源氏物語の澪標・蓬生・関屋・絵合・松風の笑訳
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2024年10月15日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、紫式部の「源氏物語」の中の「澪標」(みおつくし)、「蓬生」(よもぎう)、「関屋」(せきや)、「絵合」(えあわせ)、「松風」(まつかぜ)までの帖について、お話をしたいと思っております。
源氏は、朧月夜との密会が発覚し、自ら須磨に隠棲しました。都から離れ、寂しい思いに毎日をすごしていましたが、幸運にも朱雀帝から許しが出たので、明石から京都に帰ることになりました。
この背景には、亡くなった桐壺帝の活躍がありました。桐壺帝の霊は、源氏のことが心配で、明石の入道の夢に出たり、源氏の夢に現れたりしながら、源氏に須磨から退去させ、明石に行かせ、明石の入道の娘と結婚させました。
朱雀帝の母親の弘徽殿女御(こきでんのにょうご)は、源氏を許すことには反対しましたが、朱雀帝は、夢に現れた桐壺帝の命令には逆らえませんでした。
「澪標」(みおつくし)のあらすじ
源氏が京都に帰った翌年の2月に、朱雀帝は退位しました。朱雀帝は健康にすぐれず、考え込むタイプの人でしたので、桐壺帝が夢に現れたことを気にしていました。
真実を知らない朱雀帝は、須磨にいる源氏を気の毒に思っていました。そして、源氏を不幸にしていることが原因で、良くないことが起きるのだと信じていました。
朱雀帝の譲位にともなって、東宮であった冷泉帝(れいぜいてい)が即位しました。冷泉帝は、実は源氏の子どもです。冷泉帝は、自分が源氏の子どもであることを知りませんでした。
朱雀帝から冷泉帝に変わったことで、伊勢神宮に斎宮として勤めていた姫君も六条御息所といっしょに京都に帰ってきました。
参考画像:斎宮歴史博物館展示物 都を出る斎王 by やなじん33 is licensed under CC BY-SA 3.0
やがて六条御息所は病気となり、娘のことを源氏に託して亡くなってしまいました。源氏は斎宮の姫を自分の養女としました。源氏は、斎宮の姫を冷泉帝のそばに置きたいと思い、藤壺に相談しました。
源氏は、内大臣に昇進しました。葵の上の父親の左大臣は、摂政太政大臣に昇進しました。こうして、源氏をとりまく勢力は、勢いを盛り返しました。
源氏物語における「占い」の役割
源氏には、さらに喜び事が起きました。3月に明石の君(明石の入道の娘)が、姫君を産んだのです。
源氏は、以前、占いで、「子どもは3人持つことになるが、ひとりは帝となり、もうひとりは、皇后となり、あとひとりは、太政大臣になる」というお告げをもらったことを思い出しました。
源氏物語には、しばしば物語の伏線となる事柄として、「占い」が使用されています。それも高名な占い師による鑑定なのです。
当たる率は、100パーセントなので、読者はどのような展開でその事柄が実現するのか、興味津々です。
源氏は、「明石の姫君は、きっと皇后になる」と確信しました。源氏は、自分自身で、乳母(めのと)を選び、お祝いの品々を持たせて、明石に派遣しました。
しかし、そのことを知った紫の上は、自分には子どもが生まれなかったので、大変不安に思いました。
澪標(みおつくし)とは
澪標(みおつくし)とは、大きな河口で、船の航路を示す標識のことです。大きな河口は、海に広がっていますが、河口の付近は、堆積物が多く、座礁の原因となります。
水深の深いところを、澪(みお)と言い、浅瀬と澪の境に、標識を建てて、船の安全な運航を確保しました。
澪標(みおつくし)は、主に大阪の河口に多く作られ、その形は、明治24年(1891年)に、大阪市の市章ともなりました。
参考画像:Emblem of Osaka, Osaka
和歌の世界では、「身を尽くし」との掛詞で用いられます。平安時代に元良親王(もとよししんのう)が詠んだ句は有名です。
わびぬれば、今はたおなじ、難波なる、みをつくしても、逢はむとぞ思ふ
「小倉百人一首20番・元良親王の歌」より
この和歌の意味は、「ものごとが、行き詰って、悩み苦しんでいるけれども、世間に知れ渡ってしまったのだから、今となっては同じことなので、難波にある澪標ではないが、身をつくしても会おうと思う」という恋に生きる男性の決死の歌となっています。
元良親王は、陽成天皇の第一皇子でしたが、陽成天皇の譲位後に生まれたので、天皇になることができませんでした。本人は、自分の運命を不幸だと思っていたのかもしれません。
その分、不満のはけ口を求めて、恋愛の道に狂ってしまったようです。そのため、元良親王は、恋多き人として有名です。
色好みの風流人として知られ、「いみじき色好み」、「一夜めぐりの君」などと言われました。美しい女性には必ず手紙を送ることで有名でした。源氏物語の光源氏のモデルとも言われています。
この歌は、元良親王が、京極御息所(きょうごくのみやすどころ)に送った歌です。京極御息所とは、宇多院の女御の藤原褒子(ほうし)のことです。
元良親王は、宇多院の妃と恋愛事件を起こし、それが人々の噂にもなってしまいました。
愛し合っていた二人はその後、宇多院に知られてしまい、別れさせられたようです。
「蓬生」(よもぎう)のあらすじ
源氏が須磨で謹慎してしまったので、末摘花(すえつむはな)は、援助を失ってしまいました。
そのため、屋敷は荒れ放題となりました。そのような時、叔母が、九州の大宰府に行くことになりました。叔母の夫が、大宰府の受領となったからでした。叔母は、末摘花の生活の事を心配し、いっしょに大宰府に行こうと誘いました。
しかし、それは悪意の誘いでした。実は、昔、叔母は末摘花の一族から、あまり良くされていなかったことを恨んでいました。そこで、これを機会に、末摘花を自分の侍女にしようと思っていたのです。末摘花は、叔母の誘いを断りました。
叔母は、あきらめて大宰府に旅立ちました。末摘花の屋敷は、蓬(よもぎ)などが生えて、ますます荒れ放題となりました。それでも末摘花は、その屋敷に住み続けました。
翌年の四月になり、源氏は末摘花の屋敷の前を通り過ぎようとしました。その時、この屋敷は、末摘花の住んでいる屋敷ではないかと気づきました。
参考画像:Tosa Mitsunobu – A Waste of Weeds (Yomogiu), Illustration to Chapter 15 of the Tale of Genji (Genji monogatari) – 1985.352.15.A – Harvard Art Museums
源氏は、まだこの屋敷に末摘花はいるのかどうかと思い、訪ねてみました。すると、驚いたことに末摘花が生きていたのです。しかも、末摘花は心変わりもせずに、源氏を待っていました。源氏は、末摘花の気持ちに感動し、すぐに屋敷の修復をしました。
源氏物語から、作家名を思いついた帚木蓬生氏
作家の帚木蓬生氏は、源氏物語の「帚木」(ははきぎ)と「蓬生」(よもぎう)から採って、作家名としました。作家名としての読み方は、帚木・蓬生(ははきぎ・ほうせい)です。
1947年、福岡県生まれ。本名は、森山成彬(もりやま・なりあきら)。東京大学文学部仏文科を卒業後、TBSに入社し、2年後、退社し、九州大学医学部に入学、1978年に卒業し、精神科医となりました。
作家としては、1993年、「三たびの海峡」で、吉川英治文学新人賞を受賞し、1995年に、「閉鎖病棟」で、山本周五郎賞、1997年、「逃亡」で、柴田錬三郎賞、2010年、「水神」で新田次郎文学賞、2013年「日御子」で歴史時代作家クラブ賞作品賞、2018年には、「守教」で、吉川英治文学賞など、多数の受賞作品があります。
帚木蓬生氏も、「源氏物語」を執筆しています。作品の構成は、紫式部の生涯を本編として、「源氏物語」のパートが挿入されているという形になっています。
「源氏物語」の現代語訳を読もうとして挫折した人も、読み進めることができるという作品です。作品名は、「香子紫式部物語」、(一巻から五巻まで)。
ご興味のある方は、是非ご一読なさってはいかがでしょうか。
「関屋」(せきや)のあらすじ
話は、桐壺帝がなくなった翌年にさかのぼりますが、空蝉(うつせみ)が夫の伊予介(いよのすけ)に伴って、任地の常陸(現在の茨城県)に向かいました。
その常陸の国で、空蝉は風の便りに、源氏が須磨で謹慎しているのを聞きました。
源氏が帰京した翌年、常陸介(ひたちのすけ)は、任期を終えて、空蝉と一緒に帰京しました。その途中、逢坂の関(おうさかのせき)を通り過ぎようとした時に、源氏の一行と遭遇しました。
源氏は、現在の滋賀県にある石山寺(いしやまでら)に参詣のために向かっていました。
参考画像:Pagoda of Ishiyama-dera Buddhist temple (Japan’s national treasure), in Otsu, Shiga prefecture, Japan by 663highland is licensed under CC BY 2.5
空蝉一行は、路肩に牛車を寄せて、源氏の一行を通しました。源氏は、通り過ぎる時に、牛車に乗っている女性が空蝉であることに気づきました。
源氏は、空蝉の弟、昔の小君、現在は衛門佐(えもんのすけ)となった者を探し出し、伝言を託しました。
源氏は石山寺の参詣が終わると、空蝉に恋文を出しました。
その後、常陸佐が亡くなると、常陸佐の息子の河内守(かわちのかみ)が、空蝉に言い寄ってきました。空蝉は、自らの運命を嘆いて、出家してしまいました。
逢坂の関とは、どのあたりの場所か
「逢坂の関」を境にして、多くの人々が、すれ違っては別れていく様を象徴的に表している「逢坂の関」ですが、実際どのあたりにあったかということは明確ではありません。
多くの学者の見解では、滋賀県大津市と京都府の境にある「逢坂山」(おうさかやま)の街道にあったとされています。
「逢坂の関」は、646年(大化2年)、山城国(やましろのくに)と近江国(おうみのくに)の国境に設置された関所と言われています。795年(延暦14年)に、一旦、廃止されましたが、その後、再設置されました。
「逢坂の関」は、平安京と東国方面をつなぐ街道にあります。東海道、東山道、北陸道の街道が集中する交通の要所でした。
平安時代の盲目の歌人であった「蝉丸」(せみまる)は、「逢坂の関」の歌を「後撰和歌集」に遺しました。
参考画像:A portrait of Semimaru; illustration from an uta-garuta playing card for Hyakunin Isshu, created in the Edo period.
これやこの、行くも帰るもわかれつつ、知るも知らぬも、逢坂の関
「百人一首 蝉丸(後撰集 雑一・1089番)」より
この歌の意味は、「これが、旅に出る人と帰ってくる人が、お互いに別れては、ここで会うという逢坂の関なのだな」というような意味です。この歌は、小倉百人一首にも入っているので、ご存じの方も多いと思います。
空蝉との再会の場所に「逢坂の関」を選んだ理由
源氏は、空蝉と出会った「帚木」の帖では、強引に源氏が、空蝉にせまり、契りを結んでしまいました。
空蝉は、恋心を抑えて、源氏を拒み続け、夫とともに常陸の国へ旅立っていきました。その出発点である「逢坂の関」で、源氏と空蝉は再会します。
旅立つ人、旅から帰る人の行きかう「逢坂の関」で偶然の再会をはたすという劇的なストーリーに、運命的なものを感じさせます。
源氏は再会を機に再び文を交わしました。その後、夫の常陸の介は老衰のため、死去します。
空蝉のことを子息に頼みましたが、空蝉は、義理の息子の河内の守に言い寄られ、出家してしまいました。しかし、源氏は後に、空蝉を二条院に移しました。
「絵合」(えあわせ)のあらすじ
冷泉帝は、権中納言(ごんのちゅうなごん)の娘を妃にしました。権中納言は、昔の頭中将(とうのちゅうじょう)です。しっかりと出世の土台を築いています。
冷泉帝は、絵を描くことや見ることが大好きでした。権中納言は、絵師を雇い、たくさんの絵を描かせて娘の弘徽殿の妃にもたせました。
源氏が、冷泉帝の女御として出仕させた斎宮の女御は、絵を描くのが得意でした。冷泉帝も斎宮の女御を気に入りました。
この結果、宮中では、どちらの絵が優れているか、話題になりました。そして、藤壺の前で、弘徽殿の妃の絵が優れているか、斎宮の女御の絵が優れているか、競い合う「絵合」(えあわせ)が行われることになりました。
結果は、引き分けとなり、次の「絵合」(えあわせ)が、冷泉帝の前で行われることになりました。
参考画像:Tosa Mitsunobu – The Picture Contest (Eawase), Illustration to Chapter 17 of the Tale of Genji (Genji monogatari) – 1985.352.17.A – Harvard Art Museums
この「絵合」(えあわせ)の時は、源氏の弟の蛍宮(ほたるのみや)が審判を務めることになりました。
蛍宮は、源氏とは異母弟にあたる人です。桐壺帝の第3皇子です。兄弟の仲では、源氏とは仲が良い関係でした。
両者からは、優れた作品ばかりが出品されたので、優劣がつきませんでした。しかし、最後に、源氏が描いた須磨の絵日記が提出されると、誰もが感動し、斎宮の女御が勝利を得ました。
もの合わせの競技とはどのようなものか
もの合わせとは、二組に分かれて優劣を競い合う遊びのことですが、源氏物語にある「絵合」は、史実にはなく、紫式部が物語を盛り上げるための創作のようです。
源氏物語では、対立する二人と言うのは、弘徽殿女御(こきでんのにょうご)と、斎宮女御(さいぐうのにょうご)です。前の天皇の朱雀帝の母親も弘徽殿女御と呼ばれましたが、「絵合」の弘徽殿女御とは別人です。
住んでいる場所で名称が決まってしまうので、同名になってしまうことで混乱してしまうかもしれません。
弘徽殿女御は、この時13歳ですので、冷泉帝と年齢が近いので気持ちも分かりやすく有利な立場にありました。
それに比べて、斎宮女御は、9歳も年上なので、なかなか親しくなれませんでした。たまたま冷泉帝は、絵が好きなので、絵の得意な斎宮女御は、寵愛を受けることができました。
平安時代に好まれた女性像
源氏物語では、たくさんの女性が登場しますが、どんな女性が美しいと言われたのでしょうか。
古い日本の絵画の中で描かれている女性の多くは、「一重瞼」で「切れ長」の目を持っている女性です。
現代では、目は大きく二重瞼が好まれていますが、これは欧米の文化の影響のためでしょう。鼻は大きいよりも小さめで、口も小さい方が好まれたようです。
顔の形は、ふっくらとした顔が好まれたようです。現代の小顔とは違い、「おかめ顔」の方が美人とされました。体型もぽっちゃり型で、中肉中背といった体型が好まれました。
髪は長いほど良いとされていました。現代のように気軽にシャンプーができませんでしたので、髪の手入れは大変でした。
宮中では、美人の条件として特に和歌の素養があるかどうかが重要でした。源氏のように、当時の男性の恋の始まりは文のやり取りから始まるので、上手に和歌が作れる女性はもてたようです。
参考画像:Murasaki Shikibu composing Genji Monogatari (Tale of Genji) by Tosa Mitsuoki (1617-1691).
紫式部も美人の評判が高かったと言われています。反対に、平安時代のイケメンの男性は、どうだったのでしょう。
主に貴族の男性に限って言えば、身分の高い人はもてました。源氏もそうですが、宮中においては、身分の高い男性は、憧れの的でした。
恋愛のかけひきには、和歌の素養がないと女性と交際ができません。貴公子と呼ばれる男性は、和歌の勉強を熱心にしたようです。
貴公子の条件として、上品でなければなりませんでした。野卑で粗暴な振る舞いは、女性たちから嫌がられました。
服装も色や柄など身分との兼ね合いもありますが、香などをたきこめて、良い香りのする服装をしていました。
藤原道長が、イケメンだったかどうかについては、史実には残されていないので、想像するしかありませんが、豪放磊落な性格から、男らしい人であったように思えます。
藤原道長は光源氏と対照的な男性
藤原道長と同時代の右大臣であった藤原実資(さねすけ)の日記に「小右記」(しょうゆうき)というものがありますが、当時の貴族の暴力沙汰が書かれています。
参考画像:藤原実資
その中には、宮中でとっくみあいの喧嘩をしたり、従者を殺して生首を持ち去ったり、あるいは、受領たちを袋叩きにしたり、そうした粗暴な振る舞いが多かったと記されています。
藤原道長もやはり男です。たまには粗暴なふるまいがあったようです。道長の子どもたちも、彼の血を引き継いだせいなのか、粗暴な性格の男子が多かったようです。
大鏡に残る道長の逸話
藤原道長の性格をよく表している逸話が、「大鏡」という歴史物語に載っています。「大鏡」の作者や成立時期については、不明な点があり、はっきりしませんが、歴史に精通した男性の官人ではないかとみられています。
物語の内容は、190歳の大宅世継(おおやけのよつぎ)と、180歳の夏山茂樹(なつやましげき)の2人の対話形式になっています。文徳天皇(850年)から、万寿2年(1025年)までの176年の歴史が記述されています。
その中に、道長と伊周(これちか)の弓争いの話が載っています。
登場人物は、藤原道隆(ふじわらみちたか)、道長の兄にあたる人です。そのほかに、藤原伊周(ふじわらこれちか)は、道隆の息子です。
参考画像:Fujiwara no Michitaka (藤原 道隆) was a Japanese noble of the Heian period.This picture was drawn by Kikuchi Yosai(菊池容斎)who was a painter in Japan.
当時、道隆の官位は、摂政・関白です。長女の定子を一条天皇に入内させました。道隆は、将来は息子の伊周に摂政・関白を継がせたいと思っていました。伊周は、道隆のおかげで公卿と言う高い地位にありました。
それにひきかえ、道長は、兄の道隆や道兼などの兄たちに疎まれていたせいか、出世もできず、悶々とした毎日を送っていました。道隆は、弟の道長に高い官位を与えず、息子の伊周を可愛がりました。
ある時、藤原伊周が、道隆の屋敷で弓遊びをしていました。その時、藤原道長が突然遊びに来ました。
藤原道隆は、突然の道長の来訪に驚きましたが、歓待し、道長も弓を得意とすることを知っていましたので、余興に弓争いをすることになりました。道長も腕に自信がありましたので、快く応じました。
その結果、道長が2本勝ってしまいました。藤原道隆としては、面白くありませんでした。伊周の方が、身分が上でしたので、彼に勝ちを譲るのが礼儀であろうと思っていたのでしょう。道長はそういうことを嫌いましたので、自分の勝ちだと思っていました。
そこで、藤原道隆は、「2本、延長しなさい」と命じました。道隆は伊周に勝たせたかったからです。道長は、当然不服でしたが、しかたなく延長戦を受け入れました。
道長は、ムカムカした気持ちをこめて、「自分の家から天皇や皇后がお立ちになるなら、この矢、当たれ」と言って、矢を放ちました。すると矢は、的の中心に当たりました。
参考画像:Fujiwara no Michinaga
伊周は、怒りに満ちた道長の勢いにのまれてしまい、矢を絞り切れずに、矢は当たりませんでした。道長は、2本目を放つ前に、「自分が摂政、関白になるべきならば、この矢、あたれ」と宣言し、見事に的の中心に当ててしまいました。
藤原道隆は、あきれはて、伊周にむかって、「射るな、射るな」と言って止めさせました。すっかりその場がしらけてしまいました。
道長の豪胆な性格を表す逸話ですね。その後、史実としては、道隆は飲水病(糖尿病)が悪化し、伊周を関白に推しましたが、天皇の許可が下りませんでした。
伊周は、内覧という官位に就きました。伊周は大変不満に思ったそうです。その後、道隆が病没すると、後継の関白をめぐって、伊周と道長の政争が起きました。
道長は、伊周を超えて、右大臣に昇進しました。この昇進の裏には、一条天皇の母親の藤原詮子が、夜の御殿に押し入って、渋る天皇を泣いて口説き、道長を右大臣に推奨したという話があります。詮子は、道長の姉に当たる人です。道長より4歳年上でしたが、道長を大変かわいがりました。
その後、伊周は、996年に長徳の変を起こし、問題の責任を取らせられ、大宰府権師(だざいのごんのそち)に左遷されました。伊周は病気を理由に出立をこばみました。その後、観念し僧形となって大宰府に出立しました。その後、許されて都にもどりましたが、都にもどれば、再び道長との抗争が待っていました。
道長の地位を確定させた彰子の出産
999年に、定子は第一皇子の敦康親王(あつやすしんのう)を出産しました。偶然ではありますが、道長の長女・彰子に女御の宣旨が下りました。
道長は一条天皇に働きかけて、彰子を中宮としました。定子は皇后になり、一帝二后となりました。しかし、定子は第2皇女を出産後、翌日に死去しました。
出産に立ち会った伊周は、亡くなった妹の亡骸を抱き、大声をあげて慟哭したと言われています。1003年、伊周は従二位に叙せられ昇殿を許されました。
伊周は、伊勢を基盤とする武士の平致頼(たいらのむねより)を抱き込み、道長が大和国の金峰山を参詣中、暗殺を計画しました。暗殺は実行されず、道長は無事に都に戻りました。
その後、彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を産みました。伊周は、定子の生んだ敦康親王を即位させたいと願っていましたので、伊周と道長は対立を深めました。
参考画像:『石山寺縁起絵巻』第3巻第1段より藤原伊周
その後、多分、道長の陰謀だと思いますが、中宮・彰子と敦成親王に対する呪詛の事件が起きました。呪詛の犯人として、伊周の叔母の高階光子が入獄され、伊周に対しては、昇殿を止めました。幸い4か月後に許されました。しかし、伊周は病を発し、37歳で亡くなってしまいました。
それにひきかえ道長は、出世街道を駆け上りました。そして、藤原道長の有名な歌に、「この世をば、我が世とぞ思ふ、望月の、欠けたることのなしと思へば」という歌があります。
そうした藤原道長の権勢は、最高のものでありましたが、ひとつだけ彼を悩ませた問題がありました。それは、「糖尿病」です。当時は、「飲水病」と言いました。道長の日記には、「日夜を問わず水を飲み、口は乾いて力無し、ただし食は減ぜず」と書き残されています。
道長は、966年に生まれ、1028年に亡くなっています。享年62歳でした。当時としては、長生きであったように思えます。
「栄花物語」では、死期を悟った道長は、九体の阿弥陀如来の手と自分の手を糸でつなぎ、釈迦の涅槃と同様に、北枕西向きに横たわりました。僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したとされています。
「松風」(まつかぜ)のあらすじ
源氏は、別邸の二条東院が完成すると、西側の建物に花散里を迎い入れました。東の建物には、明石の君を迎い入れるつもりでしたが、明石の君は身分が低い事を気にして、恥をかくのではないかと上京することを躊躇しています。
彼女の気持ちを知った明石の入道は、大堰川(おおいがわ)のほとりにある屋敷を修理して、明石の君と3歳になった明石の姫君を住まわせることにしました。
源氏は、明石の君や姫君に会いたいと思いました。源氏は、紫の上には、何とか言い訳をして、明石の君に会いに行きました。そこで、源氏は、初めて明石の姫君に会いました。
なんと可愛らしい姫君です。源氏は、二条院につれて帰りたいと思いました。しかし、そんなことをすれば、明石の君は、悲しむだろうと思い、言い出せませんでした。
二条院に帰ってから、源氏は明石の君に手紙を書きました。それを知った紫の上は、機嫌が悪くなりました。
源氏は、必死に紫の上に、明石の姫君の話をしました。そして、紫の上に明石の姫君を育ててほしいことを頼みました。
こども好きの紫の上は、喜んで承諾しました。しかし、明石の君は、姫君を紫の上の養女として引き取られてしまい、会うこともできなくなります。明石の君の寂しさを「松風」は象徴しているようです。
松風は、「待つ」寂しさを象徴
海岸に群生する美しい松の風景は、古くから絵画にも描かれる題材ですが、松風のイメージは、どこか寂しさを表しているかもしれません。
「能」の演目にも「松風」があります。この作品は、もともと田楽の役者の「喜阿弥」(きあみ)が、作った「汐汲み」という能を、観阿弥(かんあみ)が「松風村雨」という曲に改作しました。さらに世阿弥(ぜあみ)が改作し、現在の「松風」となりました。
在原行平を恋い慕う松風と村雨が、都に帰ってしまった行平を思い出しては悲しんでいます。松風の激しい恋慕は、ついに幻想となり、松の木が行平に見えてきます。
ある僧が、須磨の浦で一夜の宿を乞い、一軒の塩屋に入りました。そこに現れた松風と村雨の亡霊が、美しく舞います。
夜明け近くなり、松風は妄執に悩む身の供養を僧に頼んで、二人は姿を消してしまいました。あとは、潮風が吹き抜ける松風の音が残りました。
源氏物語の「松風」も、源氏を慕う明石の君の寂しさと悲しさの中に繰り広げられる物語として、読者には涙をさそうストーリーです。
さて、今回はこれまでです。
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
源氏物語の賢木・花散里・須磨・明石の笑訳
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「源氏物語」の主人公の光源氏には、実在するモデルがいるという説がありますが、藤原道長もそのひとりです。この世の栄華を極めた道長ですが、その道のりは、厳しく険しいものでした。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
先程はありがとうございました。とても話しやすく、穏やかで優しい先生でした。
あまり嬉しくない内容も気を使って一生懸命言葉を選んでくれていたのが伝わりましたし、私のためにきちんと包み隠さず伝えて下さったので、とても誠実な先生だと思いました。
また変化があれば相談に乗って下さい。