美しさと金運が倍増する弁財天
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2024年1月5日
美しさと金運が倍増する弁財天。
皆様、明けましておめでとうございます。
今回は、お正月にちなんで、縁起の良い神様である弁財天のお話しをさせて頂きます。
宝船に乗る七福神の絵を御覧になった方もいらっしゃると思います。
七福神は、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天の七柱です。
弁財天は、七福神の中で唯一女性の神様です。弁財天のご利益は、商売繁盛、芸能、金運、勝負運、豊漁、五穀豊穣などの他に、美しさが得られるという嬉しいご利益があります。
弁財天はとても身近な神様です。気軽にお願い事ができ、たくさんのご利益が得られるので、お参りする価値は絶大ではないでしょうか。
弁天様の由来
ヒンドゥー教の創造の神「サラスヴァティー」
弁財天は、インドのヒンドゥー教の聖典「リグ・ヴェーダ」に出てくる女神です。その名は、「サラスヴァティー」(Sarasvati)と言います。
「サラスヴァティー」という名は、インドの神聖な川の名前に由来します。この川は、インダス川に沿って流れていましたが、現在は砂漠化してなくなってしまいました。
水が滔々と流れていた時代は、肥沃な大地をもたらしました。当時のアーリア人の遊牧生活に豊かな自然の恵みを与えました。
その結果、「サラスヴァティー」は、ヒンドゥー教の創造の神、ブラフマーの妻とも言われ崇められました。
そのお姿は、肌は白く、額には三日月の印をつけています。白い衣をまとい、4本の腕を持ち、数珠とヴェーダ、琵琶のような楽器を持ち、歌を唄います。
「サラスヴァティー」は、白鳥または、孔雀の上に乗る姿や、あるいは、白い蓮華の花の上に座っている姿が絵に描かれています。
ヒンドゥー教の神話では、白い鳥は神聖な鳥であり、牛乳と水を混ぜたものを与えると、牛乳だけを飲むことができると言われています。その神話の意味は、善と悪、外面的なみせかけと本質、そして永遠と一時的なものを区別する能力を象徴しています。
孔雀の意味は、色とりどりの華麗さ、そして蛇を食べてしまう神の鳥として、邪悪な蛇の毒を、輝く啓発の羽に変える力を持つ魔法の能力を象徴しています。
仏教に伝わり妙音天、弁財天、大弁功徳天となる
サラスヴァティーは、芸術や学問などを司る女神です。
ヒンドゥー教の教えは、紀元前4~5世紀頃に、インド仏教に取り入れられました。
仏教に取り入れられた経典は、インドからシルクロードを通って、中国に伝えられました。
経典は漢訳され、サラスヴァティーは、川の流れる音にちなんで「妙音天」、またよどみなく流れる水のように弁舌がさわやかであるとの連想から「弁財天」、「大弁功徳天」などと意訳されました。
弁財天の歴史と特徴
弁財天は、福徳円満、貴婦人の衣装を着けて、頭には宝冠を戴き、琵琶とバチを持って演奏している姿が一般的です。
弁財天が日本に伝わった経緯は、中国や朝鮮を経て、日本に伝わったことに始まります。
仏教の伝来
日本に仏教が伝来した時期については、538年と552年の2説があります。現在では、538年が有力な説となっています。
532年の説の根拠は、聖徳太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)が根拠となっています。そこには、欽定天皇が戌年10月12日に、百済の王から仏像や経典を贈られたと書かれています。
一方、日本書紀では、552年(欽明13年)に、百済の聖明王の遣いが、釈迦像と経典を欽明天皇に献上したと書かれています。
その経緯には、当時の朝鮮半島で、百済(くだら)と高句麗(こうくり)が、戦争していたことに原因があります。百済は日本に救援を求めました。 日本は百済に軍事援助をするかわりに、百済の聖明王(せいめいおう)から、仏像や経典を贈られることになったのです。
その後、奈良時代前期に、聖武天皇が天平13年(741年)に、全国に国分寺を設置し、度重なる飢饉や疫病の流行や内政の混乱に対して、仏教による国家鎮護を願い、詔を発しました。その時、国分寺に対して、「金光明最勝王経」(こんこうみょうさいしょうおうきょう)を読むことを命じました。
金光明最勝王経は、四天王(してんのう)をはじめとする諸天善神(しょてんぜんしん)による国家鎮護を説く経典です。全部で10巻から成ります。
この経典は、唐の義浄(ぎじょう)という僧侶が、長安で703年に漢訳したものです。日本には15年後の718年に伝えられました。
金光明最勝王経とはどんな経典?
金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)とは、仏教の中では大乗経典のひとつです。唐の義浄という僧侶によって、漢訳されました。
この経典は「空」の思想を基調としています。この経典を読むと、国は豊かになり、四天王をはじめ弁財天や吉祥天、堅牢地神などの神々が国を守ると説いています。
その経典の中では、弁財天は、八臂(8本の腕を持つ)の姿で美人であり、弓、矢、刀、長杵、鉄輪、羂索を持っています。
東大寺法華堂(三月堂)に安置されている8臂(8本の腕を持つ)の立像(塑像)は日本最古の尊像として知られています。
経典の中で、弁財天がどのような事を言っているのか、少しご紹介致します。
弁財天は、釈迦の前に出て言いました。(抜粋)
「お釈迦様、私は、この経典を説こうとする法師があれば、その法師の知恵を増やし、雄弁に説法をする力を与えましょう」
「そして、この経典の説法を聞く者には、生死に流転する迷いの世界を脱して、悟りの境地に向かわせます」
「現世では、寿命を延ばし、財産に不自由ないようにさせましょう」
「あらゆる悪い運気による天変地異、生まれながらの運命による災い、疾病の苦しみ、争いやいさかい、戦争、悪夢、悪鬼邪心、動物や人形、死体を使った呪術など、あらゆる悪しき障害を引き起こすものを、ことごとく除滅させましょう」
また、弁財天は、「僧侶だけでなく、一般の人々でも、この経典を読み、唱え、書写し、忠実に実践するならば、天の踊りや音楽を奏でながら訪問し擁護し、あらゆる病苦や天変、妖怪や流行病、争いやいさかい、あらゆる障害を除滅し、悟りの境地に至る利益を与えましょう」と言っています。
弁財天は、大変有難い存在であることが分かります。
空海が新しい弁財天をもたらす
その後、平安時代に、803年、空海が、中国の唐に渡りました。
空海が、中国から持ち帰った「胎蔵界曼荼羅」(たいぞうかいまんだら)には、大日如来を中心に、たくさんの仏様の姿が描かれています。
その中に、弁財天は、2本の腕を持ち、琵琶(楽器の一種)を抱えるような姿で描かれています。現在の七福神の弁財天は、この流れを受けています。
弁財天は、漁業や農業の神様として信仰されましたが、それが後世になり、財産の神様にもなりました。その結果、弁財天と書かれるようになったと言われています。
(弁天様は、弁才天、あるいは弁財天と書かれます。ここでは、弁財天に統一してあります)
鎌倉時代になると、源頼朝が、文治元年(1185年)に銭洗弁財天宇賀神福神社を建てました。
その由来とは、ある晩、源頼朝の夢枕に、頭が人で身体が蛇の姿をした宇賀神様が現れました。そして、神様は、私を供養すれば、天下泰平となるというお告げを受けました。頼朝は、宇賀神様を祀ることにしました。それが、現在の銭洗弁財天宇賀神福神社の由来です。奥にある洞窟内の湧き水で、お金を洗うと数倍となって返ってくるという信仰があります。
近世になると、弁財天は、「七福神」の一員として信仰されるようになりました。室町時代の文献に、天台宗の開祖である最澄が、大黒天と毘沙門天と弁財天の合体した三面大黒天を祀ったという記録があります。
宇賀弁財天(うがべんざいてん)
前項で、源頼朝の夢枕に宇賀弁財天が現れましたが、弁財天と宇賀神が合体したものです。それを習合と言っています。
宇賀神は、財をもたらす神様として有名です。「宇賀」という名称の由来は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものとみなされています。
宇賀弁財天には、16の童子が従っています。宇賀神の姿は、頭は人の形をしており、体は大きな蛇の形をしています。
通常はとぐろを巻いています。この蛇の神様は、比叡山の延暦寺の教えに取り入れられ、弁財天と合体し、宇賀弁財天と呼ばれるようになりました。
宇賀神の民話
15世紀の伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさしんのう)が、残した「看聞日記」という書物に、宇賀神を家に祀ったことで、家が裕福になったという話があります。
しかし、ある日の事、昼寝している妻の頭に、蛇がとぐろを巻いて座っているので、驚いた夫は慌てて蛇を追い出してしまいました。すると、不思議な事に、その家はしばらくするともとの貧乏な家に戻ってしまったそうです。
また、16世紀に編纂された辞典「塵添壒嚢鈔」(じんてんあいのうしょう)の中に、紹介された内容は、宇賀神は、イザナミから産まれた保食神(ウケモチノカミ)と同様の神とされています。
また、羽衣伝説と同じように、水浴びをしていた天女のひとりが老夫婦に衣を隠されてしまい天に戻れなくなり、天女は老夫婦に万病に効く酒を造って老夫婦に財をもたらしましたが、翁に追い出され、たどり着いた丹後の奈具村で宇賀神となり、そこで人々に福をもたらしたというお話もあります。
弁財天のご利益
弁天様のご利益は、金運上昇・縁結び・学業成就・技芸上達・勝負運アップ・立身出世・国家鎮護などいろいろと多岐にわたります。
代表的なご利益
①:芸能や音楽のご利益
弁財天は、そのお姿に見えるように琵琶のような楽器を持っています。芸術や音楽の神様として信仰されています。
②:金運・財運のご利益
弁財天と書かれるように、財運や金運にも恵まれる神様です。
③:美人になるためのご利益
弁財天は、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と同一視されることから、美人の誉れの高い神様です。
例えば、栃木県の「本城厳島神社」では、日本で唯一、「美人証明」を出してくれる神社です。美人とは、外見的な美しさだけでなく、全ての女性の心の優しさと美しさを守り、それを証明するものとして、美人証明を持つことで、弁財天のご利益があると言われています。
弁財天と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
弁財天は、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と同一視されています。 インドの女神と日本の女神が同一視された歴史をご紹介致します。
まず、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が、生まれた経緯からご説明いたします。
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)は、スサノオの誓約(うけい)によって産まれたとされています。誓約(うけい)とは、スサノオが自分の行いの正しさを証明するために、誓いたてたことです。
最初に、イザナギとイザナミの国生みの物語から始めましょう。
イザナギとイザナミの国生みの話は、古事記や日本書紀に出てきます。あらすじを簡単にご説明します。
その昔、天上界には、高天原(たかまがはら)というところがあり、多くの神々が住んでいました。
イザナギとイザナミの国生みで日本の国が誕生
その時、イザナギとイザナミは、高天原(たかまがはら)の神々から、「アメノヌボコ」という矛を授かり、地上の世界を作ることを命令されました。
イザナギとイザナミは、天の浮橋から、大海原にアメノヌボコを突き刺し、引き抜くと矛からしずくが落ちました。そのしずくは、島となりました。
それが、オノゴロジマと言われる島です。イザナギとイザナミは、その島に宮殿を建てました。
イザナギとイザナミは、続いて、淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州を次々と産み出しました。この8つの島を「大八島国(おおやしまのくに)」と言います。さらに、6つの島を作り、日本の国の原型を作りました。
イザナミが黄泉の国へ旅立つ
イザナミは、次々と神々を産んでいきました。そして、最後に火の神のカグツチを産んだ時に、イザナミは火傷を負って命を落としてしまいました。
イザナミは、黄泉の国に旅立ちました。悲しんだイザナギは、黄泉の国へ行き、イザナミに会おうとしました。黄泉の国は暗く、そして広大な地下の世界でした。
ようやく、イザナギはイザナミのいる場所を突き止めました。イザナミは黄泉の国の洞窟の中にいました。イザナギは、洞窟の扉を開けようとしましたが、「開けてはいけません」とイザナミが言うので、イザナギは我慢しました。
しかし、とうとう我慢できなくなり、扉を開けてしまいました。そこには、醜く変貌したイザナミがいました。イザナギは驚いて逃げ出してしまいました。イザナミは、それを見て怒り狂い、イザナギを追いかけました。
イザナギは、ようやく出口に着きました。そこには美味しそうな桃の木がありました。イザナギは、桃の実をもぎとり、追いかけて来た黄泉の国の者たちに投げつけました。すると、桃の実を追いかけて、黄泉の国の者たちは、消え去りました。イザナギは、黄泉の国の出口を大きな岩で塞いでしまいました。
すると、岩の向こうから、イザナミが、「あなたの国の人々を一日千人殺すことにする」という声が聞こえました。イザナギは、「それなら、一日千五百人産むことにしよう」と答えました。
イザナギは黄泉の国から帰り禊をして三柱の神を産む
イザナギは、穢れを落とすために、水に入り禊(みそぎ)を行いました。その時、左目を洗うと天照大神(アマテラスオオミカミ)が産まれました。次に右目を洗うと、月読尊(ツクヨミノミコト)が産まれました。次に鼻を洗うと、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が産まれました。
こうして生まれた子どもたちは、「三貴子」(みはしらのうずのみこ)と呼ばれ、イザナギの跡を継いで国を治める神々となりました。
イザナギは、アマテラスに「高天原を治めよ」と命じました。次にスサノオに海を治めるように命じました。
ところが、スサノオは、母のイザナミに会いたいと言い出しました。イザナギは、黄泉の国に行けば、災いがあることを説きましたが、スサノオはイザナギの言うことを聞きませんでした。イザナギは、スサノオに呆れ、追放してしまいました。
追放されたスサノオは、姉のアマテラスに会いに行きました。びっくりしたのはアマテラスでした。スサノオは、性格は荒く、暴れん坊で有名でした。
てっきり、彼は高天原を侵略しに来たのかと思い、アマテラスは、戦う用意をしました。
スサノオは、イザナミに会うために黄泉の国へ行く前に、アマテラスに会いたいと言いました。
しかし、アマテラスは、スサノオの言葉を信用しませんでした。スサノオは、身の潔白を表すために「誓約」(うけい)をして、子を産むことを提案しました。
アマテラスは、スサノオの誓約(うけい)を試すことにしました。早速、スサノオの剣を3つに折って噛み砕きました。この時、五男三女神が産まれました。
この三女神が、多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、多紀理姫命(たぎりひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)の三柱です。
スサノオが高天原で暴れ出しアマテラスが天岩戸に隠れる
スサノオはそれを見て、「女神が生まれたのは、私にやましいところが無いからだ」と言い出しました。
スサノオは、勢いづいて、調子に乗り、はしゃぎまわりました。そのため、高天原は揺れ動き、破壊されそうになりました。ある女神がショックで亡くなってしまいました。
スサノオのあまりの騒ぎように、ついにアマテラスも我慢ができなくなり、「天岩戸」(あまのいわと)という高天原の洞窟に隠れてしまいました。そのため、世の中は真っ暗になりました。神々は困り果て、何か良い知恵はないものか考えました。
神々の中で、常世(とこよ)の思兼神(おもいかねのかみ)は、岩戸の周りで賑やかな祭りを行えば、アマテラスが出てくるのではないかと考えました。他の神々もその案に賛成し、お祭りを開くことになりました。
天宇受売命(あめのうずめのみこと)と言う神様が踊り出すと、神々は、彼女の踊りに目を奪われました。
なぜなら、彼女は踊りの名手であったからです。我を忘れて踊り狂ったので、胸や脚がはだけそうになりました。神々はその踊りに驚嘆し歓声を上げたのでした。
アマテラスは、外ではいったい何がおきているのかと岩戸を少し開けて、顔を覗かせました。その瞬間を捉えたのが、天手力男(あめのたちからお)です。彼が、岩戸を押し開き、アマテラスを引っ張り出しました。こうして世界に再び光が戻りました。
アマテラスを祀る神明神社
アマテラスは太陽神です。彼女を祀る神社を「神明神社(しんめいじんじゃ)」と言います。神社本庁によると日本各地に約5,000社も存在すると言われています。
その総本社は、三重県の伊勢市にあります。そこには、「お伊勢さん」の愛称でも親しまれる伊勢神宮の内宮があり、これを「皇大神宮(こうたいじんぐう)」と呼びます。
祭神の天照大神は、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき、広く信仰されました。
その他にも、宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸には、アマテラスが隠れたとされる天岩戸があります。
そこには、アマテラスを主祭神とする「天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)」という神社があります。
この天岩戸神社は、岩戸川を挟みそれぞれ建てられた東本宮と西本宮から成り立っています。元々東と西の本宮は別々の神社でしたが、1970年(昭和45年)に合併しました。川上には八百萬(やおよろず)の神々が集まったとされる天安河原があります。神話の世界をそのまま地上に具現化したような神社です。
市杵島姫命が弁天様になった理由
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)によって生まれたことを前項で述べましたが、仏教の伝来と信仰が、人々に浸透した結果、インド由来の弁財天と同一視されるようになりました。
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)は、神話に登場する宗像(むなかた)三女神の一柱で、航海安全や財運などのご利益があるとされる神様となりました。
一方、弁財天は、インドの吉祥天(きっしょうてん)という女性の天部の仏様が日本に伝わって変化したものです。芸術や財富の神様として信仰されてきました。
弁財天も水に関係した仏様であり、また市杵嶋姫命が海の神様であることから、同じ水の仏様である弁財天と重ね合わせられました。
市杵嶋姫命と弁財天の同一視は、平安時代から始まり、江戸時代には広く定着しました。その影響で、市杵嶋姫命を祀る神社は、弁財天の神社としても崇められるようになりました。
市杵嶋姫命と弁財天の関係は、明治時代の神仏分離令によって断絶されましたが、現在でも両者の信仰は根強く残っています。
弁財天を祀った神社 全国に弁財天を祀る神社は、たくさんあります。その中のひとつに、福岡県の玄界灘に面した海辺に宗像大社(むなかたたいしゃ)があります。
宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称です。古事記や日本書紀にも記載されている日本最古の神社のひとつです。
この沖ノ島と宗像地域の祭祀遺跡は、2005年にエジプト考古学者の吉村博士が世界遺産にすることを提唱し、2017年に、ユネスコ世界遺産委員会で、正式に世界遺産に登録されました。
宗像大社の祭神のひとつが、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。昔から、漁業や交易の盛んなところでしたので、船乗りの人々から、厚い信仰を受けている神社です。
この神社の奥宮がある沖ノ島は、3世紀ごろから朝鮮半島との交通の要所として、歴史的に重要な島となっています。別名、「海の正倉院」と呼ばれています。
その他にも、弁財天の神社や寺院としては、琵琶湖の竹生島の宝厳寺や広島の宮島にある厳島神社などが、古い弁財天として知られています。
厳島神社は、平清盛が日宋貿易を行い、海外貿易に力を入れたことから、後悔の安全のために、大変に重要な神社として祀りました。
その他、神奈川県の江の島にある弁財天も古いものです。江島神社(えのしまじんじゃ)は、欽明天皇の勅命で、江の島の洞窟に神を祀ったことが起源となっています。
江島神社には、天照大神から産まれた三女神が祀られています。
辺津宮(へつみや)には、「多岐津姫命」(たぎつひめのみこと) 中津宮(なかつみや)には、「市杵嶋姫命」(いちきしまひめのみこと) 奥津宮(おくつみや)には、「多紀理姫命」(たぎりひめのみこと)
が祀られています。
また、辺津宮には、鎌倉時代初期の作である「八臂弁財天(はっぴべんざいてん)や鎌倉時代中期以降に作られた「妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)」が安置されています。
ご参考までに、全国の主な神社・寺院をご紹介致します。
- 宝厳寺(滋賀県長浜市、竹生島)
- 大願寺(広島県廿日市市、宮島)
- 八百富神社(愛知県蒲郡市、竹島)
- 圓教寺(兵庫県姫路市)
- 瀧安寺(大阪府箕面市)
- 神呪寺(兵庫県西宮市)
- 真福寺(岡山県津山市)
- 東海寺布施弁天(千葉県柏市)
- 浅草寺弁天山(東京都台東区)
- 寛永寺不忍池弁財天(東京都台東区)
- 妙光寺厳島弁才天(長野県上田市)
- 桃厳寺(愛知県名古屋市)
- 興福寺窪弁才天(奈良県奈良市)
- 霊山寺大弁才天堂(奈良県奈良市)
- 長建寺(京都市伏見区)
- 深沢銭洗弁天(神奈川県足柄郡)
- 最福寺(鹿児島県鹿児島市)
- 威光寺弁天洞窟(東京都稲城市)
- 大盛寺井の頭弁財天(東京都三鷹市)
- 本光寺出世弁財功徳天女(千葉県市川市)
- 長谷寺弁天堂弁天窟(神奈川県鎌倉市)
- 戒光寺泉山融通辯財天(京都府京都市)
- 了法寺新護弁財天(東京都八王子市)
- 桃厳寺裸弁才天(愛知県名古屋市)
- 恩林寺(群馬県邑楽町)
- 永安寺(石川県金沢市)
- 妙圓寺岩屋霊穴土屋銭洗い弁天(神奈川県平塚市)
- 寿昌院松本弁天(東京都江戸川区)
- 宝珠院開運出世弁才天(東京都港区)
- 冥應寺(大阪府茨木市)
- 如意寺(奈良県五條市)
- 江島神社(神奈川県藤沢市)
- 銭洗弁財天宇賀福神社(神奈川県鎌倉市)
- 清水弁才天社(長野県佐久市)
- 天河大弁財天社(奈良県吉野郡)
- 黄金山神社(宮城県石巻市)
- 六甲比命神社(兵庫県神戸市)
もしお近くにお住まいでしたら、弁財天にお参りに行かれるとご利益に恵まれて幸福な気持ちになれるのではないかと思います。
庶民に親しまれる弁天小僧菊之助 弁財天にちなんだお話しとして、弁天小僧菊之助の話をさせて頂きます。
「弁天小僧菊之助」という名前をご存じのかたが、いらっしゃるでしょうか。
最近は、時代劇があまり盛んではありませんので、「そう言えば、昔、両親から聞いたことがあるかもしれない」と言う方もいらっしゃるかもしれません。
古い話で恐縮しますが、昭和の時代に、美空ひばりさんや市川雷蔵さんが、映画で「弁天小僧菊之助」を演じています。歌謡曲も流行りました。確か三浦洸一さんという歌手の方でした。
弁天小僧は、もともと歌舞伎の演目のひとつに出てくる主人公です。
江戸時代、弁財天は、庶民の人気者でした。その弁財天の人気にあやかって、歌舞伎のお芝居が作られました。
「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)というお芝居が、文久2年(1862年)の3月に、江戸の市村座で初演が行われました。
歌舞伎では、「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)という演目の中に、弁天小僧が出てきます。「白波五人男」(しらなみごにんおとこ)というと分かりやすいかもしれません。「白波」というのは盗賊の意味です。
歌舞伎のお芝居には、長い題名が多いのですが、この「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)の題名の意味は、青砥(あおと)にちなんだ原稿の絢爛豪華なお芝居と言う意味になります。
青砥(あおと)というのは、鎌倉時代の名裁判官として有名な青砥藤綱(あおとふじつな)の事です。江戸時代には、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)がいましたが、ご政道の批判となることを避けるために、時代設定を鎌倉時代としたようです。
この弁天小僧菊之助の役は、代々、音羽屋(おとわや)のお家芸でもあります。そのため、弁天小僧のセリフの中では、「ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた祖父さん(じいさん)の」という言葉が聞かれます。
ついでながら、歌舞伎の世襲について、少しお話しさせて頂きます。
歌舞伎役者の屋号 歌舞伎役者には、親から子へと代々、芸が引き継がれ、それぞれ屋号を持っています。尾上菊五郎や菊之助は、「音羽屋」(おとわや)という屋号を持っています。
「音羽屋」は、京都の芝居茶屋の出方(でかた)であった「音羽屋半平」(おとわやはんぺい)の子で、屋号は「清水寺」に由来すると言われています。出方とは、コンシェルジュのような仕事です。
代表的な俳優名で言えば、尾上菊五郎(おのえきくごろう)、尾上菊之助(おのえきくのすけ)、尾上丑之助(おのえうしのすけ)、尾上梅幸(おのえばいこう)などです。
歌舞伎のことは知らないけれど、マスコミの世界でよく噂になっている市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)というと、「それなら知っている」と、皆様にも親近感があるかもしれません。
市川團十郎の屋号は、「成田屋」(なりたや)です。これは、初代の市川團十郎が成田山新勝寺の信仰に厚かったからという由来があります。
その他にも、成駒屋(なりこまや)、中村屋(なかむらや)、播磨屋(はりまや)、萬屋(よろずや)など、たくさんの屋号がありますので、もしご贔屓の役者さんがいましたら、調べてみると面白いと思います。
さて、セリフの中の「祖父さん」とは、現在においては、六代目尾上菊五郎のことです。現在の七代目の尾上菊五郎は、六代目の孫にあたりますので、弁天小僧を演じる場合は、「祖父さんの」というセリフが言えるわけです。
歌舞伎は舞台と大向こうからの掛け声の間が大切 余談ですが、歌舞伎には特有の決まりごとのようなものがあります。そのひとつに、役者が演技の中で、「見得(みえ)をきる場面」があります。
その芝居の一番の見せ所でもありますが、そこで、観客席の方から、「音羽屋!」(おとわや)という声がかかります。この声をかける人を「大向う」(おおむこう)と言いますが、役者が見得をきるところで、ピッタリと意気が合うというか、芝居を盛り上げてくれます。
大向こうの掛け声は専門職? 私が初めて歌舞伎を見に行った時に、まだ高校生でしたので、お金もありません。東京の銀座の歌舞伎座の窓口で、3階席のチケットを買いました。
カチカチに緊張しながら見ていると、私の座席の近くの後ろに、粋な着物姿に羽織を着て、きちっと角帯を締め、白足袋に雪駄を履いた中年の男の人が立っていました。
座席に座っていないので、いったい何をしているのかと思いましたが、菊之助さんが、見得をきると、舞台に向かって、「音羽屋!」と声をかけました。
初めて見るお芝居、そして、掛け声に圧倒されてしまいました。
面白いのは、声をかけると、その男の人は、さっさと帰ってしまいました。後でわかったことですが、声をかける人は専門的にいらっしゃるということで、歌舞伎座の方で特別に頼んでいるということらしいのです。それなので、声をかけると帰ってしまうということでした。
どんどん歌舞伎の魅力に引き込まれた私は、その頃、発行されていた「演劇界」という雑誌を毎月買っては、歌舞伎の研究をしました。
神田神保町にある小さな出版社でしたが、毎月、人気の歌舞伎俳優の写真と舞台の詳しい記事がふんだんに書かれていて、思わず引き込まれ、翌月の出版が待ち遠しいという思いで楽しみにしていました。
私は小遣いを貯めて歌舞伎座に通いましたが、たまに地方から団体客が押し寄せて来ることがありました。その中に、大きな声で「オトワヤー」と掛け声をかける人がいました。みごとにタイミングをはずしているので、思わず失笑してしまいましたが、役者の偉いところは、そういうお客であっても、そちらの方に向かって、感謝のまなざしで、軽く会釈をする余裕があるのです。
歌舞伎とは古典芸能ですが、観客と一体となって楽しむというところがあります。そういう役者の度量と言うものにも魅力を感じて、ファンになって、50数年、足腰が弱って、今は歌舞伎座に通うこともできません。
本当に、あっと言う間に時は経ち、たまたまテレビの番組で、七代目のお孫さんが初舞台を踏むという映像を見ましたが、自分の孫の初舞台を見るようで、嬉しさと緊張感を覚えました。
またもや脱線してしまいましたが、弁天小僧のお芝居のお話しに戻りましょう。
正体がバレて名セリフ「知らざあ言って聞かせやしょう」
浜松屋の場
あらすじは、鎌倉の呉服店「浜松屋」の店先から始まります。「浜松屋」に、お供の若い武士を連れて、買い物に来た武家の娘が、入ってきます。
娘は、万引きの疑いをかけられ、番頭たちによって、算盤で額を打たれてケガをしてしまいます。しかし、娘は、万引きなどはしていませんでした。
疑いが晴れると若い武士が、「大事なお嬢様に傷がついてしまった、これは責任重大、切腹する」と言い出しました。
しかも店の者も道ずれにすると言うではありませんか、店は大騒ぎとなり、店主は示談金として100両のお金をまきあげられそうになりました。
しかし、店の奥から、「待った」の声がかかりました。奥から出てきたのが、玉島逸当(たましまいっとう)という侍でした。そして、娘が男であることを見破りました。侍が言うには、娘の腕に桜の彫り物が見えたというのです。
見破られた弁天小僧は、開き直り、「知らざあ、言ってきかせやしょう」という名セリフが出てきます。
「知らざあ、言って聞かせやしょう
浜の真砂(まさご)と五右衛門が、歌に残せし盗人(ぬすっと)の
種は尽きねえ、七里ガ浜、
その白波の夜働き
以前を言やあ江の島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕さがしも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局(つつもたせ)
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たあ、俺がことだあ」
このセリフの大意を要約すると、
知らないのであれば、教えてあげましょう。
石川五右衛門が辞世の句に残したように、
泥棒はなくなりませんよ。
私の泥棒歴を言えば、
江の島の弁天様で、稚児をしていました。
賽銭をくすねて、賭け事に走り、
だんだんと金額が大きくなりました。
岩本院に詣でる信者が泊る宿から財布を盗むのも度重なり、
有名な泥棒となり、とうとう江の島を追い出されてしまいました。
それからは、私は女に化けて、若い男から金をだまし取りました。
尾上菊五郎の声色で、ゆすりやたかりをやりましたよ。
その名も、役者の菊之助の名にあやかり、
弁天小僧菊之助というのは、俺のことなんですよ。
というようなものになると思います。誤訳があれば、申し訳ありません。
このセリフの醍醐味は、石川五右衛門の辞世の句である「石川や浜の真砂(まさご)は尽くるとも世に盗人の種は尽くまじ」を踏まえて、七里が浜の砂のように、盗人はいなくなることはないという威勢の良い啖呵に始まります。
また、セリフの各所に鎌倉の地名を散りばめて、弁天小僧の略歴を述べていくセリフの見事さに感心させられます。
「ここやかしこの寺島で小耳に聞いた爺さん」というのが、現在は六代目の尾上菊五郎さんの事です。
本名は寺島幸三さんです。ちゃんと本名まで、セリフに織り込まれているところが凄いですね。
実際に、私も学生時代に、歌舞伎座に行き、今の七代目尾上菊五郎さんが、菊之助時代に弁天小僧を演じていたのを舞台で見ましたが、「なんと綺麗な役者さんなんだろう」と思いました。今世紀に、こんな美しい舞台は見ることができないだろうと思ったほどです。
その菊之助さんが、さらに美人の藤純子さんと結婚し、またもや美男子の菊之助さんが生まれ、美しさを倍増させた舞台を見せてくれるのではないかと期待しています。
さて、浜松屋でのこの事件、それもこれも全て最初から仕組まれた詐欺でした。娘は、弁天小僧であり、若い武士は、南郷力丸(なんごうりきまる)であり、奥から出てきた侍は、白波五人男のボスの日本駄衛門(にっぽんだえもん)であったのです。
稲生川勢揃いの場
話が長くなってしまったので、大詰めの白波五人男の紹介をさせて頂きます。
舞台は変わり、「稲生川勢揃いの場」(いなせがわせいぞろいのば)に5人の盗賊がそろいます。
最初に、盗賊の首領である日本駄右衛門、「盗みはすれども非道はせず」というのが彼の信条です。実際のモデルは、日本左衛門(にっぽんざえもん)という盗賊です。本名は、浜島庄兵衛と言います。
続いて、南郷力丸、この人も実在のモデルがいます。やはり盗賊の南宮行力丸(なんぐうこうりきまる)という人です。
続いて、赤星十三郎、この人も実在した人がモデルとなっています。江戸時代初期の鳥取藩の武士で、美少年の辻斬り強盗、平井権八(ひらいごんぱち)がモデルになっています。歌舞伎の演目では、通称「鈴ヶ森」(すずがもり)で、白井権八として登場します。
続いて、忠信利平、この人も、実際に存在した忠信利兵衛をモデルにしています。歌舞伎の演目で「義経千本桜」(よしつねせんぼんざくら)に登場する源義経に忠実な佐藤忠信に似たキャラクターを加えています。
最後に、弁天小僧菊之助、この人物は、作者の河竹黙阿弥が造り出した人物です。その逸話として、黙阿弥が両国橋で見かけた美青年の話を浮世絵師の三代目歌川豊国にしたところ、それを描いた豊国の錦絵から、黙阿弥が着想を得て、劇化したという話が残っています。
弁天小僧菊之助は、美少年であることを利用して、娘に変装して詐欺を働くという設定です。歌舞伎には女形があり、女装することは朝飯前ですが、それが、アッと言う間に男に戻る所が見せ場です。
ですから、弁天小僧菊之助を演じる役者さんは、女形もできるし、男役もできる人でないと演じることができないのです。
同じ舞台を何回見ても飽きないのが、歌舞伎の魅力です。映画では味わえない醍醐味を楽しむことに、今年はチャレンジしてみては如何でしょうか。
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豊臣家と徳川家を支えた千姫の悲劇の生涯
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「美しさと金運が倍増する弁財天」のお話しは如何でしたでしょうか。
昨年は、いろいろな出来事があり、必ずしも幸せな年とは言えなかったかもしれませんが、今年は気持ちを入れ替えて、新しい気持ちでスタートすることが大切です。弁財天にお参りして、気持ちの入れ替えのきっかけをつかんで頂ければ幸いです。もちろん、弁財天だけではなく、他の神様でも、まったく問題はございません。
人生には、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
初めて鑑定して頂きましたが、とても温かく穏やかな先生でした。
復縁について視て頂きましたが、詳しく丁寧に教えて下さり、またこれからの流れを具体的に教えて頂きました。
そんなことまで視えていらっしゃるのかと驚きました。復縁は諦めようかと思っていましたが、諦める必要は全く無いと言って頂き、頑張る勇気を頂きました。
また視ていただきたいです。本当に有難うございました。