運命に翻弄されたお市の方と娘たちの生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年10月10日
1598年の5月から秀吉は病に伏せるようになりました。
1598年の秀吉の遺言状には、家康が年老いて政務ができない場合は、秀忠が、代わりに秀頼の面倒をみることとされていました。
7月4日に徳川家康ら諸大名を呼び寄せ、家康には秀頼の後見人になることを依頼しました。8月5日には、2度目の遺言状を書きました。
秀吉の死から豊臣家の滅亡まで
8月18日、秀吉は生涯を終えました。(享年62歳)
秀吉の死により、豊臣家の家督は秀頼が継ぐことになりました。遺言通り、五大老や五奉行が秀頼を補佐する体制が合意されていました。
しかし、次第にこの体制は崩壊していきました。
石田三成(集権派)と浅野長政ら(分権派)の対立、及び加藤清正ら(武断派)との対立
大きな対立としては、石田三成や増田長盛らの強硬な集権派と、これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立がありました。
参考画像:Ishida Mitsunari
その他にも、石田三成・増田長盛を中心とした奉行たち(文治派)と、加藤清正や黒田長政らを中心とする朝鮮出兵を行った武将たち(武断派)との抗争がありました。
関ヶ原の戦い
1598年に秀吉が、死去すると徳川家康を中心とする勢力と、石田三成を中心とする勢力に分かれて抗争が始まりました。
東軍と西軍の対立
徳川方には、織田有楽斎、京極高次、伊達政宗、池田輝政、福島正則、細川幽斎、黒田如水、藤堂高虎、最上義光など、30名近い武将が集まったと言われています。
一方、大阪の前田利家の屋敷には、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、細川忠興、加藤清正、加藤嘉明、浅野長政、浅野幸長、佐竹義宣、立花宗茂、小早川秀包、小西行長、長曾我部盛親、岩城貞隆、原長頼、熊谷直盛、垣見一直、福原長堯、織田信秀、織田秀雄、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、鍋島直茂、有馬晴信、松浦鎮信らが集まったとされています。
ところが、この中にも対立関係があり、前田利家がなくなると、石田三成は、加藤清正、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、蜂須賀家正、浅野幸長らの武将に襲撃されてしまいました。
石田三成は、屋敷に逃げ込み立て籠もりましたが、これだけの武将に囲まれては、勝てる見込みはありませんでした。
この騒ぎを知った徳川家康や毛利輝元、上杉景勝、佐竹義宣、そして秀吉の北政所のねねの仲裁によって、石田三成は、奉行職を解かれ、居城の佐和山上に蟄居となりました。
徳川家康の暗殺計画と反対派の排除
1599年、家康は秀頼の重陽の節句の挨拶に大阪城に入りました。ところが、その日に、家康暗殺の計画が発覚しました。
その暗殺計画とは、秀頼・淀殿の側近である大野治長、その他、土方雄久が、家康を襲撃し暗殺するという計画だったのです。この暗殺計画を密告者は、増田長盛と言われています。
参考画像:肖像集8 増田長盛
そのため、家康は、暗殺に加担した武将に対して処分を発表しました。大野治長は、下総結城、土方雄久は常陸水戸に流罪となりました。
続いて、暗殺計画の首謀者として、前田利家に対し、「加賀征伐」を行いました。秀吉とは仲の良い前田家と家康は以前から確執がありました。しかし、前田家は、家康と戦いをするつもりはありませんでした。
結局、前田家は家康に対して、多くの人質を出すことで決着しました。
その後、家康は、大阪城の西の丸に入り、権勢を増々伸ばしていきました。家康は、秀頼や淀殿の意向を無視して、単独で各大名への加増や転封を実施しました。
関ヶ原の戦い
こうした政治状況において、大老の上杉景勝と家康の関係が悪化していきました。家康は江戸にもどり、会津攻めの準備を行いました。
一方、大阪では、前田玄以、増田長盛、長束正家らの豊臣三奉行は、広島にいる毛利輝元に、大阪城に入ることを要請しました。島津義弘も上杉景勝のために決起することを表明しました。
こうして、家康を中心とする勢力と、秀頼を中心とする勢力が2分され、遂に1600年に、関ヶ原の戦いとなりました。
参考画像:『関ヶ原合戦屏風』
当時秀忠は、信濃国上田城の真田氏との戦いに手間取り、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。当時、秀忠が関ヶ原の戦いに間に合わなかったことを彼の失態と評価する人たちが多くいましたが、家康は、関ヶ原の戦いに遅れたことよりも、軍勢を急がせて疲弊させたことを咎めたと言われています。
- 西軍の武将(約8万以上)
- 毛利輝元
- 石田三成
- 毛利秀元
- 宇喜多秀家
- 大谷吉継
- 小西行長
- 島津義弘
- 西軍から寝返りした武将
- 小早川秀秋
- 脇坂保治
- 朽木元鋼
- 赤座直保
- 小川祐忠
- 西軍から東軍に内応した武将
- 吉川広家
- その他の西軍
- 真田昌幸
- 真田信繁
- 奥羽本隊・大津城攻撃隊・その他
- 上杉景勝
- 直江兼続
- 本庄繁長
- 毛利元康
- 立花宗茂
- 小野木重次
- 織田信包
- 前田茂勝
- 小出吉政
- 織田秀信
- 東軍の武将(約7万4千~10万)
- 徳川家康
- 松平忠吉
- 黒田長政
- 藤堂高虎
- 浅野幸長
- 井伊直政
- 本多忠勝
- 福島正則
- 細川忠興
- 織田長益
- 東軍・中山道軍・その他
- 徳川秀忠
- 榊原康政
- 仙谷秀久
- 真田信幸
- 最上義光
- 伊達政宗
- 結城秀康
- 京極高次
- 細川幽斎
関ヶ原の戦いは、結果として家康の東軍が勝ちました。
しかし、家康は、大阪城にいる秀頼と淀殿をどうするかという問題と取り組まなければなりませんでした。
家康は、豊臣家の領地を減らし、220万石あった直轄地を、65万石まで減らすことにしました。
徳川家康は、1603年に伏見城に入り、征夷大将軍に就任し、江戸城の普請事業を行い、江戸幕府の成立のための準備を始めていました。
豊臣家に対しては、徳川家に対して服属するか、そうでなければ滅亡させるか、という考えを持ち始めました。
家康は、年齢的には60歳になっていましたので、早く徳川幕府の成立を望んでいました。
千姫と豊臣秀頼の結婚
家康は、征夷大将軍になり、息子の秀忠も家康の後継者として、1603年に朝廷から、右近近衛大将に任命されました。
千姫と豊臣秀頼の結婚
同時に、家康は、秀頼と淀殿との融和策として、秀頼と千姫の婚姻を考え出しました。秀頼と千姫が結婚することにより、豊臣家と徳川家の関係を穏やかなものにすることができるのではないかという思惑がありました。
そして、1603年、千姫は7歳で秀頼と結婚することになりました。千姫と秀頼とは夫婦仲が良く、千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式を千姫にしていたのを侍女が見ていたという記録があります。
千姫は、性格が温和であり、人情深く、秀頼と側室の間に生まれた娘・天秀尼が処刑されそうになった際に、体を張って助命嘆願をしたという記録があります。天秀尼は、その後「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となりました。
徳川家の横暴に危機感を募らせる豊臣家
家康は、天下に征夷大将軍の世襲制を示すために、早々と、1605年、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠は、征夷大将軍となりました。
そのかわり、秀頼に右大臣位を譲りました。これは秀忠の方が高位にあるということを意味しています。
しかし、この時は秀頼が将来、関白になるという見方もあり、どちらが優位であるのか微妙な時期でありました。
家康は、秀頼に対して臣下の礼を取るように要求しましたが、淀殿に断られました。
その後、家康は二条城にて秀頼との会見を行いました。家康は大阪にいる武将や他の武将から、誓紙を取って、徳川家に背かない誓をたてさせました。
その後、豊臣家を支えてきた浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、前田利長が相次いで亡くなってしまいました。
豊臣家は次第に孤立していく中で、徳川家に対する危機感を強めていきました。そのため、大阪城に兵糧を集めたり、浪人を集めたり、戦争の準備を始めました。
徳川家も、豊臣家とは融和策と同時に、兵器の調達を始めました。
大阪冬の陣・夏の陣
1605年、正月に家康は大軍をつれて上洛しました。その後、家康は将軍職を秀忠に譲りました。
家康、秀頼の二条城での会見
その後1611年、後水尾天皇の即位に際して、家康は上洛しました。その際、二条城で秀頼との会見を要請しました。この時は、加藤清正や浅野幸長らの豊臣恩顧の大名のとりなしで会見が実現しました。
しかし、豊臣家では、徳川家に対する危機感から、兵糧や武器の調達、浪人を集めることなど、戦争の準備を始めていました。
大阪の冬の陣
豊臣軍は、内部の統一が取れておらず、大野治長を中心とする籠城派と交戦派と別れていました。最終的には、籠城派の作戦が採用されました。
1614年、大阪冬の陣が始まりました。家康は駿府を出発しました。家康は二条城に入りました。
徳川軍は大阪城を20万の軍勢で包囲しました。
またイギリスやオランダから購入した大砲で大阪城に砲弾を撃ち込みました。
本丸に打ち込んだ砲弾が、淀殿の侍女8人に命中し、死亡しました。
淀殿は、「大阪城は10年でも持ちこたえる」と言っていましたが、さすがに砲弾の威力がすさまじいことで、和議に応じる気持ちになりました。
和平後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻りましたが、兵器の増強は続いていました。家康は、豊臣家を滅ぼす覚悟をしていたのでしょう。
家康は、豊臣家の国替えを要求しました。 しかし、大野治長の使者が来て、豊臣家の国替えについて拒否してきました。
大阪の夏の陣
1615年、家康は再び、駿府を出発し、秀忠も江戸を出発しました。そして、再び二条城に入りました。その後、秀忠も二条城に到着しました。この時、徳川方の軍勢は約15万5千人でした。
この時、大野治長が交渉にあたっていましたが、大阪城内で襲撃され、交渉が続けられなくなりました。この時、豊臣方の軍勢は7万8千人と言われています。今回は籠城策を採らず、野戦での戦いとなりました。
各所で幕府軍と戦いが始まりましたが、豊臣軍は敗戦が続きました。その結果、豊臣軍は大阪城に撤退するほかはありませんでした。
堀を埋められた大阪城は、押し寄せる幕府軍になすすべがなく、城内には幕府軍が乱入し、混乱を極めました。そのうちに、城の大台所から火が出て、大阪城は、燃え上がりました。
大野治長は、家臣の米倉権右衛門を使者として遣わし、千姫を脱出させた上で自身が切腹する替わりに、秀頼・淀殿の助命嘆願を行いました。
家康は秀忠に判断を任せたところ、秀忠は秀頼に切腹を命じました。
この時、徳川家康は、大阪城から千姫を救出するために、「千姫を救出したものに千姫を嫁がせる」という命令を出したという噂があります。
それを真に受けて、大阪城に救出に入った武将がいました。それが坂崎直盛という武将でした。彼は千姫を助けましたが、千姫をもらい受けることができませんでした。そのため不満を持っていたという噂があります。
千姫と本多忠刻の結婚
1616年、千姫は、桑名藩主の本田忠政の嫡男の本多忠刻と結婚しました。
この時、津和野藩主の坂崎直盛が輿入れの行列を襲い、千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害され、自害したように見せかけましたが、坂崎家は改易処分となりました。
1617年、本多家が播磨姫路に国替えになった時、千姫も姫路城に入り、播磨姫君と呼ばれました。
参考画像:Himeji castle in may 2015 after the five year renovation of the roof and walls. by Niko Kitsakis is licensed under CC BY-SA 4.0
1618年、長女の勝姫が生まれ、1619年には長男の幸千代が生まれました。 しかし、1621年に、幸千代が3歳で他界し、夫の忠刻や姑の熊姫や母のお江の方が次々と他界したので、本多家を去ることになりました。
千姫が出家し、天樹院となる
最後に、千姫のその後を簡単にご紹介致します。
千姫は、江戸城に戻り、出家して天樹院となりました。出家後は、娘の勝姫とともに竹橋御殿で暮らしました。
1628年、娘の勝姫が、父の徳川秀忠の養女となり、池田光正の下へ嫁ぐことになりました。
1632年、父の徳川秀忠が薨去(こうきょ・亡くなったこと)しました。
1639年、池田光正と勝姫の間に、嫡男の綱政が生まれました。
1644年、千姫は、弟の徳川家光の厄年除けのために、側室の夏と家光の三男である綱重を養子にすることで、大奥に対する大きな発言権を持つようになりました。
4代将軍の家綱の時代になっても、大奥の最高権威となっていました。
1666年、江戸で死去。享年70歳。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
細川ガラシャの信仰を貫いた壮絶な生涯
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「運命に翻弄されたお市の方と娘たちの生涯」のお話しは如何でしたでしょうか。
お市の方様の見事な最後も感動的でした。2女のお初は京極家に嫁ぎましたが、子どもは生まれませんでした。晩年は京極忠高の江戸屋敷に住み、妹のお江ともよく会っていたと言われています。
お江は、変転する運命に身を任さざるを得ませんでしたが、最後は徳川秀忠と結婚し、千姫・家光・忠長・和子を産みました。徳川の世継ぎを儲け、大奥での権勢も強くなったと言われています。
戦国の世は、武将の戦いで、父母を失い、兄弟姉妹も殺され、悲劇の続くことばかりでしたが、徳川家康の江戸幕府の成立や大阪の陣で、豊臣家が滅び、ようやく平和が訪れました。
関ヶ原や大阪の陣の戦いで、多くの武将も亡くなりましたが、妻や子供も殺されたり、自害したり、犠牲になるのは女性も多くいました。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
多聞先生に、お伺いさせて頂いてすぐにお応えくださいました。
強いカードだよ、自分の好きな事に向かい、頑張って!と背中を押していただきました。
現代においては、様々な課題が有りますが、広い視野をお持ちの先生には、いろいろな気付きを得る事ができました。ありがとうございました♪^ ^
また、宜しくお願い申し上げます♪^ ^