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日本で最初の女性の怨霊となった悲劇の皇后・井上内親王の生涯

執筆した占い師:多聞先生

更新日:2023年8月15日

孝謙天皇は、天武系の皇太子がいないことを憂慮していました。

なんとか天武系の皇太子を残す方法はないものか考えました。

そこで思いついたことは、井上内親王と白壁王(しらかべおう)を結婚させることでした。

井上内親王の結婚、そして皇位継承者争いの勃発

白壁王(しらかべおう)は、天智天皇の孫でしたが、父親が早く亡くなったので、後ろ盾がありませんでした。そのため、出世が遅く、政治的な身分も低いままでした。

孝謙天皇は、天智系の白壁王(しらかべおう)と天武系の井上内親王を結婚させれば、天智系と天武系の融合がなされ、理想的な結婚になると思いました。

そして、752年(天平勝宝4年)、白壁王(しらかべおう)と井上内親王は、結婚しました。

結婚した時の年齢は、白壁王が44歳、井上内親王が37歳であったと、言われています。

聖武天皇の崩御と皇位継承者問題

756年(天平勝宝8年)、聖武天皇が崩御しました。

聖武天皇陵
聖武天皇陵
参考画像:tomb of Emperor shomu is licensed under CC BY-SA 3.0

その時、次の皇太子として、道祖王(ふなどおう)にすることを遺言しました。

道祖王(ふなどおう)とは、天武天皇の孫にあたる人です。

この時は、まだ白壁王(しらかべおう)と井上内親王には、皇子が生まれていませんでした。

道祖王(ふなどおう)の皇太子問題は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)にとっても、姻戚関係もなく、なんの利益もありません。

その上、道祖王(ふなどおう)は素行が悪く、孝謙天皇から不興を買い、翌年の757年(天平勝宝9年)に廃太子となりました。

孝謙天皇は公卿たちを集め、次の皇太子を誰にするか意見を述べさせました。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、この時は、表向きには「天皇のお考えで決めて下さい」と答えたとされています。

しかし、実は藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、この問題には大きな野心を持っていました。皇太子にさせたい皇子を自分の屋敷内で擁護していました。

大炊王(おおいおう)の立太子、孝謙天皇の譲位

実は、この時、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、別の皇子を皇太子にすることを画策していました。

それが、大炊王(おおいおう)です。彼は後の淳仁天皇です。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、大炊王(おおいおう)を立太子するように、孝謙天皇を説得しました。

しかし、光明皇后を後ろ盾にして、説得と言うよりは、強引に立太子の話を進めました。

大炊王(おおいおう)は、天武天皇の皇子の舎人親王(とねりしんのう)の第七男です。舎人親王が早く亡くなったため、出世もできず、注目もされていませんでした。

大炊王(おおいおう)は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の長男(死亡)の未亡人である粟田諸姉(あわたのもろね)を妻に迎え、また藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の私邸に住むなど、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と深く結びついていました。

孝謙天皇は、あまり快くは思いませんでしたが、この時点では、白壁王(しらかべおう)と井上内親王は、結婚したばかりで、男子の出産はまだありませんでした。

孝謙天皇は、しかたなく、大炊王(おおいおう)の立太子に賛成したのではないでしょうか。その結果、757年(天平勝宝9年)、大炊王(おおいおう)を皇太子としました。

その後も、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の勢いは止まりませんでした。孝謙天皇を説得し、今度は、強引に譲位をさせたのです。

翌年の758年、大炊王(おおいおう)は、孝謙天皇から譲位を受け、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)として即位しました。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の野心は、ついに自分の意のままになる天皇を誕生させました。

藤原仲麻呂の専横に橘奈良麻呂が反乱を計画

757年(天平勝宝9年)、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が、大炊王(おおいおう)を皇太子にすることに成功すると、橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂の専横に不満を持っている者を集め、反乱を計画し、実行しようとしました。

ところが、この計画は密告により、事前に分かってしまいました。

孝謙天皇や光明皇太后は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の争いを非常に心配し、詔勅を発して、謀反を思い留まらせようとしました。

ところが、詔勅では収まらず、謀反の動きは進行していました。

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)を中心として、大伴古麻呂(おおとものこまろ)、安宿王(あすかべおう)、黄文王(きぶみおう)らが謀反の主犯とされる人物です。

彼らの計画は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の屋敷を襲って殺した後、大炊王(おおいおう)に皇太子を辞めさせ、皇太后の屋敷を包囲し、駅鈴と御璽を奪い、右大臣の藤原豊成(ふじわらのとよなり)を奉じて天下に号令しようとしたものでした。

その後、天皇も廃し、塩焼王(いおやきおう)、道祖王(ふなどおう)、安宿王(あすかべおう)、黄文王(きぶみおう)の中から天皇を選ぶという計画でした。

その知らせを受けた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、孝謙天皇に報告し、兵を向けました。

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)をはじめ、道祖王(ふなどおう)、黄文王(きぶみおう)、大伴古麻呂(おおとものこまろ)など、謀反に加担した者全てを逮捕しました。

橘奈良麻呂(たちばなならまろ)やその他の反乱を企てた人々は獄中で過酷な拷問を受け、次々と絶命しました。この件に関して連座した者は443名にものぼりました。

これによって、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、自分に不満を持つ反対派の全ての排除に成功しました。

余談ですが、右大臣の藤原豊成(ふじわらのとよなり)は、大宰府に左遷となりました。死刑とならずに、左遷となったのは、この事件に直接関与していなかったからです。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)からの中傷で、左遷とされたようです。しかし、藤原豊成は、病気を理由に大宰府には行きませんでした。その後、藤原仲麻呂の乱で、彼が討ち死にすると、右大臣に復帰しました。

光明皇后の崩御で凋落する仲麻呂

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、これまでに、叔母の光明皇后の信任を得て、政権を握ることに成功し、自分の私邸に居住していた大炊王(おおいおう)を皇太子にすることにも成功しました。

そして、758年(天平宝字2年)大炊王(おおいおう)は、淳仁天皇として即位し、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を右大臣に任じました。

そして、藤原仲麻呂に対して、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名が与えられました。760年(天平宝字4年)には、遂に太政大臣となりました。

まさに向かうところ敵なしという状態になりました。

しかし、760年(天平宝字4年)、後ろ盾だった光明皇后が亡くなると、待ちかねたように、孝謙上皇は、藤原仲麻呂と対立するようになりました。

その時、孝謙上皇は、病気がちになり、看病にあたった道鏡という僧侶を寵愛するようになりました。道鏡と親しい僧侶たちが、次々と公卿職に就くようになり、政治が混乱しました。

たまりかねた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、淳仁天皇を介して、孝謙上皇に対して、道鏡を排除することを進言させました。

孝謙上皇は、淳仁天皇の進言に対し、烈火のごとく激怒したと言われています。これ以降、孝謙上皇は、政治権力を淳仁天皇から取り上げました。

761年(天平宝字5年)、白壁王と井上内親王の間に、他戸親王(おさべしんのう)が誕生しました。

これは、孝謙上皇にとって大変な朗報となりました。

これで、後継者問題で悩むことはない」と思ったのではないでしょうか。

藤原仲麻呂の乱から井上内親王の急逝へと続く


このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。

多聞先生たもん

鑑定歴 20年以上
得意な占術 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占
実績 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。
抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。
タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。
2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。
得意な相談内容 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢

多聞先生よりご挨拶

コラムを最後までご覧頂き有難うございます。

「日本で初めて怨霊となった悲劇の皇后」は如何でしたでしょうか?

井上内親王は、結婚や出産の全てが、政治の問題にからむことなので、利権を求める藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原良継(ふじわらのよしつぐ)の陰謀により、非業の最後を迎え、命まで取られてしまいました。

聖武天皇の皇女として生まれ、恵まれた一生であったはずの人生が、ここまで惨めなものになるとは、井上内親王も他戸親王(おさべしんのう)も思わなかったことでしょう。

光仁天皇も、呪詛などあり得ないと思っていたはずです。けれども、藤原百川(ふじわらのももかわ)に反対すれば、どのような陰謀に巻き込まれるかもしれないと思ったのかもしれません。

天皇と皇后という関係が、政争の中で引き裂かれ、非業の最後となった井上内親王と他戸親王は、どんな思いで死んでいったかを思うと可哀そうでなりません。

人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。

是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。

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お客様から頂いた口コミ

女性40代

多聞先生、この度も鑑定ありがとうございます。
私は前世にたよりすぎているかも、と思っていましたが、先生のおかげで大丈夫なのだと安心できました、ほんとうにありがとうございました。
以前みていただいた彼女の姿、はっきりと眼裏に思いうかびます。
ほんとうに、心も姿も美しい人ですね。
先生、かの人の人生が私にもたらしてくれたモノ、大きいです。
無理に忘れようとは、もう思いません。
どうも有り難うございました。

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