東洋のマタ・ハリ、川島芳子の故国再興に夢をかけた生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年6月12日
辛亥革命以降、中華民国の支配が決まりましたが、政治的にも軍事的にも不完全であり、中国国内には多くの軍閥がはびこるようになりました。
各軍閥は、もともとは大きな土地を持つ地主階級でした。それがヨーロッパ列強の国々から、軍備の援助を受け、軍事力で土地を奪うという行動に出たのです。
代表的な軍閥は、北洋軍閥(20余り)、地方軍閥(40余り)が入り乱れて内戦を起こしました。
それぞれの軍閥には、日本、ソビエト、アメリカ、イギリスなどの国々が支援していました。
満州事変の勃発から川島芳子の最期まで
関東軍は、満州の支配を進めるために、強力な軍閥と手を組まざるを得ませんでした。
当時、奉天軍閥の張作霖が満州の実効支配を確立していました。
当初、関東軍は張作霖を支援していましたが、関東軍が満州を直接支配するためには、張作霖が邪魔な存在となっていたのです。
張 作霖(ちょう さくりん 1875~1928)
参考画像の引用元
そこで、関東軍の参謀・河本大作は、張作霖の暗殺を計画したのです。
1928年6月4日、張作霖の暗殺が実行されました。満州鉄道の橋脚に爆弾をしかけ、通過する列車を爆破したのです。列車は大破し、交差していた鉄橋も崩落してしまいました。
張作霖はこの爆破事件で重傷を負い、自動車で私邸に担ぎ込まれましたが、まもなく死亡しました。
「邪魔者を消すためなら手段を選ばない」というのが関東軍のやり方でした。
柳条湖事件から満州事変へ
関東軍の次の作戦は、中華民国軍を排除し、満州全体を実効支配することでした。
1931年9月、奉天郊外の柳条湖で満州鉄道を爆破しました(柳条湖事件)。これが「満州事変」の始まりです。
関東軍は、この爆破事件を中華民国軍による犯行と発表し、軍事行動を起こしました。そしてまたたくまに満州全体を占領してしまいました。
しかし、この爆破も、実際には、関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐と作戦主任参謀・石原莞爾中佐が主謀者でした。関東軍による自作自演の爆破事件でした。
さらに関東軍は北の興安省と西の熱河省へ進軍し、満州に隣接する河北省・山東省・山西省・綏遠省・チャハル省を日本の占領下に置きました。
この作戦の主体となったのは、関東軍の参謀である「石原莞爾」(いしはら・かんじ)でした。
彼の考えは、「日本はアメリカと航空機戦をすることになるので、国力を養う必要がある。ソ連が満州を奪う前に日本の植民地とし、持久戦となってもアメリカと戦える国力を保持すべきだ」というものでした。
満州国の建国
こうして1932年3月1日、関東軍主導のもとに満州国は、中華民国から独立を宣言し、建国が宣言されました。
満州国の国家元首にあたる執政には、愛新覚羅・溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が擁立されました。ところが中身は関東軍が実権を握り、公職の多くは日本人が占めるという体制であったのです。
芳子は関東軍の強引な戦法や暗躍を知っていました。関東軍が急激に露骨さと激しさを増していくのを見て、恐怖を感じるようになりました。
熱河自警団の総司令となった川島芳子
1933年、日本の関東軍が熱河省(満州国)に進出のため、熱河自警団(軍隊の組織)をつくり、川島芳子は、熱河自警団の総司令となりました。
東洋のマタ・ハリ、満州のジャンヌ・ダルクと呼ばれ、彼女が思い描いてきた夢が実現したのです。当時は、ラジオ番組にも出演し、彼女の歌うレコードも販売されています。
しかし、「熱河自警団の総司令」という肩書きは、関東軍が宣伝に利用するためのお飾りにすぎなかったのです。
実際に戦闘を行える軍としての役割はありませんでした。
川島芳子と関東軍の確執
自分が広告塔として利用されている事を知った川島芳子は、疑心暗鬼に陥りました。
満州国の政治は、関東軍中心の政治であり、皇帝・溥儀には何の権限もなかったのです。
そのため、次第に川島芳子は関東軍に対して批判的になっていきました。
ラジオやマスコミを通じて、彼女は自分の思いを訴えました。その結果、芳子は軍部や警察から監視される境遇になってしまいました。
満州国を設立し、軍事的に成功した関東軍は、「川島芳子はもう利用価値がない」と判断し、芳子は総司令の地位も奪われてしまいます。
軍部と袂を分かった後の川島芳子
総司令の地位を失った川島芳子は、天津の料亭「東興楼」の経営者として女将となりました。皇帝・溥儀のためにつくす仕事はもうありませんでした。
その東興楼時代に、女優の李香蘭(山口淑子 やまぐち・よしこ 1920~2014)と親しくなりました。しかし、ある時、李香蘭はマネージャーから会うのを禁じられ、その後は会う機会がなくなりました。
李香蘭(山口淑子 やまぐち・よしこ 1920~2014)
参考画像の引用元
川島芳子から、李香蘭に宛てた最後の手紙には、「ヨコちゃん、すっかり君も大スターになったな・・・僕のようになってはいけない・・・利用されるだけされて、捨てられるゴミのような人間がここにいる」という内容が記されていたと言われています。
川島芳子の最期
1941年12月8日、日本がアメリカに真珠湾攻撃を行い太平洋戦争に突入した以降も、芳子は、満州を出ず、祖国満州国の行く末を見届けようとしていました。
しかし、1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾し、敗戦した後は、蒋介石を中心とする中華民国の軍隊による追及が厳しくなり、芳子にも捜査の手が迫っていたのです。
芳子は北京に潜伏していましたが、国民党軍に逮捕されてしまいました。
中国に対する裏切り行為の嫌疑をかけられ、1947年10月、死刑判決が下りました。そして、川島芳子は1948年3月25日に処刑されたとされています。
川島芳子の辞世の詩とされるものが残っています。
「家あれども帰りえず、涙あれども語りえず、法あれども正しきを得ず、冤あれども誰にか訴えん」
川島芳子の辞世の詩
(家があっても帰ることができない、涙を流しても話すこともできない、法があっても正義はなく、無実の罪で裁かれるのを誰に訴えたらよいのだろう)
国民党軍が川島芳子の死刑を急いだ理由としては、芳子のスパイ活動によって漏洩した国民党内部の機密情報が、裁判で明るみに出ることを恐れたとも言われています。
また、国民党政権は中国共産党と内戦状態にあり、川島芳子が握っている情報は中国の支配権を左右するほど重要なものでした。川島芳子を生かしておけば、国民党政権にとって致命的な打撃となる可能性が高かったのです。
芳子は生きていた?
最終的に銃殺刑となった芳子でしたが、実は生きていたというミステリーが存在します。
その理由として、次のような事実が挙げられます。
芳子が生きていたとされる理由
- 通常、漢奸の処刑は公開されるが、芳子の場合は非公開。しかも死体の顔がひどく損傷していて本人かどうか分からない。銃殺刑なのに顔面が損傷しているのが、意図的なものと思われる。
- 処刑の数日前に面談したAP通信の記者の証言によると、芳子の髪は短髪であったが、死体の髪の毛が肩まで長く、芳子の短髪と一致しない。
- 死体の肩幅が広く、骨盤も大きかったことに対し、芳子の肩はなで肩で細い体形であり、骨盤は小さい方。芳子の体形と死体のそれとは全く異なる別人のようだった。
- 金塊10本で、身代わりになった女性がいたという噂がある。(実際には、身代わりの女性を連れて行った家族は、金塊は4本しかもらえなかったという話も)
芳子の死については諸説ありますが、中国の長春市の地方志編纂委員会やGHQの調査によれば、芳子の処刑以降の生存を裏付ける証拠は見つからなかったというのも事実です。
また、中華民国の国史館が所蔵する文書に芳子の処刑に関する調査資料がありますが、その中にも生存説の可能性はありませんでした。
しかし、スパイ術に長けた芳子であれば、世間を欺いて替え玉を手配するぐらいお手の物であったかもしれません。
もし現代に、シャーロック・ホームズが生きていれば、この謎を解いてくれるのではないでしょうか。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「東洋のマタ・ハリ、川島芳子の故国の再興に夢をかけた生涯」は如何でしたでしょうか?
中国大陸は、実際に行って見てみるとよく分かるのですが、朝には東の地平線から太陽が出て、夕方には西の地平線に太陽が沈むという場所です。
目の前には原野が広がり、何もありません。そのような大地に立つと人間が大きくなります。東京のような近代化されたゴミゴミとした都市空間では、気持ちまで狭くなり、そのような気分にはなれるわけがありません。
そうした雄大な国の再興に夢をかけた川島芳子は、最後には夢が破れてしまいました。死刑の判決も下り、悔しかったことでしょう。未だに生存説が消えないのは、彼女の気持ちに同情する女性の方たちの支援が多くあるからでしょう。
人生には苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そうした状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
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