家亨」(やまが とおる)がいました。
彼は、映画俳優のような二枚目で、笑顔が素敵な顔立ちと、洗練された身のこなしがありました。中国語も上手く、芳子はたちまち山家亭を好きになり、恋仲になりました。
ところが、その関係は山家亭の上司から快く思われず、最終的に2人の恋が実る事はなかったのです。
山家亭との破局が引き金となったかどうかは不明ですが、芳子は自殺未遂事件を起こしてしまいました。
男装に込めた決意
一命を取り留めた芳子は、それ以降、女性であることを拒否し、長く伸ばした髪を短く切って男装するようなったのです。
男装した川島芳子(1933年レコーディングスタジオにて)
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川島芳子の自伝「動乱の蔭に」(中公文庫)の中で、彼女はこのいきさつを次のように述べています。
心に描いたものと、現実の人との相違から感じた幻滅。これが私の女であることをやめようと思った一つの理由である。女であることの煩わしさ。そういった悩みと、宗社復辟(=清朝を守り復活させる運動)の夢のようなヒロイックな気持ちとが結合して、私は女であることをやめ、男になろうと決意したのであった。それは16の年の10月6日のことであった
「動乱の蔭に」(中公文庫)より
山家亭のその後
参考までに、川島芳子と別れた後の山家亭の人生についても簡単にご紹介します。
彼はその後、北京駐在の関東軍報道部所属となり、諜報活動に従事したようです。
それだけでなく、李明、白光といった中国の女優たちと多くの恋愛をしました。
李明とは同棲生活しており、李香蘭との交流もありました。李明と別れた後は白光とも同棲し、乱れた生活を送っていました。
1943年に帰国命令が出て、日本に帰国しましたが、国家反逆、機密漏洩、軍機違反、麻薬吸引など複数の罪で逮捕されたのです。
そして、軍法会議にかけられ、10年の禁固刑が下されました。しかし、名古屋空襲の際に脱獄したという噂もあり、その後の消息についてはハッキリしていません。
山家亭という軍人は、あまり素行が良い人間ではなかったようです。
紫禁城に幽閉された溥儀
1912年に皇帝を退位した溥儀は、紫禁城に幽閉されたまま少年期を過ごします。
イギリスからジョンストンという英語教師を迎えて、英語と世界情勢について学ぶようになりましたが、紫禁城での不自由な生活は続いていました。
溥儀(真ん中)、溥傑(溥儀の弟、左)、潤麒(溥儀の義弟、右)
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溥儀が紫禁城を脱出
一方、中華民国による政治体制は、不安定な状態が続いていました。1922年頃になると、中国国内は再び軍閥が勢力を伸ばし始めます。
軍閥の中でも、「張作霖」(ちょうさくりん)を中心とする奉天派(ほうてんは)、「曹錕」(そうこん)を中心とする直隷派(ちょくれいは)が鋭く対立するようになりました。
武力闘争の結果、1924年、直隷派の軍閥・馮玉祥(ふうぎょくしょう)が権力を握り、紫禁城を占拠し、溥儀(18歳)に対して退去を命じました。
溥儀は紫禁城を退去し、一時日本公使館に逃れた後、1925年2月から天津にある外国租界に移りました。
川島芳子の政略結婚と離婚
皇帝・溥儀が紫禁城を退去させられたとの知らせを聞いた芳子は、いてもたってもいられない心境にありました。
しかし、自分一人では何もできません。そのような時期に、蒙古族の将軍である「巴布扎布」(パプチャップ)の次男との縁談話が持ち上がりました。
養父の川島浪速も賛成したので、断るわけにはいきませんでした。女性であることを拒絶した芳子は、結婚には乗り気ではなかったのでした。
しかし、蒙古族の有力な人物と清朝の愛新覚羅との結婚は、将来、満蒙の結合へと繋がる可能性があったので、お互いの結束を固める意味では有意義でした。
1927年、芳子(21歳)は陸軍参謀長・斎藤恒(さいとう・ひさし)の仲人で、旅順のヤマトホテルでパプチャップ将軍の次男であるカンジュルジャップと結婚しました。
自伝によれば、芳子もカンジュルジャップも互いにこれが政略結婚だということを事前に認識し、長い結婚生活は望まなかったと書かれています。
そのため、結婚生活は長く続かず、3年後に離婚となりました。2人の相性もあまり良くなかったかもしれません。
田中隆吉との出会い、そして川島芳子は女性スパイの道へ
離婚後、1930年に芳子は23歳となり、上海に渡りました。そして、芳子は社交界の華として脚光を浴びるようになりました。
そのような川島芳子のカリスマ性に注目したのが日本軍の諜報機関でした。
芳子を諜報活動に引き込むため、上海駐在武官の「田中隆吉」(たなか・りゅうきち)少佐は、芳子と接触を試み、恋愛関係となることに成功しました。
そのような計略だとは、芳子は思いもしませんでした。田中少佐とは純粋に恋に落ち、愛し合う関係だと思っていたのです。しかし、田中少佐は、その後、芳子に諜報活動をするように勧めました。
田中少佐の目的を知った芳子は落胆しましたが、故国を思い、そして何より皇帝・溥儀のためにという強い気持ちが、躊躇いを消し去りました。
そして、芳子は「諜報活動」という特殊な任務に大いに興味と意欲を持ったのでした。
川島芳子が、「東洋のマタ・ハリ」と言われたのも、こうした経緯があったからでしょう。
諜報活動で有名な「マタ・ハリ」(1876~1917)は、第1次大戦中、フランスのパリを中心として活躍した女性のスパイです。
マタ・ハリ(1876年8月7日 – 1917年10月15日)
参考画像の引用元
最初はドイツ側のスパイでしたが、フランスはそれを見破り、逆にドイツの情報を得ようと彼女を利用しました。最後は二重スパイの嫌疑で1917年7月24日銃殺刑となりました。
川島芳子主の諜報活動と上海事変
芳子は、諜報活動で鮮やかな手腕を発揮しました。当時国民党行政院長だった「孫科」(そんか 孫文の長男)とダンスホールで接触し、国民党の内部情報を入手することに成功したのです。孫科はこの件で失脚したと言われています。
1932年1月18日、次の諜報活動は、上海での「日蓮宗僧侶への襲撃事件」に関するものです。
芳子は、田中隆吉少佐の指示に従い、抗日の労働者を雇いました。そして、僧侶たちを襲わせたのです。その結果、僧侶3人が重症を負い、その中の1人が死亡しました。中国人の抗日活動による犯罪行為に見せかけるための工作でした。
1932年1月19~20日、さらに田中は芳子を通じて、日本人による義勇団30名に金を渡し、抗日の拠点である工場を襲撃させたのです。田中が仕組んだ、民間人同士の争いに見せかけた事件でした。工場は放火され、従業員に多くの死傷者が出ました。
上海の日本軍は、1932年1月28日、上記の日本人僧侶殺害事件を口実に、抗日の広東政府軍の拠点を攻め、第1次上海事変を起こしました。
第1次上海事変(上海北停車場方面第一線における日本軍装甲自動車隊の応戦)
参考画像の引用元
その戦いの前に、なんと芳子は広東政府軍が守る呉淞(ウースン)砲台に侵入し、大砲の数を調査して日本軍に報告していたのです。この情報は、日本軍の進軍に非常に役に立ったと評価されました。
次に芳子は、広東政府軍の第19路団長の蔡挺鍇(さいていかい)に会い、日本軍への抗日戦の作戦について、どのような準備を進めているか詳細を調査して、これも日本軍に報告しました。
「女性版007」のような正確さで、素早い調査を行う芳子の諜報活動は、日本軍にとって千金に値するものでした。
こうした芳子の行動を見るに、彼女にはもともと諜報活動の分野で天性の才能があったと思わざるを得ません。普通の女性であれば、すぐにバレてしまったのではないでしょうか。
川島芳子と虚飾の「男装の麗人」
1932年(昭和7年)、川島芳子(26歳)の男装はマスコミでも取り上げられ、作家、村松梢風が2か月間、川島宅に同居し、彼女をモデルとした小説を雑誌「婦人公論」に連載しました。
翌年には彼の著作で「男装の麗人」が中央公論社から発刊され(1933年、昭和8年)、一躍有名になりました。
しかし後年、この小説に書かれた彼女のスパイ活動が、かなり誇張して書かれたものであるにもかかわらず、戦後、漢奸(かんかん=中国に対する背任行為の嫌疑)裁判にかけられた時に、証拠として提出されてしまいました。
関東軍に疑問を抱く川島芳子
日本の中国進出に大きな役割を果たしたのが、関東軍(かんとうぐん)の活躍でした。関東といっても日本の関東地方ではなく、中国の有名な建築物である万里の長城の東側という意味です。
日本は日露戦争(1904~1905)に勝利し、ロシアから朝鮮半島と満州での権益や南樺太の割譲、中国の大連や旅順を含む遼東半島の租借権を獲得しました。
関東軍には独自の権限が与えられ、陸軍参謀本部と連携して満州支配を進めていきました。
当初は、芳子は日本軍に協力していましたが、だんだんと関東軍の露骨さが見えてくると、芳子は疑問に思うようになりました。
「自分は本当に正しいことをしているのだろうか?」
関東軍の強引な戦法と、多くの中国人が殺されていくのを見て、芳子は不安になってきました。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「東洋のマタ・ハリ、川島芳子の故国の再興に夢をかけた生涯」は如何でしたでしょうか?
中国大陸は、実際に行って見てみるとよく分かるのですが、朝には東の地平線から太陽が出て、夕方には西の地平線に太陽が沈むという場所です。
目の前には原野が広がり、何もありません。そのような大地に立つと人間が大きくなります。東京のような近代化されたゴミゴミとした都市空間では、気持ちまで狭くなり、そのような気分にはなれるわけがありません。
そうした雄大な国の再興に夢をかけた川島芳子は、最後には夢が破れてしまいました。死刑の判決も下り、悔しかったことでしょう。未だに生存説が消えないのは、彼女の気持ちに同情する女性の方たちの支援が多くあるからでしょう。
人生には苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そうした状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
仕事で不本意なことがあり何が原因か、自分の改善点は何かを見ていただきました。辛い状況ですが、結果は驚くような周囲の負の感情でした。
今は孤立していますが、その職場に馴染まないことがむしろよかったんだと思えて涙が出そうになりました。次の職場は自分の姿勢が評価される場所であると聞いて力が湧く思いになりました。
終始優しい口調で私の気持ちを汲んで下さいながら前向きになるように伝えて下さり、とても心が癒やされました。本当にありがとうございました。