豊臣家と徳川家を支えた千姫の悲劇の生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年12月5日
さて、3女のお江の話に戻ります。
お江は千姫の母親となる女性ですが、政略結婚を繰り返しました。
政略結婚に利用される流転のお江の人生
前項でも述べましたが、3女のお江は、天正12年頃、(1584年)、秀吉の意向により、最初、佐治一成と結婚させられました。(11歳頃)
参考画像:崇源院像(部分)
しかし、佐治一成が、天正12年(1584年)、小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いにおいて、家康に内通したといわれ、追放となりました。
そのため、お江と佐治一成との関係は、秀吉によって、離縁させられました。
お江の豊臣秀勝との結婚と死別
天正14年(1586年)、秀吉は、朝廷から豊臣姓を賜りました。太政大臣に就任し、ここに強大な豊臣政権が確立しました。
秀吉は、お江に対し、次の結婚の相手として、豊臣秀勝を選びました。
天正14年(1586年)頃、お江は豊臣秀勝と結婚しました。お江は、秀勝との間に、娘の完子(さだこ)を授かりました。
しかし、文禄元年(1592年)、秀勝は戦地の朝鮮で、病死してしまいました。享年、24歳でした。
お江の徳川秀忠との結婚
お江は再び秀吉の養女となり、秀吉は、お江に対し、次の相手として、徳川秀忠との婚姻をすすめました。
その背景には、家康の軍事力に、秀吉は、脅威を感じたからでした。
秀吉は、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで、和睦したものの、実質的には家康側の勝利に終わりました。
参考画像:徳川家康肖像画
そこで、秀吉は、力による支配ではなく、婚姻関係を結ぶことによって、徳川家を懐柔する政策をとりました。
文禄4年(1595年)、お江は、22歳となり、徳川秀忠と結婚しました。その時、お江は、娘の完子を連れていきたいと言いました。しかし、それは秀吉が許しませんでした。完子は、茶々の養女として育てられることになりました。
お江は、秀忠よりも6歳年上でした。政略結婚ではありましたが、夫婦仲は良かったと言われています。秀忠の生まれは、天正7年(1579年)4月7日です。秀忠は16歳でした。
ちなみに秀忠の「秀」の字は、秀吉から「秀」の字を使えるように、授けられたものです。秀吉は、家康に対しては、他の大名とは違い、特別扱いをしていました。
お江は徳川家に嫁ぐことで、ようやく、安定した人生を送ることができるようになりました。
千姫の誕生
それから2年後の慶長2年(1597年)に、千姫が生まれました。 その後、家光、忠長、和子など、全部で2男5女を儲けました。
参考画像:『魁題百撰相 秀頼公北之方』
慶長2年(1597年)、4月11日、千姫は、山城国の伏見城の徳川屋敷で生まれました。
家康は、千姫が生まれたことを大変喜びました。だれでも、自分の孫は可愛いものですが、長年、家康は、辛い家族関係の中で、暮らしてきたので、ようやく、落ち着けるようになったのでした。徳川家にとって嬉しい孫の誕生でした。
一方、秀吉も我が子が可愛いという感覚は同じです。しかも大事な後継者の秀頼のために、なんとか無事に豊臣政権が持続するように、焦るような気持ちで、策略をめぐらせていました。
秀吉の、政策のひとつに、文禄5年(1596年)、5月、秀吉は、5大老、5奉行を定め、秀頼を補佐する体制を整えました。
慶長3年(1598年)、秀吉は病にかかり、病状は悪化していきました。
参考画像:重要文化財《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。
秀吉は、5大老、5奉行に対し、遺言書を作りました。その後、いよいよ自分の死が近いと悟った秀吉は、家康を呼び寄せました。
そして、秀頼の後見人となることを依頼しました。
秀吉は、息子の秀頼のために、最後の使命に闘志を燃やし、残り少ない命と戦っていました。
秀吉は、なんとかして、秀頼を守りたいと思っていました。
そのためには、どうしても、徳川家との結びつきを強化しなければなりませんでした。
秀吉の遺言、秀頼と千姫との結婚
秀吉は、遺言に、秀頼と千姫を結婚させることを、家康に言い遺しました。
秀頼と千姫の結婚により、豊臣家と徳川家は同盟関係となります。秀吉の願いは、この結婚により、千姫と秀頼の間に男子が生まれれば、豊臣家と徳川家の血を継ぐ者が天下を治めることになるだろうという思惑でした。
しかし、家康の心情を思えば、可愛い孫娘を、豊臣に人質として出すことは、できればしたくない、そう思ったかもしれません。
そして、慶長3年(1598年)、とうとう秀吉はなくなりました。
秀吉の死後、家康は実質的に天下の覇者に
秀吉の死後、政治体制は、秀頼を補佐として五大老、五奉行によって支えられました。
しかし、家康は秀吉の遺言を無視し、次第に大きな力を持つようになりました。禁止されていた大名同士の結婚や領地の取引など、家康は独断で決定しました。
石田三成との対立
このような家康の独断に対して、五奉行との対立は、ますます激化しました。特に石田三成は、家康と鋭く対立するようになりました。
参考画像:Ishida Mitsunari
豊臣家の内部でも、石田三成を中心とする「文治派」と、武力を中心とする「武断派」に別れて対立しました。
家康は、五大老の切り崩しをはかりました。最初に、前田利家に対し行いました。
次に、上杉景勝に対し、謀反の疑いがあるとして、大阪城に上洛し、申し開きをするように求めました。
上杉景勝は、家康の要求を拒否しました。
参考画像:上杉景勝像(米沢市上杉博物館)
家康は、討伐軍を会津に向けました。これに対し石田三成も徳川家康を打倒するために兵を挙げました。
会津に向かっていた家康は、行軍を一時停止し、会議を開きました。この会議を、小山評定(おやまひょうじょう)と言います。
関ヶ原の戦い後、秀頼は千姫と結婚
この会議の結果、家康は石田軍と戦うことを決定しました。両軍は、関ヶ原で戦うことになりました。
石田三成は、西軍の総大将に、秀頼が出馬することを淀の方に願いましたが、断られてしまいました。
淀の方は、関ヶ原の戦いで、西軍が敗れた時に、秀頼が総大将であれば、切腹させられてしまうことを防ぎたかったと考えたと言われています。
結果として、関ヶ原の戦いは、臣下どうしの戦いということになりました。
戦いの実質の意味は、豊臣家と徳川家の戦いなのですが、淀の方は、「どうしても秀頼を守りたかった」という強い思いがありました。そこで、秀頼には戦いに参加させませんでした。
一方、関ヶ原の戦いの時には、千姫は4歳でした。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康の率いる東軍の勝利となりました。徳川家康は、事実上天下を取りました。
千姫と秀頼の結婚
慶長8年(1603年)7月、千姫は7歳で大阪城に入り、11歳の秀頼と結婚しました。
秀頼と千姫との結婚は、秀吉の遺言にもありましたが、家康が、その遺言に素直に従ったとは思えません。
秀吉は、豊臣家のことを思い、豊臣家のために、徳川家から千姫を嫁入りさせることで、融和をはかりたいと思っていたのです。
しかし、徳川家康は、豊臣家が、これ以上、徳川家に反抗することを望みませんでした。しかも、もっと過酷な意味となるかもしれませんが、豊臣家が家康の命令に従うことを望んでいました。
なぜなら、豊臣家が既に求心力を失い、他の有力な武家が豊臣家に追随することはないという状況にあったからです。豊臣家を支えた有力な大名の毛利家も、島津家や上杉家も徳川家に帰順し、豊臣家は徳川家に対抗する力を失っていました。
仲睦まじい夫婦となった千姫と秀頼
千姫は、祖母のお市のかたの血を受けついで美しい女性へと成長しました。秀頼も、大阪城において、ゆったりとした環境の中で淀殿が育てたので、勇猛果敢な武士と言うよりは、公家に近いような育ちの良い男子に育て上げていました。
そのような育ちの良い秀頼は、千姫を見て可愛いと思ったのではないでしょうか。争いごとのない秀頼にしてみれば、徳川家との対立から、千姫を憎むことなど、考えてもいなかったと思えます。
記録的にも、千姫と秀頼とは夫婦仲が良かったそうです。千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式を千姫にしていたのを侍女が見ていたという記録があります。
家康の示威活動が淀殿の危機感をあおる
慶長10年(1605年)、正月に家康は大軍をつれて上洛しました。
目的は、息子の秀忠に将軍職を譲るためでした。2月、家康は、伏見城に入りました。3月、秀忠が伏見城に入りました。4月、家康は将軍職を秀忠に譲りました。
征夷大将軍の世襲制を世に示し、家康は、天下に徳川幕府の存在を強調しました。5月、家康は、秀頼に対して臣下の礼を取るように要求しました。 しかし、淀殿は激怒し、断りました。
その後、家康は二条城にて秀頼との会見を行いました。家康は大阪にいる武将や他の武将から、誓紙を取って、徳川家に背かない誓をたてさせました。
その後1611年、後水尾天皇の即位に際して、家康は上洛しました。
その際、二条城で秀頼との会見を要請しました。この時は、加藤清正や浅野幸長らの豊臣恩顧の大名のとりなしで会見が実現しました。
しかし、豊臣家では、徳川家に対する危機感から、兵糧や武器の調達、浪人を集めることなど、戦争の準備を始めていました。
その後、豊臣家を支えてきた浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、前田利長が相次いで亡くなってしまいました。
豊臣家は次第に孤立していく中で、徳川家に対する危機感を強めていきました。淀殿や豊臣家の重臣たちは、徳川家との決戦を覚悟し、兵糧や浪人を集めて大阪城を固めていきました。
大阪冬の陣
慶長19年(1614年)10月、家康は駿府を出発しました。30万の大軍を率いて大阪城へ出陣しました。大阪冬の陣のために、家康は二条城に入りました。
11月、徳川軍は大阪城を30万の軍勢で包囲しました。
またイギリスやオランダから購入した大砲で、大阪城に砲弾を撃ち込みました。
本丸に打ち込んだ砲弾が、淀殿の侍女8人に命中し、死亡しました。
淀殿は、「大阪城は10年でも持ちこたえる」と言っていましたが、さすがに砲弾の威力がすさまじいことで、和議に応じる気持ちになりました。
和平後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻りましたが、兵器の増強は続いていました。家康は、豊臣家を滅ぼす覚悟をしていたのでしょう。
家康は、豊臣家の国替えを要求しました。しかし、大野治長の使者が来て、 豊臣家の国替えについて拒否してきました。
大阪夏の陣
元和元年(1615年)4月、家康は再び、駿府を出発し、秀忠も江戸を出発しました。そして、再び二条城に入りました。
家康は、大阪夏の陣のために、再び出陣しました。その後、秀忠も二条城に到着しました。この時、徳川方の軍勢は約15万5千人でした。
この時、大野治長が交渉にあたっていましたが、大阪城内で襲撃され、交渉が続けられなくなりました。
この時、豊臣方の軍勢は7万8千人と言われています。今回は籠城策を採らず、野戦での戦いとなりました。
各所で幕府軍と戦いが始まりましたが、豊臣軍は敗戦が続きました。その結果、豊臣軍は大阪城に撤退するほかはありませんでした。
堀を埋められた大阪城は、押し寄せる幕府軍になすすべがなく、城内には幕府軍が乱入し、混乱を極めました。そのうちに、城の大台所から火が出て、大阪城は、燃え上がりました。
千姫の脱出・助命嘆願もむなしく大阪城の落城
千姫は、大野治長から助命嘆願の依頼を受け、わずかな望みをかけて、千姫は侍女の松坂の局や堀内氏久らと徳川勢の陣に向かいました。
そこで、千姫は衣に描かれた「葵の紋」から自分が徳川家康の孫だと証明しました。
その後、千姫は家康や、父の秀忠に淀殿や秀頼の助命嘆願を行いましたが、聞き入れられませんでした。
元和元年(1615年)、大阪城が炎上する中、秀頼や淀殿は自刃しました。秀頼自害(享年23歳)
千姫は、燃え上がる大阪城を見ながら、淀殿と秀頼を救うことができなかった自分自身の力のなさを嘆きました。
こんなことなら、一緒に自害した方が、どれだけ救われただろうかと思いました。この日以来、千姫は体調を崩し床に臥せる日が続きました。
第2の人生、本田忠刻との結婚
千姫は、性格が温和であり、人情の篤い女性でした。秀頼と側室の間に、1609年に生まれた娘(後の天秀尼)が、大阪城の落城後に処刑されそうになった際に、体を張って助命嘆願をしたという記録があります。
天秀尼は、その後「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となりました。千姫自身も出家して豊臣家の菩提を弔うつもりでおりました。
本多忠刻との出会い
千姫は大阪から江戸に移送されることになりました。その時、移送の命を受けたのは、本多忠刻でした。
桑名の七里渡しからの船の中で、千姫は一目ぼれをしてしまったと言われています。本多忠刻は、それほど長身ではありませんでしたが、眉目秀麗の若武者であったと言われています。
彼は、武勇にも優れ、兵法者の宮本武蔵を迎えて師事したと言われています。また、宮本武蔵の養子の三木之助を小姓とし側近としました。
参考画像:江戸時代初期の剣豪。宮本武蔵の肖像画(自画像)
また、書物を読むのが大好きと言う点で、千姫とも気が合ったようです。彼は、千姫のためにたくさんの書物を集めたそうです。
千姫は、秀頼のことを忘れたわけではありませんでしたが、本多忠刻が千姫に対して、常に気を遣い、細かい事にもよく気が付き、道中の間、不自由のないように、手配をしている物腰や優しさに、男らしさを感じたからと言えるのではないでしょうか。
本多忠刻は、桑名藩主の本多忠政の嫡男で、千姫とは従兄でもありました。忠刻の母親は、松平信康の次女の熊姫(ゆうひめ)でしたので、千姫とは、近い親戚でもあり、信頼のできる間柄であり、仲睦まじい夫婦となりました。
千姫の思いを知った祖父の家康は、身内の反対を押し切って、忠刻との再婚を許しました。
その後、千姫は元和2年(1616年)9月26日に桑名城に到着し、本多忠刻と結婚しました。
この時、津和野藩主の坂崎直盛が、輿入れの行列を襲い、千姫を強奪する計画を立てていることが発覚しました。幸い、家臣によって、直盛は殺害され、自害したように見せかけましたが、幕府の取り調べを受けて、坂崎家は改易処分となりました。
1617年、本多家が播磨姫路に国替えになった時、千姫も姫路城に入り、播磨姫君と呼ばれました。
その時、幕府からは、化粧料10万石を与えられました。そのお金で、姫路城の西の丸を新築しました。家康が、千姫のことを大事に思っていたか、よくわかります。
1618年、長女の勝姫が生まれ、1619年には長男の幸千代が生まれました。しかし、1621年に、幸千代が3歳で他界し、1626年、夫の忠刻も病死しました。しかし、この忠刻の早すぎる死には、疑問が残されており、謀略により暗殺された可能性もあります。
姑の熊姫や母のお江の方が次々と他界したので、千姫は、勝姫とともに、本多家を去り、江戸城にもどりました。この時、千姫は30歳でした。
江戸城へ移り出家する
千姫は、江戸城に戻り、出家して天樹院となりました。出家後は、娘の勝姫とともに竹橋御殿で暮らしました。
1628年、娘の勝姫が、父の徳川秀忠の養女となり、池田光政に嫁ぐことになりました。その後、1632年、父の徳川秀忠が薨去(こうきょ・亡くなったこと)しました。
千姫は、勝姫に「天樹院書状」という手紙を送って娘のことを心配していました。幸いな事には、1639年、池田光正と勝姫の間に、嫡男の綱政が生まれました。
弟の家光とは、仲が良く、千姫のところに、よく訪ねて来たそうです。家光は、若いころ女性との関係を持たなかったので、後継者のことが心配でした。そこで、千姫は、側室の夏(後の順性院)との縁談を取り持ちました。
千姫は、弟・家光の側室・夏(後の順性院)とその子・綱重とも親しくなり、綱重を養子にしました。1644年、千姫は、弟の徳川家光の厄年除けのために、側室の夏と家光の三男である綱重を養子にすることで、大奥に対する大きな発言権を持つようになりました。
千姫は、大奥の最高顧問として権威を持ち、4代将軍・家綱の時代にも影響力を発揮しました。
千姫は、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建したり、越前松平家の婚姻に関して幕府に介入したりするなど、多くの事業に関わりました。1657年の明暦の大火で竹橋の屋敷が焼失したときには、叔父・頼宣の屋敷に一時寄留しました。
千姫は、1666年に江戸で死去しました。享年70歳でした。千姫の遺骨は、伝通院と天樹院弘経寺と知恩院に分骨されています。
「千姫の悲劇の生涯」は以上です。
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「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「豊臣家と徳川家を支えた千姫の悲劇の生涯」のお話しは如何でしたでしょうか。
徳川家の娘として生まれ、豊臣家に嫁ぎ、両家の架け橋となろうとしましたが、その思いは打ち砕かれてしまいました。
千姫の精神的な打撃は大きなものであったことは、間違いありませんが、当時の女性にしては、気持ちの切り替えの早い女性であったようにも思います。
豊臣秀頼を失い、本多忠刻も早く亡くなってしまい、寂しい思いをしたであろうと思いますが、その後の江戸城での生き方を見ると、苦難の人生ではありましたが、たくましい女性であったようにも思えます。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
初めて鑑定して頂きましたが、とても温かく穏やかな先生でした。
復縁について視て頂きましたが、詳しく丁寧に教えて下さり、またこれからの流れを具体的に教えて頂きました。
そんなことまで視えていらっしゃるのかと驚きました。復縁は諦めようかと思っていましたが、諦める必要は全く無いと言って頂き、頑張る勇気を頂きました。
また視ていただきたいです。本当に有難うございました。