日本で最初の女性の怨霊となった悲劇の皇后・井上内親王の生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年8月15日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、奈良時代のお話しです。 今から1600年前の奈良時代の事件です。 歴史の教科書には、あまり出てこないお話しですので、 ご存じない方もいらっしゃるかもしれません。
今回の主人公は、日本では初めて怨霊となった皇后のお話です。 その皇后とは、井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう)という方です。
彼女は、光仁天皇(こうにんてんのう)の皇后となった人です。
皇后の井上内親王と皇太子の他戸親王(おさべしんのう)は、2度も呪詛の疑いをかけられ、退位させられただけでなく、その後、庶民に落とされ、幽閉先で謎の死をとげました。
そのため、彼女の死後、都で起きた怪事件や疫病の発生が、彼女の怨念ではないかと噂され恐れられました。
彼女が怨霊とされた背景には、どろどろとした政権争いがからんでいました。彼女はその犠牲者となってしまったのです。
今回は、彼女の不運な生涯をスピリチュアル的にお伝えしたいと思います。
井上内親王の生い立ちから安積親王の死まで
井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう)は、717年(養老元年)聖武天皇の第一皇女として生まれました。
母親は、県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)で、孝謙天皇(称徳天皇)とは異母姉妹の関係です。
728年(神亀5年)に、弟の安積親王(あさかしんのう)が生まれました。
天皇の皇女として生まれたことは、とても幸福な人生の始まりでした。
井上内親王は、721年(養老5年)に、5歳で伊勢神宮の斎王(さいおう)に選ばれました。
斎王というのは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)に仕えるという重要な役割を担う皇女です。
5歳と言えば、まだ小学生にもならない年ですから、ひとりで親元から離れて生活するのは寂しかったのではないでしょうか。
その後23年間、彼女は伊勢神宮で斎王を務めました。
斎王という役目は、非常に厳しく里帰りもできません。また、男性との接触も禁じられるというものでした。
また、斎王は、天皇の交代や身内の不幸などが無い限り、辞めて帰ることもできませんでした。
しかし、伊勢物語には、在原業平(825~880 ありわらのなりひら)が訪れて、斎王の女性との逢瀬があったと書かれています。在原業平が特別の人だったからかもしれません。
その話とは、伊勢物語の中で、斎王になった恬子内親王(てんしないしんのう 847~913)と在原業平の恋を描いたものです。
次の歌は、恬氏内親王が在原業平を思う気持ちを詠ったものです。
「君や来し 我や行けむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか」
恬子内親王の歌
この歌の意味は、「昨夜は、業平様が来たのでしょうか、それとも私が会いに行ったのでしょうか、よく覚えていません。業平様との逢瀬も夢だったのでしょうか、それとも現実だったのでしょうか」
伊勢神宮の斎王のいる場所は、男子禁制という規則があるので、普通は入れません。しかし、在原業平だから特別ということかもしれません。
恬子内親王は、清和天皇が即位した時に、伊勢神宮の斎王になりました。伊勢物語では、「斎宮なりける人」と書かれていますが、恬子内親王と言われています。彼女は12歳になった859年から29歳になる876年までの17年間、斎王でした。
さて、井上内親王の話に戻ります。
井上内親王は、744年(天平16年)、弟の安積親王(あさかしんのう)が、17歳と言う若さで、薨去(こうきょ=身分の高い人が亡くなること)しました。
参考画像:the tomb of Asakasinnnou, Wazuka town kyoto is licensed under CC BY-SA 4.0
そのため、ようやく、斎王になってから23年目で、伊勢神宮での役目から解放されました。
自由の身になった井上内親王でしたが、この後の人生を考えると斎王のままであった方が、彼女の人生にとっては良かったかもしれません。
謎が残る安積親王(あさかしんのう)の死
突然の安積親王(あさかしんのう)の死には謎が残るものでした。
その事件のいきさつは、次のようなものでした。
744年(天平16年)、仏教の帰依に熱心な聖武天皇は、夫人の県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)と難波行幸を行いました。その時、安積親王(あさかしんのう)も同行しました。
ところが、安積親王(あさかしんのう)は、途中で、脚気のため、都に引き返しましたが、2日後に亡くなってしまいました。
脚気は、ビタミンBの不足によっておこる病気です。心不全や神経障害などの合併症を引き起こして、死亡することもあります。
さて、安積親王(あさかしんのう)は、聖武天皇の唯一の皇子であったので、皇太子として最も有力な候補でした。
そのため、この謎の死には、藤原仲麻呂(706~764ふじわらのなかまろ)による暗殺説が濃厚です。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、藤原南家の祖である藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の次男です。彼はずる賢く知略に長けていました。
参考までですが、当時、藤原氏は南家、北家、式家、京家の四つに分かれていました。藤原氏も子孫が増え、区別が難しいことから、それぞれ平城京のどこに根拠地を置いているかで、区別するために南家、北家、式家、京家などの名称を使い、誰の子孫か区別したようです。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、光明皇后や孝謙天皇から信任を得て、太政大臣にまで昇りました。
安積親王(あさかしんのう)は、なぜ殺されたのかという背景は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の野心が絡んでいました。
安積親王(あさかしんのう)は、聖武天皇の皇子で皇位継承者とみられていましたが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)との姻戚関係はありませんでした。
安積親王(あさかしんのう)の暗殺疑惑の真相は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)にとって、将来、安積親王(あさかしんのう)が、大きな障害となるのではないかと思われてしまったことが最大の原因のようです。
阿部内親王が孝謙天皇として即位
聖武天皇は、744年(天平16年)、安積親王(あさかしんのう)が亡くなった直後に、病に倒れて一時重態になりました。
この時、公卿であった橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、黄文王(きぶみおう)を皇太子に立てようとする動きがありました。
黄文王(きぶみおう)は、長屋王(ながやおう)の子であり、天智天皇系の子孫でした。
橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が権勢を増すことに不満を感じていました。
聖武天皇の光明皇后が、藤原氏出身であり、それを利用して藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が、権勢を伸ばし政治を思いのままに行っていたからです。
橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、黄文王(きぶみおう)を皇太子に立て、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を追い出すことができれば、再び、権勢を取り戻すことができると思ったのではないでしょうか。
しかし、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)も、負けてはいませんでした。光明皇后を後ろ盾にして、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)を排除しようとしていました。
一方、健康に自信のない聖武天皇は、できるだけ早く皇女の阿部内親王に譲位をしたいと考えていました。
そして、749年(天平勝宝元年)、ようやく阿部内親王に譲位ができることになりました。阿部内親王は天皇に即位して、孝謙天皇となりました。
しかし、孝謙天皇の背後には、藤原氏の出身の光明皇太后が後見役となりました。
しかも、光明皇太后は、紫微中台(しびちゅうだい)という特別の組織を新設し、その長官に藤原仲麻呂(ふじわらなかまろ)を任命しました。
この組織の新設により、他の公卿の意見を排除し、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が独占的に政治を牛耳るという体制が作られました。
孝謙天皇は、初めは、光明皇后と藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)との体制に不満を持ちませんでしたが、だんだん藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の専横ぶりが激しくなると、反感を持つようになりました。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「日本で初めて怨霊となった悲劇の皇后」は如何でしたでしょうか?
井上内親王は、結婚や出産の全てが、政治の問題にからむことなので、利権を求める藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原良継(ふじわらのよしつぐ)の陰謀により、非業の最後を迎え、命まで取られてしまいました。
聖武天皇の皇女として生まれ、恵まれた一生であったはずの人生が、ここまで惨めなものになるとは、井上内親王も他戸親王(おさべしんのう)も思わなかったことでしょう。
光仁天皇も、呪詛などあり得ないと思っていたはずです。けれども、藤原百川(ふじわらのももかわ)に反対すれば、どのような陰謀に巻き込まれるかもしれないと思ったのかもしれません。
天皇と皇后という関係が、政争の中で引き裂かれ、非業の最後となった井上内親王と他戸親王は、どんな思いで死んでいったかを思うと可哀そうでなりません。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性40代
多聞先生、この度も鑑定ありがとうございます。
私は前世にたよりすぎているかも、と思っていましたが、先生のおかげで大丈夫なのだと安心できました、ほんとうにありがとうございました。
以前みていただいた彼女の姿、はっきりと眼裏に思いうかびます。
ほんとうに、心も姿も美しい人ですね。
先生、かの人の人生が私にもたらしてくれたモノ、大きいです。
無理に忘れようとは、もう思いません。
どうも有り難うございました。