源氏物語の「薄雲」から「玉鬘十帖」の笑訳
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2024年11月5日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、紫式部の「源氏物語」の中から、前回から引き続き、「薄雲」(うすぐも)から、「朝顔」(あさがお)、「乙女」(おとめ)までと、そして、「玉鬘」(たまかずら)から「真木柱」(まきばしら)までの「玉鬘十帖」といわれる十帖について、まとめてお話をしたいと思っております。
源氏も30代半ばを過ぎて、大人の男性の魅力に磨きが加わり、ますます恋の道にも拍車がかかってきます。
新登場の美しい「玉鬘」(たまかずら)に源氏は、養父でありながら恋心を抱いてしまいます。
できるだけ多くの帖の笑訳をして、皆様に親しんで頂こうと思っております。長い物語なので、あまり重要でなさそうな帖は、簡単にまとめていこうと思います。
「薄雲」(うすぐも)のあらすじ
「薄雲」の帖では、源氏は、自分だけの考えで、どうしても明石の姫君を養女にしたいと思い、紫の上に対して、強引に養女にしたいと打ち明けました。
源氏は、紫の上の同意を得ると、明石の君の説得にかかりました。驚いたのは明石の君です。彼女は、ふだんから自分の身を不安に思っていたくらいなので、可愛い娘と別れることなど悲しくてできそうもありませんでした。
しかし、明石の君は、姫君の将来を考えて、紫の上の養女にすることを承知しました。
参考画像:from the series “Genji-kō no zu”
明石の姫君は、二条院に迎えられ、まもなく紫の上にもなつきました。源氏は、ほっとして安心し、時折、明石の君のもとへも通いました。
翌年になると、左大臣がなくなり、さらに藤壺が崩御しました。源氏は、悲しみの中にひとり落ち込みました。
「薄雲」の由来と冷泉帝の苦悩
19帖の名前の「薄雲」の由来は、源氏が藤壺の死を悲しんで、「入り日さす、峰にたなびく、薄雲は、もの思ふ、袖の色やまがへる」という歌を詠んだからです。
歌の意味は、「夕日の峰にかかる薄雲の色は、喪服の色に似ているようだ」という源氏の寂しさを表しています。
四十九日の法要が済み、冷泉帝は、僧都から驚くような話を聞かされました。冷泉帝は、本当は源氏の子であったというのです。
驚いた帝は、実の父親が臣下でいることを気の毒に思うのでした。そして、帝は源氏に譲位しようと言い出しましたが、源氏はそれを断りました。
冷泉帝は、心の中では源氏を父親として尊敬しましたが、その一方で自分の出生の秘密に対する葛藤を抱えるようになりました。
冷泉帝のその後の生涯は、「匂宮(におうのみや)」の帖で書かれていますが、30代か40代前半で亡くなってしまいます。帝として生まれましたが、心の奥底に複雑な思いを秘めて苦しんだ一生となりました。
「朝顔」(あさがお)のあらすじ
この帖では、「朝顔の姫君」と呼ばれる女性が登場します。藤壺の死を忘れるために、源氏は熱心に「朝顔の姫君」に恋文を送りました。
彼女は、源氏のいとこで桐壺帝の弟である桃園(ももぞの)式部卿宮の娘で、斎院として(加茂神社に奉仕する皇女)として、務めていましたが、父親の死後に実家に戻ることができました。
源氏は、若い頃から「朝顔の姫君」に好意を抱いていましたので、彼女が実家に帰ってからは、源氏は再び彼女に言い寄りました。しかし、彼女は源氏の求愛を拒み続け、二人の関係は、結果としてプラトニックなものに留まりました。
参考画像:from the series “Genji-kō no zu”
それでも「朝顔の姫君」と源氏の関係は、噂となり紫の上を苦しめました。源氏は、「本気ではない」と言って、言い訳をしました。
冬のある晩、源氏は、紫の上に過去に出会いのあった女性たちの話をしました。その夜、源氏の夢に藤壺が現れました。
彼女は、秘密が口外されたことを悔やんでいました。源氏との秘密が漏れてしまったので、苦しんでいると訴えました。冷泉帝に真実が知られてしまったことへの驚きと後悔は、死んでも藤壺を苦しめていました。
彼女は霊界で、大変な苦しみを味わっていると源氏に言いました。源氏は、藤壺のことを哀れに思い、改めて藤壺の供養をすることにしました。
藤壺が苦しむ地獄の世界
源氏は、藤壺が地獄の世界で苦しんでいるのを感じ、何とか助けたいと思いました。しかし、あの世の世界で苦しむ藤壺を救うには、仏の力を借りるしかなかったと思います。
現在でも人間は亡くなると、あの世に旅立つと信じられています。この旅を「冥途(めいど)の旅」といいます。
落語の話の中にも、死の直前に「死に神」が現れて、亡くなる人の枕元に立ち、あの世への迎えに来るという話がありますが、あまり頻繁に来られても嬉しくない現象です。それでも運命ならば、彼に従って冥途の旅に出なければなりません。
目の前に現れる最初の難関は、険しい山々です。この山は、「死出の山」と名づけられています。
7日間、長い距離を歩かなければならないので、脚に自信のない人は苦しむことになります。
よく死ぬと楽になるという話を聞きますが、確かに生きているのも楽ではありませんが、死んでも楽にはならず、生きている以上の苦しみが待っているので、生きているうちに善い行いをして極楽への道に行けるように努めることは大切です。
藤壺が落とされた「衆合地獄」とは何か
「臨死体験」をした人の話によると、親しい祖母や母親が、花園から手招きしているそうですが、それは、善人の場合だけのようです。一般の罪びとは、山を超えなくてはなりません。
仏教の世界では、閻魔大王の裁きが下り、藤壺はどうやら地獄の世界の「衆合地獄」(しゅうごうじごく)に落とされたようです。
「衆合地獄」とは、主に邪淫の罪で落とされた者が、ここで苦しむ場所とされています。
そこには、太いサボテンのようなものがあり、葉の一枚一枚が、鋭利なカミソリのような刃をもっているのです。木の頂上では、笑顔で罪人を招くものがいて、早く登ってくるように言います。
その木を登ると、手も足も体中が切り刻まれます。その痛さは耐えがたいものですが、登りきらないと、「早く登れ」と赤い鬼や青い鬼が攻めたてます。
登りきると、そこには誰の姿もなく、下を見ると「降りてこい」とばかりに、また笑顔で手招きするものがいるのです。仕方なく、また木を降りなければなりません。
体中切り刻まれながら、苦労して降りると、待っていた鬼にいじめられ、「上に登れ」と追い立てられます。登ったり下りたりの繰り返しです。いつになったら、この苦しみから逃れられるのでしょう。
8種類の地獄の世界
仏教の世界観では、宇宙の中心に須弥山(しゅみせん)という高い山があり、その下に、また山や海や大陸があり、その中に人間世界もあります。
この世を六道輪廻(ろくどうりんね・りくどうりんね)の世界と言いますが、その中に地獄の世界があります。
六道とは、天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)の6つの世界です。
地獄が存在するのは、地獄道の中です。地獄には8つの階層があります。それを「八大地獄」(はちだいじごく)と呼んでいます。
「八大地獄」の簡単な解説
ここで簡単に「八大地獄」(はちだいじごく)について、ご説明致します。人間は亡くなると、最初の7日間で険しい山道を歩き、ようやく「三途の川」(さんずのかわ)を渡ります。三途の川には、橋もありますが、橋を渡れる者は善人だけです。
参考画像:The Sanzu River from the Jūō-zu
一般の人は、罪人とされるものが多く、川を船で渡らなければなりません。そこには「渡し舟」が待っていて、船賃は、昔は六文(ろくもん)とされていました。昔は、亡くなった人の着物の襟に6枚の一文銭を縫い付けたそうです。
川の流れは、恐ろしく荒く、そして速く、小さな船でもみくちゃにされながら渡らなければなりません。「船酔い」のある人は、渡りきるまで苦しい思いをします。
三途の川を渡った後は、裁判が待っています。この裁判は7回あります。
有名な閻魔大王の裁判は、5番目です。6番目と7番目の裁判は、閻魔大王の裁きに従って、最終審査を行うので、ここで裁決が変わることはありません。
そして、地獄行きが決まると、仏教の世界では、世界の中心にある須弥山世界に連れていかれます。そこには、9つの山と8つの海と4つの大陸があります。地獄は、4つの大陸のひとつの地下にあります。
地下は8つの層に分かれています。最上階から、等活地獄(とうかつじごく)、黒縄地獄(こくじょうじごく)、衆合地獄(しゅうごうじごく)、叫喚地獄(きょうかんじごく)、大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)、焦熱地獄(しょうねつじごく)、大焦熱地獄(だいしょうねつじごく)、阿鼻地獄(あびじごく)の8つの地獄です。
それぞれ簡単にどんな地獄かご説明致します。
①等活地獄 | 殺人の罪で落とされた者が、殺し合う地獄となっています。 |
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②黒縄地獄 | 盗みの罪で落とされた者が、切り刻まれる地獄です。 |
③衆合地獄 | 邪淫の罪で落とされた者が、苦しみを受ける地獄です。 |
④叫喚地獄 | 飲酒の罪で落とされた者が、苦しみを受ける地獄です。 |
⑤大叫喚地獄 | 嘘をついた者が落とされる地獄です。 |
⑥焦熱地獄 | 上の全ての罪を犯した者が落とされる地獄です。 |
⑦大焦熱地獄 | 全ての罪に加え、尼を犯した罪で落とされる地獄です。 |
⑧阿鼻地獄 | 仏教の五戒を破った僧侶が落ちる地獄です。 |
人間は、その罪によって、輪廻を繰り返します。人間界と地獄を何度も繰り返す人もいます。
仏教では、悟りを開くことで、輪廻から解脱できるとしています。私たちが行ういろいろな法要は、亡くなった霊を慰め、地獄の苦しみから救うと言われています。
「乙女」(おとめ)までのあらすじ
「乙女」の帖では、源氏の嫡男の「夕霧」(ゆうぎり)が登場します。「夕霧」の年齢は、12歳ぐらいです。
「夕霧」は、源氏と葵の上との間にできた男子です。葵の上は、「夕霧」を産むとすぐに亡くなってしまいました。
「夕霧」は、祖母の大宮(葵の上の母親)に育てられました。源氏は、「夕霧」を厳格な教育方針のもとで育てることにしました。
12歳で元服し、大学に入学することになりました。二条の東の院にいる花散里のもとに預けられ、勉学に励みました。
源氏の養女となっていた斎宮の女御は、中宮となりました。斎宮の女御というのは、六条御息所の娘です。
参考画像:from the series “Genji-kō no zu”
「澪標」(みおつくし)の帖でのいきさつは、帝が冷泉帝に譲位されたことから、伊勢にいた六条御息所と娘の斎宮が京にもどりましたが、まもなく六条御息所が病気でなくなったため、斎宮は源氏の養女になりました。
帝が冷泉帝となり、朱雀帝の後ろ盾であった右大臣は、病気で亡くなりました。源氏は、太政大臣になり、昔の頭の中将は、内大臣に昇進しました。
内大臣は、娘の「雲居の雁」(くもいのかり)を東宮の妃にしたいと思っていました。「雲居の雁」は、「夕霧」と同じく、祖母の大宮のもとで養育されました。
そのため「雲居の雁」と「夕霧」は、秘かに恋心をいだくようになりました。しかし、それに気づいた内大臣は、激怒して「雲居の雁」を自邸に引き取りました。
「夕霧」は、恋を引き裂かれ、悲しい思いに包まれました。彼は、寂しい思いを紛らわせるために、別の女性の「五節の舞姫」(ごせちのまいひめ)に文などを送り、「雲居の雁」を忘れようとしました。
でもご安心ください。最終的には、「夕霧」と「雲居の雁」は、結婚が許されて結ばれることになります。そのことが描かれるのは、第33帖の「藤裏葉」(ふじのうらば)です。
一方、源氏は豪華な六条院を完成させました。この邸宅のモデルとなったのが、源融(みなもとのとおる)が造らせた河原院(かわらのいん)をはじめ、東三条殿や土御門殿など実在した邸宅が挙げられます。
源融は、嵯峨天皇の第十二皇子です。光源氏のモデルのひとりと言われています。
源氏物語の六条院は、4つに区画され、それぞれ四季が割り当てられています。「春の町」には源氏と紫の上が入り、「夏の町」には花散里が入り、「秋の町」には、秋好中宮が入り、「冬の町」には明石の君が入りました。
「玉鬘」(たまかずら)十帖とは
それでは、源氏物語の「玉鬘十帖」(たまかずらじゅうじょう)のお話に入りたいと思います。「玉鬘十帖」という言葉をお聞きになった方もいらっしゃると思います。
源氏物語の第22帖の「玉鬘」から第31帖の「真木柱」(まきばしら)までの十帖のことを言います。
頭中将と夕顔の間に生まれた「玉鬘」が中心となった物語が描かれています。そのためこの十帖をひとまとめにして「玉鬘十帖」と呼んでいます。
参考画像:from the series “Genji-kō no zu”
「玉鬘」とは、毛髪の美しさを表す言葉です。毛髪は自然に伸びることから、平安文学の世界では、自分にもどうにもならない事や運命を象徴する言葉となっています。
源氏の歌に、「恋ひわたる身はそれなれど、玉鬘いかなる筋を訪ね来つらむ」
(亡き夕顔を恋いしたう自分であるけれども、玉鬘はその縁があったからだろうか、私のところへたどり着いたのも、不思議な縁が結びつけたものなのだろうか)
夕顔が、六条御息所の生霊のため急死してから20年以上の歳月がたっていました。夕顔の娘の「玉鬘」(たまかずら)は、九州の筑紫の国で育ちました。
「玉鬘」は、美しい女性に育ちました。あまりにも美しいので、肥後の有力者が、彼女を欲しがりました。「玉鬘」と育て親の乳母は、相談して九州を抜け出し、京にもどることにしました。
ようやく京に着きましたが、あてもないまま長谷観音にお参りした時に、偶然、右近と再会しました。右近はもともと「夕顔」に仕えていた侍女です。「夕顔」の死後は、紫の上に仕えました。「夕顔」の娘の乳母とは顔見知りでした。右近は源氏に報告しました。
知らせを聞いた源氏は喜んで、「玉鬘」一行を引き取ることにしました。このことは、「玉鬘」の実の親の頭中将には内緒にして、「玉鬘」を養女にすることにしました。
源氏は、「玉鬘」を引き取るにあたって、紫の上に夕顔との過去を告白しました。紫の上は、驚きと怒りで源氏を責めました。しかし、源氏も言い訳が上手です。あなたが一番特別な存在だから、こうして昔の女性の話もするんだよと言って、紫の上のご機嫌をとります。
しかし、源氏の心は、ただの憐憫の情だけではありませんでした。あまりにも「玉鬘」が美しすぎた女性だったからです。
私たちは、一番美しいのは、紫の上ではないのかと思っていたのですが、源氏が紫の上を忘れてしまうほど「玉鬘」は美しかったのです。
参考画像:伝土佐光起筆『源氏物語画帖』若紫 スズメが飛んでゆくほうを眺める紫の上、尼君、侍女らがいる僧都の家を外から垣間見る光源氏
いままでの源氏物語の流れから考えると、一体源氏はどうしたのだろう、と思ってしまいます。
「玉鬘」を養女として愛するというのではなく、あまりにも美しい女性なので、自慢もしたいし、自分のものにもしたくなったという源氏の自分勝手な気持ちが描かれています。
「玉鬘」も最初は、優しい養父であることを嬉しく思いましたが、どうも源氏の様子がおかしいと気付き始めます。息子の「夕霧」は、「玉鬘」と源氏がむつみ合う姿を見て、ただならない雰囲気を感じ取ってしまいました。
源氏は表向き中宮にすることを言明していましたが、密かに関係を持とうと考えてもいたのです。すでに「藤壺」で、そのような禁断の恋を経験し、罪の意識をかかえながら生きることが辛かったはずなのですが、また同じ過ちを繰り返そうとしていました。
「玉鬘」は、聡明な女性でもありました。源氏の下心を見抜き、中宮にはならず「髭黒大将」(ひげくろのたいしょう)と結婚してしまいました。
源氏にしてみれば、「とんびに油揚げをさらわれた」感じになりましたが、全てが源氏の思いのままにならないところが、源氏物語の面白いところです。
玉鬘十帖の成立した理由
源氏物語の中で「玉鬘十帖」は、物語のつながりが良く、物語の一貫性が保たれていると言う特徴があります。
その他の源氏物語の話の流れは、あまり意識されなかったか、つながりが悪い部分があると言われています。そのため物語に一貫性を持たせるために、後から挿入されたものではないかと考える研究者もいます。
この玉鬘十帖では、源氏の年代(35~37歳)によって、詳しく描かれています。
玉鬘 | 源氏の35歳(3月~12月) |
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初音 | 源氏の36歳(正月) |
胡蝶 | 源氏の36歳(3月~4月) |
蛍 | 源氏の36歳(5月) |
常夏 | 源氏の36歳(6月) |
野分 | 源氏の36歳(8月) |
行幸 | 源氏の36歳12月から37歳2月 |
藤袴 | 源氏の37歳の秋 |
真木柱 | 源氏の37歳冬から38歳11月 |
玉鬘を悩ます源氏の下心
この玉鬘十帖での大きな出来事として、玉鬘が源氏と「夕霧」からの恋のアプローチを受けたことです。
「夕霧」は、すでに「雲居の雁」と恋愛中であったのですが、「玉鬘」の物語を盛り上げるために、「夕霧」も恋の戦いに参加しています。親子で女性を争うというのも、読者にとってはどうなるのだろうという興味を引いたに違いありません。
「胡蝶」の帖では、「玉鬘」は春の御殿の華やかな式典で、大勢の客の前に披露されました。いよいよ社交界へのデビューです。
源氏の予想通り、たくさんの貴公子からラブレターをもらいました。「玉鬘」は、実の親と会いたがっていましたが、源氏が許してくれません。「玉鬘」の実の父親は、「頭中将」(とうのちゅうじょう)です。
実の父親に会わせたくない理由は、源氏に下心があったからです。しかし、いつもでも隠し通せるものではありません。
実の父親に会いたがっている「玉鬘」に、源氏も抗しきれず、彼女の成人式には、会わせようと決心しました。
しかし、源氏は、下心がなくなったわけではありませんでした。いよいよ「玉鬘」の成人式を行うことにしました。その際には、実の親である内大臣に腰結いの役を依頼することにしました。
源氏は「玉鬘」の真相を内大臣に打ち明けました。内大臣は、驚きと疑念の面持ちで、にわかに信じがたいと思いましたが、源氏の決定に従いました。
玉鬘は中宮にならずに幸せの道を選びました
王朝貴族の成人式は、男子は「元服」(げんぷく)であり、女性は「裳着」(もぎ)と言いました。血縁を重んじる貴族社会では、結婚適齢期であることを公表することは、大きな意味がありました。
女性は、「裳」(も)呼ばれる長い布状の衣装を腰に着けます。そして髪を結いあげるので「髪あげ」とも言います。
「玉鬘」は、源氏の計画通りに尚侍(ないしのかみ)として、冷泉帝に仕えることになりました。
「玉鬘」は、「秋好中宮」(あきこのむちゅうぐう)や弘徽殿の女御などと競争相手となることを望んでいませんでした。
一方、「玉鬘」の宮仕えを前にたくさんの求婚者が、「玉鬘」の侍女たちに取り持ちを頼んできていました。その中にとりわけ熱心な人が、「髭黒大将」(ひげくろのたいしょう)でした。
藤原道長の出世の糸口となった逆玉の結婚
源氏にとっては、迷惑な存在となった髭黒大将ですが、髭黒大将と道長の性格や行動が似ている点があります。
紫式部が、髭黒大将のイメージを道長の性格や行動から想起したのではないかと思えるのも、道長の魅力を物語に活かしたいという思いが強かったのではないでしょうか。
実際に藤原道長の結婚相手は、身分の高い女性でした。
藤原道長と源倫子(みなもとのりんし)の結婚が行われたのは、987年(永延元年)でした。道長は22歳です。
倫子(りんし)の父親は、源雅信は当時左大臣でした。雅信は宇多天皇の孫にあたる人で、初代宇田源氏となった人です。
道長は当時、従三位、左大将ではありましたが、まだ高い位とは言えませんでした。
しかし、倫子の母親は、「この君、ただならず見ゆる君なり」と評価は高く、道長と倫子の結婚を積極的に進めました。
道長は、姉の詮子(せんし)からも好かれていました。詮子は円融天皇の妃である東三条院です。
道長の第二夫人の明子との結婚も詮子がとりはからいました。明子は、安和の変で左遷された源高明の娘です。
詮子は、道長と伊周(これちか)との関白職の争いにおいても、母の立場で一条天皇に強くせまり、道長の「内覧」への就任に深くかかわりました。
また源高明は、父親が醍醐源氏の初代であり、源氏のモデルとも言われている人です。
こうしてみると、学説の裏付けはありませんが、玉鬘が、倫子や明子になぞらえて作られたのではないかと思えるほどです。
道長は平安時代の有力な貴族であり、彼の権力や影響力は物語の中で髭黒大将に反映されていると考えられています。
参考画像:Fujiwara no Michinaga
源氏物語では、髭黒大将は、すでに結婚していましたが、新たに玉鬘を妻に迎えました。髭黒大将の最初の妻は、ショックを覚え、娘の真木柱をつれて実家に帰ってしまいました。
玉鬘との夫婦仲は良く幾人も子供をもうけました。源氏の五十の賀に際しては、玉鬘のもうけた男子が、源氏の実子である夕霧と舞を披露しました。
髭黒大将の一族は、その後、出世し繫栄しました。道長との共通点のある人物として、大きな存在です。
髭黒大将の存在は、源氏物語の中でも現代的な男性の魅力を表しているような気がします。性格は武骨物で堅物です。強引に「玉鬘」を自分の屋敷に連れ去ってしまいました。
髭黒大将には、正妻がいました。彼女はメンタルの病がありましたが、髭黒大将は、離婚もせず夫として彼女を見守ってきました。しかし、「玉鬘」の魅力には勝てず、ついに誘拐までして妻に迎えたのでした。
その後の髭黒大将の話は、24帖から44帖にかけて登場しますが、大いに出世して太政大臣になります。現代的な痛快小説のヒーローのような活躍をする人物です。
裏の世界を支えた安倍晴明(あべのせいめい)
魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした平安時代に陰陽師(おんみょうじ)の役割は大変重要な存在となりました。
源氏物語にも頻繁に出没する「生霊」(いきりょう)や「怨霊」(おんりょう)、「物の怪」(もののけ)は、平安時代の人々にとっては、単なる想像の産物ではなく、実体のあるものとして受け入れられていました。
「怨霊」(おんりょう)によって、都には疫病が蔓延し、多くの人々が亡くなり、また、藤原一族の人々も多くの人々が命を亡くしました。
そのたびに、高名な僧侶を呼び、「怨霊」を鎮めるために祈祷などを行いました。僧侶だけではなく、「陰陽師」(おんみょうじ)も大活躍をしました。
「陰陽師」の中でも有名な人が、安倍晴明(あべのせいめい)です。
参考画像:Abe Seimei
安倍晴明は、921年に生まれ、1005年に亡くなっています。84歳と言う長寿であったことは、この時代には奇跡的な生命力であったと言えます。
幼い時に陰陽師の加茂忠行(かものただゆき)や安憲(やすのり)の父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたと言われています。
安倍晴明は、40歳で天文得業生(天文博士)となり、村上天皇に占いを命じられました。59歳の時、当時の皇太子の師貞親王(後の花山天皇)の命で、那智山の天狗を鎮める儀式を行いました。
花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになりました。「小右記」によると、993年(正暦4年)に一条天皇が急な病となり、安倍晴明が呼ばれ、禊(みそぎ)を行ったところ、たちまち病が回復したため、正五位上に昇進しました。
また「御堂関白記」によると、1004年(寛弘元年)に起きた深刻な干ばつに際して、安倍晴明に雨乞いの「五龍祭」を行わせたところ、大雨が降り、一条天皇は安倍晴明の力によるものと認め、たくさんの褒美を出しました。
その後、位階が従四位下に登り、二人の息子たちも天文博士などに任ぜられました。
花山天皇の病気を治した安倍晴明
「古事談」によると、ある時、花山天皇はひどい頭痛を患いました。治療のために安倍晴明は、花山天皇に呼ばれました。
安倍晴明が花山天皇の前世を見ると、天皇の前世が優れた行者であったことが分かりました。
しかも、その原因は前世の行者の髑髏が岩の隙間にはさまっているからだと言いました。
花山天皇は、その話に驚き、安倍晴明に髑髏を見つけ出し頭痛を治すように命じました。安倍晴明はさっそく髑髏を探すために荒涼とした野原や山々を探索しました。その結果、昼でも暗い、恐ろしい山の中に、大きな岩石の間に挟まった髑髏が見つかりました。
安倍晴明は、髑髏を取り出し、これを清めて都に持ち帰り、祈祷を行いました。祈祷が始まると、不思議なことに花山天皇の頭痛はたちまち治りました。
道長の災難を防いだ安倍晴明
ある時、藤原道長が可愛がっていた犬が、道長が法成寺(ほうじょうじ)に行くことを止めようとしていました。道長は、不思議に思い安倍晴明に占わせました。
安倍晴明は、犬が「呪い」を感じて、法成寺に行かないように道長に知らせようとしていることが分かりました。
道長は驚き、安倍晴明に「呪い」の原因を探求させました。その結果、呪いをかけたのは陰陽師の道魔法師であることが分かりました。
道摩法師を捕えて白状させると、藤原顕光の陰謀であることがわかりました。道長は、顕光を捕えて白状させ、播磨の国に流罪としました。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
源氏物語の賢木・花散里・須磨・明石の笑訳
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
テレビの大河ドラマ「光る君へ」も、後半の盛り上がりを示していますが、「笑訳」の方も、ラストスパートに入っていきたいと思います。
本来は「源氏物語」をじっくり読み、繰り広げられる様々な人間模様をじっくりと味わいながら熟読したいところですが、忙しい現代人には、余裕がないかもしれません。
「源氏物語」は、読めば読むほど、中身が濃くなる気がします。人間の悲しみや苦しさを美しく表現していく紫式部の才能に驚かされます。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性40代
本当は鑑定をお願いする予定はなかったのですが、偶然にも私に縁のあるお名前の新人の先生とご紹介されているのを拝見し、ふとお願いしてみたくなった方です。
霊感タロットって、ここまですごいのか、と感銘を受けました。一つの質問に対して、一枚のカードをひいておられるとのこと、そこから、ものすごく詳細で具体的な答えを導いてくださいます。それが、その一枚の意味するところを明らかに超えているんです。
私が今仕事と趣味で取り組んでいることAとBとがあって、Aについての私の質問に対するご回答が、その時点ではお話してもいないBのことに関連していて、自然と「BをAに応用せよ」というメッセージだということがわかってしまうというといったことの連続で、後から後から質問が私から湧いてきました。
品があり、軽やかな口調で語ってくださる方で、私とのセッションの間、終始「フフフ、楽しいです」と笑っておられました。当初は私的に多少モヤモヤするような案件をご相談したのですが、そのようにいかにも楽しそうに、かつ今の私が達成しうるおそらく最高レベルの未来を予想してくださるので、思いつく限りの質問をお聞きした後は、すっかり何かを不安に思う気持ちが払拭されていました。
最近忙しく、疲れている自分にご褒美のつもりで鑑定をお願いしましたが、ご褒美以上のセッションだったと思っています。