細川ガラシャの信仰を貫いた壮絶な生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年9月12日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、戦国時代のお話しです。戦乱の世に生まれ、激動する運命にも流されず、自分を守り通した信念の女性が、細川ガラシャです。
戦国の世で、彼女のように男勝りの気の強さを示した女性は、他の武将の妻には見られません。キリスト教を信仰し、洗礼も受けた彼女は、生来の気の強さに増して、死も恐れないほど精神力が強くなりました。
運命に翻弄される悲劇のヒロインとは違い、死に臨んでも、男子顔負けの離れ業をなしとげます。
今回は、彼女の不運な生涯を見事に生き抜いた細川ガラシャをスピリチュアル的にお伝えしたいと思います。
細川ガラシャのおいたち
細川ガラシャ(1563~1600)は、「明智光秀」(あけちみつひで)の3女として生まれました。名前は「珠子」(たまこ)あるいは玉子です。ここでは珠子でご紹介いたします。
彼女の父は、明智光秀です。母は「妻木熙子」(ひろこ)です。
参考画像:明智光秀、礼儀正しく公平だった 書状から浮かぶ実像
珠子の出生地は、越前国(えちぜんのくに)です。現在の福井県の北部のあたりです。
明智光秀の人柄を物語るエピソード
明智光秀と煕子(ひろこ)の結婚した経緯には、面白いエピソードがあります。
明智光秀と熙子は、1545年頃に婚約しました。ところが、熙子は疱瘡(ほうそう)に罹り病気の跡が顔に残ってしまいました。
それを憂慮した父親の「妻木広忠」(つまきひろただ)は、外見がそっくりな妹の芳子を身代わりに出しました。
明智光秀は、妻木家から来た妹の芳子を見て、身代わりであることを見破り、熙子を妻に迎えたいので、煕子を明智家に来させるように伝えました。
父親の妻木広忠は、妹を身代わりに出した事情を説明しましたが、明智光秀は、美醜にはこだわりはないと言い、熙子と結婚することを強く望みました。
こうして、明智光秀と熙子は結婚することになりました。
明智光秀は、武勇にも優れていましたが、心の優しい人物だったのです。
相思相愛の明智光秀と熙子の間には、3男4女が生まれました。明智光秀は、熙子が身籠った際に男子を望みましたが、熙子は、「そればかりは、私には決められませんから、神に祈ってください」と、光秀に言ったそうです。
そして、生まれたのが珠子でした。男子を希望していた光秀でしたが、美しく聡明な珠子をとても可愛がりました。ある時、光秀が「将来は誰と結婚したいか」と聞くと、「父上のような人」と答えたそうです。
光秀は、「そんな人はいないぞ」と笑って答えたそうです。父親として、娘にそう言われることは、嬉しかったことでしょう。
細川忠興と珠子の結婚
1578年、主君である「織田信長」(おだ のぶなが)の発案により、「細川藤孝」(ほそかわふじたか)の嫡男である「忠興」(ただおき)と、珠子の結婚が決まりました。
参考画像:細川忠興。Hosokawa Tadaoki.
珠子は、細川忠興と初対面の時に、「あなたは私の夫ですか?」と聞いたそうです。忠興が、「そうだ」と答えると、珠子は、「あなたは私の好みではありません」と言ったそうです。
そのような失礼な言葉を言えば、すぐに破談となります。もし忠興が怒りにまかせて、手討ちにしたとしても文句は言えません。
もしかすると、珠子は、破談になれば、家に戻され両親と暮らせるのではないかと思ったのかもしれません。わざと相手を怒らせるような発言をしたのではないでしょうか。
この時、細川忠興も1563年生まれの16歳で同い年です。精神年齢的には、珠子の方が大人びていたかもしれません。しかし、忠興も聡明な人でしたので、珠子の気持ちを見破ってしまったのでしょう。
忠興は、珠子の発言には何の反応もせずに、「私が忠興である」と挨拶を済ませて、家来に「後のことはよろしく手配せよ」と申し付けて、座敷から立ち去ってしまったのではないかと思います。
家来は、何事もなかったかのような素振りで、婚儀をすすめました。何しろ織田信長の発案で結婚することになったことですから、もしこの婚儀が破談となれば、信長の顔をつぶすことにもなります。
そんなことになれば、細川家や明智家にとって一大事になると、忠興は考えたのではないでしょうか。
芥川龍之介から見た細川ガラシャ像
芥川龍之介の小説の中に、細川ガラシャを扱った「糸女覚え書」という作品があります。その中で、細川ガラシャに仕えた「糸」という名の侍女が、細川ガラシャの容姿や性格につて、述べているところがあります。
参考画像:Ryunosuke Akutagawa working on one of his novels in Tokyo. is licensed under CC BY-SA 4.0
もちろん、芥川龍之介の創作ですが、的確な表現であると思いますので、ご参考までにご紹介いたします。
細川ガラシャに仕えていた「糸」という侍女から見た細川ガラシャは、「少しもお優しきところ」も無く、「賢女ぶらるることを第一となさ」るので、「とかく気のつまるばかり」であったと書かれています。
容姿については、「なれども秀林院様(ガラシャ)のご器量は、さのみ御美麗と申すほどにても」なく、「とくにおん鼻はちと高すぎ、雀斑(そばかす)も少々おありなされそうろう」に付け加え、若作りには見えないと、酷評しています。
賢いけれども、それだけに鼻っぱしの強い性格で、少々冷淡であり、ツンと澄ましたお姫様といったところでしょうか。
不思議と珠子に相性が合った細川忠興
細川忠興の性格は、気性が激しく、短気で気に入らない人間がいると手討ちにしたということで有名です。
初対面の際、珠子の発言に怒らなかったということは、気の強そうな珠子のことを気に入っていたという証拠かもしれません。
細川忠興は、文武両道で、和歌や能楽、絵画など芸術的な面にも通じた人でしたので、大人しい女性よりも、珠子のようなはっきりした気性の女性が、忠興の好みであったのかもしれません。
結婚した翌年、1579年に長女、1580年に長男の細川忠隆が生まれました。子供が生まれたということは、夫婦仲は良かったと思えます。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
細川ガラシャの生涯は如何でしたでしょうか。
戦国時代は、女性が主体的に生きることが許されない時代でしたが、キリスト教の信仰を守り抜いた生き方は、驚愕に値します。
また妻としても、夫の足手まといにならないように、自決を決心しましたが、気丈な女性でなければ、自ら決心をすることはできないでしょう。
戦争が招いた悲劇ではありましたが、その戦争の発端となっているのは、家康の天下に対する執念でした。執念は個人的なものですが、それを大義名分化して、その他の大名を巻き込み、最終的には豊臣家の滅亡まで、追い込んでいく、彼のやり方には偉大な人物の陰の部分と言えます。
そうした陰の部分で、いつも犠牲になるのは女性ですが、その流れは現代になっても、過去のものとなってはいないかもしれません。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
多聞
お客様から頂いた口コミ
女性40代
多聞先生、この度も鑑定ありがとうございます。
私は前世にたよりすぎているかも、と思っていましたが、先生のおかげで大丈夫なのだと安心できました、ほんとうにありがとうございました。
以前みていただいた彼女の姿、はっきりと眼裏に思いうかびます。
ほんとうに、心も姿も美しい人ですね。
先生、かの人の人生が私にもたらしてくれたモノ、大きいです。
無理に忘れようとは、もう思いません。
どうも有り難うございました。