運命に翻弄されたお市の方と娘たちの生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年10月10日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、「運命に翻弄されたお市の方と娘たちの生涯」のお話しです。
普段、私たちは、運が良いとか悪いとか言いますが、そのことを言っていられないほど、人生が変転すると、気持ちが動転し、どうしてよいかわからなくなるのが人間と言うものではないかと思います。
しかし、そのような運命の中で、立派に生き抜いたお市の方と娘たちの生き方は、武将に劣らない生き方ではなかったかと思います。
今回は、不運な生涯を見事に生き抜いた「お市の方や娘たちの話」をスピリチュアル的にお伝えしたいと思います。
お市の方と浅井長政の婚姻と3人の娘たち
ご存じの方も多いと思いますが、織田信長の妹のお市の方は、最初、浅井長政の継室として結婚しました。継室とは、早く言えば、「後妻」です。
参考画像:浅井長政夫人(お市の方)の肖像画
お市の方が住んだ城が小谷城(おだにじょう)であったので、小谷の方(おだにのかた)とも呼ばれました。
お市の方については、どの歴史書においても、美人であったと書かれており、史実的にも確かなようです。美人というだけでなく、優しい気持ちの溢れた人でもありました。
お市の方が生んだ娘は、茶々(豊臣秀吉の側室)、初(京極高次の正室)、江(徳川秀忠の継室)の3人です。
3人の娘たちの生き方を見ると、茶々は長女でしっかり者で気丈な性格、初は次女で温厚な人柄、3女のお江は、精神的に逞しいという性格であったように思えます。
織田信長と浅井長政の対立までの経緯
お市の方と3人の娘たちの運命は、戦国の世の厳しさを直接受け、流浪の人生でした。しかし、3人の娘たちは、それにもめげず、降りかかる火の粉の中を強く生き抜きました。
最初の不運は、お市の方を襲いました。嫁いだ先の浅井家が、滅ぼされるという不運が起きました。
お市と浅井長政との結婚
1567年、織田信長は、美濃国の斎藤氏との抗争に苦しんでいました。一方、浅井長政は、主家である六角氏との戦争に勝利し、武名をあげていました。
参考画像:浅井長政像(部分)
そこで、信長は長政との接近をはかりました。長政にとって、信長と手を結ぶことは悪い話ではありませんでしたが、織田家と朝倉家は、犬猿の仲でしたので、すぐには返事ができませんでした。
しかし、その後、浅井長政は他の敵国との対抗上、信長との同盟関係を結ぶことにしました。但し、織田家は朝倉家と戦争をしないという約束があったとされています。
信長は、浅井家との同盟を大変喜び、通常は結婚資金を浅井側が用意するのが当時のしきたりでしたが、信長は、婚姻の費用を全額負担したそうです。
浅井長政の裏切り
織田家と浅井家は、このように固い絆で結ばれたかに見えましたが、同盟が成立してから3年後、突如、異変が起きてしまいました。1570年、織田信長は、徳川家康とともに、朝倉軍に攻めかかったのでした。
織田家と朝倉家との以前からの抗争は、浅井家にとって悩みの種となっていましたが、浅井家は朝倉家との同盟関係を破ることができませんでした。そのため、約束を破った織田家に対して、「信長を討つべし」との意思が固まったようです。
浅井長政は朝倉家を援護することを決断し、織田軍の背後から攻めかかりました。
この突然の攻撃に対し、織田信長は、「まさか浅井長政が裏切るわけはない」と思い込んでいたようでした。
しかし、実際に浅井軍の攻撃を受け、朝倉軍との挟み撃ちに追い込まれ、京都に退却せざると得ませんでした。
この時、羽柴秀吉が死ぬ覚悟で、退却の最後の部隊として残り、織田信長が無事退却できるように奮闘したと言われています。
織田信長は、浅井長政の裏切りに疑問を持ちながらも、裏切りは事実なので、浅井長政との対決のために、急いで準備にかかりました。
武田軍の進軍と信玄の死去
1570年、織田・徳川の連合軍は、近江の国の姉川で、浅井・朝倉の連合軍と戦いが始まりました。この戦いは、織田・徳川の連合軍の勝利に終わり、浅井軍は、小谷城に引き上げました。
1572年、織田信長は、再度、北近江に軍を進めました。浅井長政は、朝倉義景に援軍を要請しました。
参考画像:朝倉義景画像<複製>
両軍がにらみ合いを続けているところに、当時最強と言われた武田信玄の大軍が甲斐の国を出発し、進軍を始めました。
武田軍は、三方ヶ原において、徳川軍を撃破し、三河に侵攻しました。その後、家康領の野田城を攻め落としましたが、運命とは分からないものです。
信玄は突然、死去しました。そのため、武田軍は、甲斐の国に退却しました。
朝倉軍の滅亡と浅井軍の滅亡、3人姉妹の救出
1573年、織田信長は、今度は3万の軍勢を率いて、再び北近江に攻め込みました。浅井長政も、朝倉義景に援軍を要請しました。
朝倉軍の軍勢は、2万の大軍でありましたが、織田の軍勢は、北近江の城を攻め落とし、浅井軍は壊滅状態となりました。これを見た朝倉軍は、急いで越後に引き返そうとしました。
織田信長は、撤退する朝倉軍を追撃し、刀根坂(とうねざか)にて壊滅させ、そのまま越後国内に攻め入り、朝倉氏を滅亡に追い込みました。
織田信長は、ついに浅井長政の居城である小谷城を取り囲みました。
しかし、織田信長は、浅井長政との彼との盟約を思い起こし、降伏を進める使者を派遣しましたが、長政はこれを断り自害しました。
お市の方は、3人の娘とともに藤掛永勝らによって救出されました。浅井長政の長男の万福丸(10歳)は捕らわれて羽柴秀吉によって、殺害されました。幸い次男の万寿丸は出家させられ命は助かりました。
お市の方、小谷城を脱出、その後、柴田勝家と結婚
前述のように、1567年に、お市の方は、浅井長政の継室として嫁ぎ、政略結婚ではありましたが、夫婦中は良く、3人の子どもを儲けました。
1573年に織田信長と浅井長政の戦いとなり、織田軍に小谷城を囲まれ、夫の自害という結末となりました。わずか6年の間に、悲劇を迎えました。
この小谷城が落城の時に、織田信長の家臣の藤掛永勝(ふじかけながかつ)という武将が、お市の方を救助するために、小谷城に入り無事救出しました。
お市の方は、3人の娘とともに小谷城を脱出しました。
1573年に、織田家に戻ったお市の方と3人の娘たちに、再び災難が訪れました。今度は、1582年に起きた明智光秀による本能寺の変でした。
参考画像:明智光秀、礼儀正しく公平だった 書状から浮かぶ実像
お市の方と柴田勝家の結婚と滅亡
その後、お市の方は、本能寺の変後、清須会議で、豊臣秀吉と柴田勝家が話し合いを持ち、柴田勝家とお市の方の結婚が決まりました。
柴田勝家と再婚することになり、越前に娘たちとともに移りました。
しかし、平和な生活は長くは続きませんでした。翌年の1583年になると、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が始まり、遂に「賤ケ岳の戦い」で、柴田勝家は敗北してしまいました。勝家は敗走して越前北の庄城に戻りました。
羽柴秀吉は、北の庄城を取り囲み、激しく攻めたてました。勝家は、落城の前夜、お市の方に城の外に逃げることを勧めましたが、お市の方は、これを拒否してともに自決することを誓いました。(享年37歳)
しかし、3人の娘については、自害することは可哀そうだということで、富永新六郎という武士に預けて秀吉のもとに届けさせました。
お市の方の辞世の句が残されています。
「さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 別れ(夢路)をさそふ 郭公(ほととぎす)かな」
(自決のために時間がないというわけでもないのですが、寝る間もない夏の夜は短いので、こうして勝家様との別れを惜しむ時間もなくて、ホトトギスが悲しく鳴いています)
お市の方の辞世の句
その後の3姉妹の運命
前述の通り、お市の方は、浅井長政と夫婦仲が良かったので、3人の娘を儲けました。
長女が、茶々(ちゃちゃ、後の淀殿)、次女が初(はつ、後に京極高次の正室)、三女がお江(ごう)です。
前述の通り、柴田勝家とお市の方が自害し、3人の娘たちは城外に逃れました。そして豊臣秀吉の保護を受けました。
その後、1588年頃、茶々(19歳)は秀吉の側室になりました。
茶々が秀吉の側室になった心境について、書かれた物がないので推測するしかありませんが、一番大きな影響を与えたのは、お市の方の生き方だったのではないでしょうか。
羽柴秀吉は、父の浅井長政を滅ぼした信長の家臣であり、お市の方の夫となった柴田勝家も秀吉に滅ぼされています。
参考画像:重要文化財《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。
茶々の出産、鶴松君、秀頼君
幸い、秀吉は、茶々に対し、目に入れても痛くないほど可愛がったと言われています。茶々は、妹たちを守る意味でも、天下を取った秀吉の側室になることで、これ以上の政略結婚に巻き込まれることを避けたいと考えたのかもしれません。
1589年には、棄(鶴松)を産みました。秀吉は喜び、山城淀城を与えました。以後、淀の方、淀殿と呼ばれるようになりました。鶴松は1591年に死亡しますが、1593年に拾(秀頼)を産みました。
秀頼の誕生と秀次の切腹
秀頼が生まれたことで、秀吉は喜びました。しかし、それは新たな後継者問題で悩むことになりました。秀吉は、父親として、秀頼に自分の後を継がせたいと思ったのです。
しかし、秀吉は既に、次の後継者として、豊臣秀次を関白としていました。
ところが、豊臣秀次は、あまり評判が良くないこともあり、秀吉は何回か秀次に対し、行いを改めるように、諭していました。
そのような時に、お拾(秀頼)の誕生と重なり、秀吉の心中は、秀次を排斥したい気持ちが強くなっていったのではないかと思えます。
突然、1595年、関白秀次に謀反の疑いがかかり、切腹となりました。(享年28歳)
秀次にしてみれば、そんな大それたことができるはずもありませんでした。秀吉は、秀次の死だけで満足せず、秀次の妻、側室など全ての係累を死罪としました。
後世、淀殿が、我が子のお拾いを後継者にさせたいために、石田三成と共謀して、秀次を陥れたという話もありますが、秀吉が、秀次と彼の家族や親類までも死罪を決めたことは、異常な行動とみられなくもありません。
人情的には、1592年に秀次を関白にせずに、もう少し待っていれば、1593年にお拾いが生まれたのですから、それまで、我慢していれば、これほど残虐な処刑をしなくても済んだのではなかったかと思います。
秀次が切腹したことにより、お拾(おひろい、後の秀頼)が秀吉の後継者となりました。
変転する3女のお江の運命・秀忠との結婚
3人娘の中で、出世頭が茶々とすれば、3女のお江は、変転の人生を繰り返していました。
佐治一成との婚約、その後、離縁して、豊臣秀勝と再婚。
淀殿の妹のお江は、最初、織田信長の家臣の佐治一成と婚約しました。しかし、豊臣秀吉が天下を取ると、この婚約を解消させられ、秀吉の甥の豊臣秀勝と結婚することになりました。
お江と秀勝との間には、娘の完子(さだこ)を儲けました。ところが、秀勝は文禄の役で朝鮮出兵後、1592年、陣中で急逝しました。(享年24歳)
独身となったお江は、秀吉の養女となり、徳川秀忠と再婚
淀殿は、独身となったお江のことを心配しました。一方、秀吉は、徳川家との関係を強めたいと考えていました。
それには、どうしたら良いか、やはり、政略結婚によって、両家の融和を図る以外にはありませんでした。
お江は、まだ22歳の若さです。淀殿の実の妹であり、名門の織田信長との血縁関係もある重要な人物でありました。
秀吉は、お江を自分の養女とし、徳川家康との関係を良くするために、1595年、徳川秀忠と再婚させることにしました。
参考画像:徳川秀忠像松平西福寺蔵
お江は、秀忠の妻となってからは、北の方と呼ばれました。
秀忠が将軍になってからは、将軍の正室を意味する「御台所(みだいどころ)」と呼ばれました。
徳川秀忠とお江は、7人の子どもを儲けましたが、千姫は第1子で長女です。絶世の美女であったと言われています。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「運命に翻弄されたお市の方と娘たちの生涯」のお話しは如何でしたでしょうか。
お市の方様の見事な最後も感動的でした。2女のお初は京極家に嫁ぎましたが、子どもは生まれませんでした。晩年は京極忠高の江戸屋敷に住み、妹のお江ともよく会っていたと言われています。
お江は、変転する運命に身を任さざるを得ませんでしたが、最後は徳川秀忠と結婚し、千姫・家光・忠長・和子を産みました。徳川の世継ぎを儲け、大奥での権勢も強くなったと言われています。
戦国の世は、武将の戦いで、父母を失い、兄弟姉妹も殺され、悲劇の続くことばかりでしたが、徳川家康の江戸幕府の成立や大阪の陣で、豊臣家が滅び、ようやく平和が訪れました。
関ヶ原や大阪の陣の戦いで、多くの武将も亡くなりましたが、妻や子供も殺されたり、自害したり、犠牲になるのは女性も多くいました。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
多聞先生に、お伺いさせて頂いてすぐにお応えくださいました。
強いカードだよ、自分の好きな事に向かい、頑張って!と背中を押していただきました。
現代においては、様々な課題が有りますが、広い視野をお持ちの先生には、いろいろな気付きを得る事ができました。ありがとうございました♪^ ^
また、宜しくお願い申し上げます♪^ ^