細川ガラシャの信仰を貫いた壮絶な生涯

執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年9月12日
1578年に珠子が細川忠興に嫁いでから、4年の歳月が過ぎました。
ここで、ガラシャの運命を決定付けるような事件が起きます。
本能寺の変からガラシャの壮絶な最期まで

1582年、突然、本能寺の変が起きました。
本能寺の変は、とても有名な事件ですが、「謎」が多いことでも有名です。
なぜ明智光秀が謀反を起こしたのかという原因については、いろいろな説があり、どれが本当の原因になったのか、まったく「謎」に包まれています。
本能寺の変を扱う映画やドラマでは、明智光秀の怨恨説が、一番分かりやすいせいか、明智光秀が織田信長の仕打ちに我慢できなくなって、謀反を起こしたというのが主流となっています。
手紙で謀反に誘う明智光秀
明智光秀は、本能寺の変の直後に、主だった人々に手紙を送りました。
①細川藤孝へ手紙を送り、援軍を要請
この本能寺の変の直後、明智光秀から、細川藤孝に対し、再三明智への加勢の要請が入りました。
しかし、細川藤孝は、この要請を断りました。そして剃髪して名前を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と改めました。田辺城に隠居し、家督を忠興に譲りました。
②筒井順慶に手紙を書き、援軍を要請
明智光秀は、個人的にも関係の深い筒井順慶にも、手紙を送りました。
しかし、筒井順慶は援軍の要請を断りました。この時、筒井順慶も、信長から中国出陣を命じられていました。
筒井順慶は、明智光秀と同様に、信長とは特に仲が良いというわけではありませんでした。しかし、信長は、順慶の宿敵である松永久秀を攻め、さらに信長は順慶に大和一国を預け、郡山城の城主とさせました。
信長政権下で大名となることができたことは意外な出世でありました。順慶は、その意味で信長に対し恩義を感じていました。
この時の筒井順慶にまつわる有名な諺に、「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」という言葉があります。
これは、日和見(ひよりみ)主義で、どちらか有利な方に決めるために時間稼ぎをすることを意味しています。なぜなら、筒井順慶は、光秀から誘いを受けた時に、摂津と河内を見下ろすことができる洞が峠(ほらがとうげ)に陣を張り、動きませんでした。
この動きを、どちらか有利な方に味方するために、情勢を見ていたと思われても仕方がないと言わざるを得ません。
世間の人々は、順慶に対し、彼のとった行動に対し、「洞ヶ峠を決め込む」と言って、面白おかしく批判したのです。
筒井順慶としては、個人的には、明智光秀の気持ちをよく理解はしていましたが、信長に対する忠義の立場も捨てきれず、動けなかったと理解できます。形勢の良い方へなびくという気持ちはなかったように思えます。
③徳川家康に手紙を送り、和睦を要請
明智光秀は、その他にも主だった人々に、手紙を送りました。
例えば、徳川家康には、本能寺の変の前と後に手紙を書いています。本能寺の変の後に送った手紙には、和睦の申し出が書かれていたと言われていますが、家康は断ったそうです。
④羽柴秀吉に手紙を送り、和睦を要請
羽柴秀吉にも、和睦の手紙を送ったそうですが、秀吉は断ったようです。その他にも、毛利輝元にも同様の手紙を出しましたが、断られました。
⑤足利義昭に手紙を書き、将軍への復帰を要請
明智光秀は、足利義昭にも手紙を書きました。その手紙の中で、自分が信長を討った理由を述べました。信長は天下を乱すものであるので、その悪行を断つために謀反を起こしたと述べています。
明智光秀は、足利義昭が将軍として、復帰することを期待しました。さらに、細川忠興の妻である珠子を足利義昭に嫁がせると言う驚きの内容も書かれていました。
感情論では動かなかった武将たちの思惑
戦略を重んじ完璧主義の明智光秀にしては、彼らしくありませんでした。前もって準備を整えることもせずに、自分の心の中に溜まった思いが突然に爆発し、本能寺の変を起こしたように思えます。
明智光秀は、家来の誰もが信長に対する恐怖感を持っていたことを知っていました。それに、信長の独善的なやり方に批判的であったことも、よくわかっていました。
そうした状況の中で、光秀が自ら天下を取ろうと考えたのか、それとも、光秀が信長を倒せば、目の上のこぶが無くなることになります。
信長が亡くなったことは、誰にとっても、「棚から牡丹餅」ではなかったかと思われますが、実際、誰も覇者として名乗り出てきませんでした。
明智光秀から見れば、徳川や毛利のような有力な大名が、天下の覇者として名乗り出てくることは、容易なことだと、大いに期待したかもしれません。
足利義昭については、頼みの綱であったように思えますが、義昭も光秀の申し出を断りました。明智光秀は、足利義昭にも断られたので、京都を目指しても意味がありませんでした。
明智光秀には、誰も賛成者が現れず、本能寺を去ることになりました。資料によると、本能寺では、信長の抵抗はあまりなく、すぐに寺に火がのぼり、焼け落ちたそうです。しかし、信長の遺体は見つかりませんでした。
大河ドラマの受け売りではありませんが、「どうする光秀」と言いたくなるような状況に追い込まれてしまいました。天下の策士と言われた明智光秀も、全ての有力大名を敵に回して勝てる見込みはありませんでした。
援軍がない以上、明智光秀は、近江の国の坂本城や、その後は越前の国に後退し、再起を図るつもりだったのではないでしょうか。越前には、朝倉氏の残党が残っており、信長に反抗していましたので、味方につけられると思ったかもしれません。
羽柴秀吉の中国大返し
1582年、羽柴秀吉は、備中高松城の戦いで毛利氏と対峙していました。
当時の高松城を守っていたのは、「清水宗治」(しみずむねはる)という勇猛果敢な武将でした。
羽柴秀吉は、高松城にこもる強い相手を前に攻めきれず困っていました。
その時、羽柴秀吉は、主君の織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたという知らせを受け取りました。
この時、羽柴秀吉は、どうしたら良いか迷ってしまいました。軍師の「黒田官兵衛」(くろだ かんべえ)に相談すると、官兵衛は小声で、「秀吉さま、これは天下を取れるかもしれませんぞ」と囁きました。これには、秀吉もビックリしたそうです。
しかし、そう聞いたからには、じっとしていられないのが秀吉の気性でした。官兵衛の奇策に従って、中国大返しをやることになりました。
官兵衛は、陣中にいる兵士たちに、噂を流しました。「秀吉さまが、光秀を討ったら、秀吉さまが天下を取る。そうすれば、出世は思いのままだ。こんなことは2度とない」というような噂を流したのです。
さあ、そうと決まれば、早く京都に戻り、明智光秀の首を取ることです。全軍をその気にさせた黒田官兵衛の機略は大成功でした。
羽柴秀吉は、急遽、毛利氏とすぐに和睦をして京都に向かいました。この時、秀吉は、約230キロメートルの道のりを約10日間で駆け抜けたとされ、日本の戦史上でも、屈指の大強行軍として知られています。
通常、私たちは時速4キロメートルで歩きます。しかし、230キロメートルを休みなしで歩き続けることはできません。戦争のための行軍は、武器や食糧なども運ばなければなりません。兵隊には睡眠時間も必要です。
しかも、大軍の進軍には、バラバラの行軍はできません。隊列をくずさないためには、かなりの時間がかかります。休憩も含めて、1日に10キロメートル進めることができれば、良い方ではないでしょうか。そうなると、230キロメートルは、早くても20日ぐらいかかるという計算になります。
羽柴秀吉は、それを10日間で成し遂げました。全軍の将兵が一刻も早く戻り、明智軍を破る気持ちを持っていることも、大切なことですが、中国の大返しを成功させた要因として、前もって準備がしてありました。
主な点は次の通りです。
- 羽柴秀吉は、中国攻めの前から、毛利氏とは和睦交渉をしていました。
- 秀吉は、京都と自分の間に、緊密な情報網を作っていました。
- 秀吉は、自軍を一体として、すぐに移動しやすいようにしていました。
- 秀吉は、緊急の事態に備えて、途中の沿道に、物資を備えておきました。
この物資の補給が一番、効果的なことであったと思われます。秀吉は、既に現代にも通じる戦争のノウハウを持っていたと言えます。
予想以上のスピードで、羽柴秀吉が京都に戻ってきたことで、明智光秀は驚いたことでしょう。もう近江や越前に向かって後退する時間はありませんでした。
しかも、羽柴秀吉の軍勢は約4万人となりました。対する明智光秀の軍勢は、約1万6千人と言われています。
人数の上からも、勝敗は決まっていたと言っても良いでしょう。さらに明智光秀の軍勢からは、逃亡者が増え、実質的に半分ぐらいの人数になってしまいました。
1582年、両軍は、摂津国と山城国の境にある山崎のあたりで、激突しました。結果は、明智軍の敗退となりました。明智光秀は、密かに本陣から退避しましたが、途中、落ち武者狩りに殺されたとも言われています。
バテレン追放令で、急いで洗礼を受ける
1582年の本能寺の変で、明智光秀が山崎の戦いで光秀が討たれると、明智家の一族は、謀反人とみなされ、追い討ちや誅殺が行われました。
明智光秀の娘である珠子も対象になりましたが、細川忠興は、珠子を離縁せず、1584年まで彼女を丹後国にある細川家の屋敷に幽閉しました。
幽閉とは言っても、丹後国は、天橋立などの有名な海岸や松の緑の美しい場所です。忠興は、秀吉の怒りをそらすために、別居しましたが、風光明媚な場所を選び、心の慰めになるように手配したのではないでしょうか。
この間、彼女のまわりには、数人の女性たちだけでした。その中に「清原いと」(後のマリア)がいました。清原いとは、公家の清原枝賢の娘で、細川藤孝の大伯母にあたります。彼女は、珠子が細川家に嫁いだ時から侍女として付けられました。
1584年、羽柴秀吉のとりなしがあり、細川忠興は、珠子を細川家の大阪屋敷に戻すことができました。これは秀吉が細川忠興に対して恩を売ったと思えます。
本能寺の変の時には、細川藤孝に対して、明智光秀から誘いがありましたが、断りました。その行為に対して褒美の意味があったかもしれません。
細川珠子は、大阪の屋敷に戻ってから、細川忠興が親しくしていた「高山右近」(たかやま うこん)がキリスト教を信仰しており、右近の信仰するカトリックの話を聞いて、大変興味を持ったと言われています。
高山右近は人徳の人として知られており、彼の影響を受けて多くの大名がキリシタンになりました。例えば、牧村利貞、蒲生氏郷、黒田孝高などの大名たちです。
細川珠子は、光秀が秀吉に敗れ、一族は皆殺しとなったことで、自分の人生はいったいどうなるのだろうと不安な気持ちを持っていたことでしょう。
神仏に祈願したとしても、心の不安を取り去ることはできません。そのような時に、キリシタン大名たちが信仰するキリスト教は、直接、神から癒しの言葉を与えられるという魅力的な宗教であると聞き、是非とも話を聞きたいと思ったのではないでしょうか。
珠子は、キリスト教会に行って話を聞きたいと思い、清原いとと教会に行き、話を聞くことになりました。清原いとはキリスト教に感銘し、洗礼を受けて、マリアとなりました。
珠子もキリスト教の話を聞いた後、洗礼を受けたいと申し出ましたが、教会は、珠子を見て、どこかの高貴な夫人であろうと思い、うかつに洗礼はできないと考え、延期することにしました。教会は、珠子の後をつけさせ、細川家の人であることが分かりました。
珠子は、教会には頻繁には行けませんでしたから、清原マリアに行ってもらい、教会から託された書物を読み、キリスト教について学び、信仰に励みました。
しかし、1587年に、秀吉から「バテレン追放令」が出され、宣教師たちは日本から退去を命じられました。
参考画像:秀吉のバテレン追放令 (吉利支丹伴天連追放令) 秀吉のバテレン追放令 ![]()
珠子は、宣教師が退去する前に洗礼を受けたいと思い、清原マリアを教会に行かせました。教会の宣教師は、清原マリアに洗礼の権限を与え、屋敷に帰ってから、彼女から洗礼を受け、洗礼名をガラシャと名乗ることとなりました。
ガラシャとは、ラテン語で「恩顧」や「神の恵み」を意味しています。
この洗礼名を与えられてからは、珠子は気性が変わったと言われています。気位が高く怒りやすい性格から、謙虚で忍耐強い穏やかな性格となりました。
珠子は、父母をなくし、夫の忠興に自分の不遇を訴えるわけにもいかず、自分を認めてくれる絶対の存在がありませんでしたが、キリスト教を信仰し、洗礼を受け、神から認められた存在として生まれ変わったのではないでしょうか。
秀吉の死後、対立激化の三成と家康
1598年、豊臣秀吉が亡くなりました。豊臣秀吉の死後、内部の政権争いが始まりました。
秀吉の子の秀頼はまだ幼少であり、五大老と五奉行が後見人として支えていました。
しかし、徳川家康は、天下への野望を隠すことができなくなり、「石田三成」(いしだ みつなり)との確執が強くなりました。石田三成は、他の大老たちと奉行と連合して、家康に対抗しました。
参考画像:Ishida Mitsunari 石田三成 ![]()
細川忠興は、秀吉から豊臣姓をもらえるほど信頼の厚い関係でしたが、秀吉の没後は、石田三成との関係は悪化しました。忠興は家康と誼を通じ、徳川方の武将となりました。
五大老の一人である上杉景勝は、石田三成と連携して、秀頼を守る側にいましたが、徳川家康とは対立していました。
争いの発端は、上杉景勝が、会津に神指城(こうざしじょう)を築城しようとしたことで、家康が、「これは謀反だ」と言いがかりをつけたことが原因となりました。
この元になったのは、越後の堀秀治との争いが発端でした。上杉景勝は、国替えのために、越後から会津に移りました。その時に、農民に対し、その年の年貢を徴収しました。
その跡に越後に入った堀秀治は、年貢を取り立てようとしましたが、すでに上杉景勝が徴収していたので、農民から反発を受けました。そのため堀秀治は、徳川家康に苦情を申し立てたのでした。
家康は、上杉景勝に対し、上洛して釈明するように要求しました。上杉景勝は、家康の本心も分かっていましたので、上洛の要求を拒否しました。
その時、家康に書状を送ったのは、「直江兼続」(なおえ かねつぐ)です。彼は、家康に対し、次のような返事をしたと言われています。(手紙の内容は、大意をまとめました)
「謀反などまったく言いがかりです。上洛して説明しろと言われても、国替えで会津に移ったばかりです。会津は雪国であり、秋から冬にかけて長期間、簡単に上洛できません。
謀反の疑いに対して誓紙を出せとのことですが、秀吉様に対して忠義をつくしてきましたので、改めて誓紙を出すほどのことはありません。
景勝が謀反を起こすと言う者がいれば、その者を調べれば良いでしょう。加賀の前田利長様の件のように、言いがかりをつけて屈服させたようですが、私は屈しません。
武器を集めているのは、治安を守るために必要だからです。越後の堀秀治だけが、謀反だと騒いでいるようですが、問題にはなりません」
直江兼続が家康に送った書状より
このような内容で返事を送りました。この書状を読んで、さすがに徳川家康も我慢ができなくなったようです。
1600年、会津に向けて出陣しました。細川忠興も徳川家康の要請を受け、上杉征伐に出陣しました。
この動きに対して、石田三成も毛利元就を中心とした西軍を組織しました。また大阪に残る武家の家族を人質に取ろうとしたのです。
そうすれば、徳川方の武将の中には、西軍に心変わりする武将も出てくるのではないかと思ったからです。この作戦は石田三成の独断で行われました。他の五奉行は、徳川家康と和睦を望んでいました。
この動きに対して、加藤清正の家族は大阪の屋敷を脱出しました。しかし、細川ガラシャは、夫の忠興から、人質になるようなことが起きた場合は自害するように言われていました。
三成は使者を派遣して、細川ガラシャに人質になるように説得を試みました。当然、細川ガラシャはその要求を拒否しました。
次に三成は妥協案として、宇喜多家に預かりという提案を出しましたが、これも拒否されます。最後に三成から、武力を行使して捕らえるという方法を提示しました。
細川ガラシャは、屋敷内の侍女や婦人を集め、「わが夫が命じている通り、自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外に出しました。
自殺は、キリスト教では禁じられているので、家老の小笠原秀清に介錯を頼み、遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け、火をつけたのです、その後、秀清は自刃しました。
「細川家記」には、彼女が詠んだ辞世の句が記されています。
「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
「細川家記」より細川ガラシャが詠んだ辞世の句
石田三成は、ガラシャの死の壮絶さに驚き、他の武将の夫人たちにも同様の動きがあると逆効果になるため、人質を取ることはやめました。
死後の数時間後、神父のニェッキ・ソルディ・オルガンティノは、細川家の焼け跡を訪れ、細川ガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬りました。
1600年に、徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とする西軍は、関ヶ原で激突しました。結果は、東軍の勝利となりました。
細川忠興は、徳川家康の東軍で戦い、大きな戦果をあげました。関ヶ原の戦いも終わり、細川忠興は、大阪を出る時に、彼が言い遺した通り、死を選んだ珠子の葬儀をしなければならないと思いました。
細川忠興は、ガラシャの死を悲しみ、1601年、オルガンティノに教会葬を依頼して、葬儀に参列しました。その後、大阪の崇禅寺に改葬しました。他にも京都大徳寺や肥後熊本の泰勝寺など何か所か、ガラシャの墓所とされるものがあります。
参考画像:The grave of Hosokawa Gracia and Hosokawa Tadaoki, Daitokuji, Kyoto. 京都大徳寺にある細川ガラシャと細川忠興の墓。 ![]()
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日本で最初の女性の怨霊となった悲劇の皇后・井上内親王の生涯
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
細川ガラシャの生涯は如何でしたでしょうか。
戦国時代は、女性が主体的に生きることが許されない時代でしたが、キリスト教の信仰を守り抜いた生き方は、驚愕に値します。
また妻としても、夫の足手まといにならないように、自決を決心しましたが、気丈な女性でなければ、自ら決心をすることはできないでしょう。
戦争が招いた悲劇ではありましたが、その戦争の発端となっているのは、家康の天下に対する執念でした。執念は個人的なものですが、それを大義名分化して、その他の大名を巻き込み、最終的には豊臣家の滅亡まで、追い込んでいく、彼のやり方には偉大な人物の陰の部分と言えます。
そうした陰の部分で、いつも犠牲になるのは女性ですが、その流れは現代になっても、過去のものとなってはいないかもしれません。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
多聞
お客様から頂いた口コミ
女性40代
多聞先生、この度も鑑定ありがとうございます。
私は前世にたよりすぎているかも、と思っていましたが、先生のおかげで大丈夫なのだと安心できました、ほんとうにありがとうございました。
以前みていただいた彼女の姿、はっきりと眼裏に思いうかびます。
ほんとうに、心も姿も美しい人ですね。
先生、かの人の人生が私にもたらしてくれたモノ、大きいです。
無理に忘れようとは、もう思いません。
どうも有り難うございました。