豊臣家と徳川家を支えた千姫の悲劇の生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年12月5日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、「豊臣家と徳川家を支えた千姫の悲劇の生涯」のお話しです。
千姫は、大河ドラマでも、登場する有名な女性ですので、ご存じのかたも多いと思います。
戦国時代は、武家の名門に生まれた女性たちが、悲劇の運命をたどりました。千姫も徳川家に生まれ、滅びゆく豊臣家に嫁ぎ、悲劇の終末を迎え、助命嘆願もむなしく、多くの愛する人たちが亡くなっていきました。
再度、愛する人に出会いますが、その幸せも短く儚い夢のような人生となり、彼女の心の中には、運命の別れの寂しさが残り続けました。
今回は、そのような千姫の不運な生涯をスピリチュアル的にお伝えしたいと思います。
祖母そして母の宿命を背負った千姫のおいたち
戦国時代、武家に生まれた女性は、政略結婚の宿命からは逃れられませんでした。婚姻関係で親族となった場合でも、結束が破られることもしばしばありました。
千姫の場合、彼女の祖母のお市の方、そして母親のお江の方も、政略結婚の犠牲となりました。3代に渡り、政略結婚のために、自らの意思は無視され、運命に逆らうことはできませんでした。
千姫は、名門の徳川家に生まれながらも、政略結婚のために豊臣家に嫁ぎました。しかし、千姫の幸せは、徳川幕府の政権樹立のために、むなしく打ち砕かれてしまいました。
3代にわたる政略結婚の宿命
千姫の母親は、お江の方であり、その母親はお市の方です。
3代にわたって政略結婚の犠牲となりました。千姫の不運は、祖母の時代に遡って始まっていたと言っても良いでしょう。
お市の方と浅井長政の結婚
千姫の祖母は、お市の方です。永禄10年(1567年)、お市の方は、織田信長の妹として、浅井長政に嫁ぎました。
参考画像:浅井長政夫人(お市の方)の肖像画
しかし、天正元年(1573年)、織田と浅井の対立から、浅井家は滅ぼされ、お市の方は、3人の娘とともに城外に逃れ、織田家の保護下に置かれました。
本能寺の変後、お市の方は柴田勝家と結婚
ところが、天正10年(1582年)、織田信長も本能寺の変で、明智光秀の謀反にあい、殺されてしまいました。
その機会をすばやくとらえた羽柴秀吉は、一躍、天下人として、のし上がりました。
天下を取った羽柴秀吉は、清須会議を経て、お市の方を柴田勝家のもとへ嫁がせました。3人の娘もいっしょに越前の国に移りました。
しかし、織田家の重鎮であった柴田勝家は、秀吉のことを「成り上がり者」とし、織田家の古参としての権威がありました。羽柴秀吉とは、全く気が合わず、両者の対立は深まるばかりでした。
参考画像:「太平記英勇伝十三:柴田修理進勝家」 1867年
天正11年(1583年)、賤ケ岳の戦いで、勝家と秀吉は激突しました。その結果、柴田勝家は敗北し、終に北の庄城で討ち死にしました。
お市の方も、柴田勝家とともに自害して亡くなってしまいました。
秀吉の意のままに操られる3人の娘たちの運命
お市の方は、3人の幼い娘たちを殺すことは哀れと思い、城外に逃がすことにしました。娘たちは、秀吉の保護下に入りました。
この時、茶々は14歳、お初は13歳、お江は10歳でした。
天正12年(1584年)、3女のお江は、佐治一成と結婚することになりました。お江は、幼い少女でしたが、秀吉により、見知らぬ武家への嫁入りが決められてしまいました。
天正15年(1587年)、次女のお初は、14歳となり、京極高次へ嫁ぎました。続いて次女のお初も嫁入りが決まりました。
天正16年(1588年)、長女の茶々は、15歳となり、秀吉の側室となりました。
茶々に対する特別の秀吉の思い
こうしてみると、茶々が一番遅い結婚になりました。
茶々は、秀吉に「自分の事はともかくとして、幼い妹たちの事を先に決めてほしい」と願い出たと言われています。
長女として、妹たちを守らなければならないという強い意識が感じられます。お市の方譲りの美貌に加え、織田家と浅井家のプライドが彼女を支えていたのではないでしょうか。
茶々は、秀吉に対しても、恐れることなく、自分の意見を言う意志の強さがあり、秀吉の意のままになることを拒否するような雰囲気さえ感じさせます。
そのため、茶々は、最後に、秀吉の側室になったとされています。
参考画像:伝・淀殿像(部分)
茶々が秀吉の側室になった理由については、いくつかの説があります。
一つの説は、秀吉が茶々の母、お市の方に憧れていて、一番面影の似通った茶々を何としても手に入れたかったというものです。
また、茶々が大柄であったため、秀吉が体格の良い子どもを授かることを望んでいたという説もあります。
しかし、これらはあくまで推測であり、茶々自身が側室になることを拒否していたかどうかについては明確な記録は残っていません。
また、茶々が側室になったのが1588年頃とされていますが、その前に妹たちが嫁いでいたという事実から、「秀吉が茶々を手に入れるためにわざと妹たちを先に結婚させ、彼女に婚期が遅れたことで、焦らせた」という説が生まれたようです。
茶々が側室になった具体的な理由や経緯については、現在でもはっきりとは解明されていませんが、秀吉にとっては、茶々に対する特別な思いもあって、最後まで他家には嫁がせず、自身の側室にしたいという思いが強かったと思えます。
秀吉の世継ぎの問題
千姫の話を進める前に、秀吉の世継ぎの問題に、少し触れておきたいと思います。
豊臣秀吉には、側室が、10人以上いましたが、子どもにめぐまれませんでした。天正16年(1588年)、茶々は秀吉の側室となりました。
関白職を甥の秀次に譲り豊臣政権の形を整えた
天正17年(1589年)、茶々に最初の男子の鶴松が生まれました。
秀吉はこの懐妊を喜び、山城淀城を与えました。以後、茶々は、淀殿と呼ばれるようになりました。
ところが、天正19年(1591年)、鶴松は病となり、半年後、鶴松は亡くなってしまいました。
天正19年(1591年)、秀吉は、甥の秀次に関白職を譲りました。これにより、豊臣家は政権の永続性を世間に示そうとしました。
それから2年後の文禄2年(1593年)、8月3日に、淀殿は、秀頼を産みました。
秀頼の誕生で、甥の秀次が邪魔な存在となる
秀吉は、実子をあきらめかけていたのですが、幸運にも、秀頼と言う世継ぎが生まれたのです。秀吉は、言葉に表せないほどの喜びで、飛びはねたいほどの気持ちであったかもしれません。
参考画像:豊臣秀頼 (とよとみ ひでより)。豊臣秀吉の子。
最初の子どもの鶴松を失った後でしたので、何とかして、この秀頼を自分の後継者としたいと思うのは不思議ではありません。
しかし、秀吉は、その2年前の天正19年(1591年)に、秀吉は、甥の秀次に関白職を譲っていました。秀吉は、内心、「しまった、もう少し待てばよかった」と、後悔したことでしょう。
関白職を甥に譲ってしまったことは、自分にしては早計であったと思わざると得なかったのではないでしょうか。
しかし、秀頼が生まれた問題は、秀吉の甥の秀次にとって、重大な問題となりました。秀次は、自分の地位が奪われるのではないかと、不安な気持ちでいっぱいになっていきました。
秀次の謀反説
文禄4年(1595年)、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がりました。しかし、この謀反の疑いは、本人の気持ちとは全くかけ離れた冤罪と言っても過言ではないものだったのです。
しかし、「秀吉からの疑いを受け、殺されるかもしれない」という秀次の不安は、現実のものとなってしまいました。秀次は、秀吉に対し誓紙を出して、懸命に疑いを晴らそうとしました。
参考画像:豊臣秀次像(部分)
また、伏見城に呼び出し命令が下ったので、それに応じて伏見城にすぐに出向きましたが、何故か登城が認められませんでした。
その代わり、高野山に行き、出家するように命令されたのでした。
秀次は、素直にその命令に従い、高野山に向かいました。同時に秀次の家族は捕らえられ、監禁されてしまいました。その後、秀次に切腹の命令が下されました。
秀次は、高野山で自害して果てました。享年28歳でした。
これが、関白秀次の切腹事件です。この事件も、真相が謎となっており、いろいろな説があります。
その一つの説として、当初、秀次は、自発的に高野山に出奔し、出家するつもりであったとするものです。秀次は、出家だけでは、無実を晴らすことができないと思い込み、切腹をしてしまったとされています。
その事実を覆い隠すように、豊臣家の重臣たちが、秀次謀反の筋書きを作り、彼と彼の一族を葬り去ったという説もあります。
また、もっとストレートに秀吉の命令で、文禄4年(1595年)、7月、秀吉は秀次の関白職を奪い、秀次を追放し自害させたという説もあります。
秀次の一族の惨殺
同時に、秀次の家族や親族も処刑とされました。その中には、幼い子どももいました。あまりにも、残虐な処刑の光景だったので、観衆は、刑をやめるように騒ぎましたが、止めることはできませんでした。
どうして、秀吉が、このような残虐な命令を出したのか、いろいろな説があり、真相は謎となっています。
この秀次の事件には、石田三成が中心となり、それに賛同した5奉行が、秀次と一族の抹殺を実行したという説もあります。
あるいは、淀殿が、秀頼が次の後継者となることを強く望んだなど、様々な説があり、どれも確かな説というものはありません。
いずれの説にしても、この事件の結果として、秀頼が秀吉の後継者として確定しました。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「豊臣家と徳川家を支えた千姫の悲劇の生涯」のお話しは如何でしたでしょうか。
徳川家の娘として生まれ、豊臣家に嫁ぎ、両家の架け橋となろうとしましたが、その思いは打ち砕かれてしまいました。
千姫の精神的な打撃は大きなものであったことは、間違いありませんが、当時の女性にしては、気持ちの切り替えの早い女性であったようにも思います。
豊臣秀頼を失い、本多忠刻も早く亡くなってしまい、寂しい思いをしたであろうと思いますが、その後の江戸城での生き方を見ると、苦難の人生ではありましたが、たくましい女性であったようにも思えます。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
初めて鑑定して頂きましたが、とても温かく穏やかな先生でした。
復縁について視て頂きましたが、詳しく丁寧に教えて下さり、またこれからの流れを具体的に教えて頂きました。
そんなことまで視えていらっしゃるのかと驚きました。復縁は諦めようかと思っていましたが、諦める必要は全く無いと言って頂き、頑張る勇気を頂きました。
また視ていただきたいです。本当に有難うございました。