日本で最初の女性の怨霊となった悲劇の皇后・井上内親王の生涯
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年8月15日
ますます強気になる孝謙上皇は、764年(天平宝字8年)9月、淳仁天皇が居住する中宮院にあった駅鈴(えきれい)と御璽(ぎょじ)を取り上げてしまいました。
駅鈴とは、人馬を調達するためのものでした。また、御璽とは、公式の文章に押印される印鑑です。この二つは、政治の権力の行使にとって、とても重要なものだったのです。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、駅鈴と御璽を取られてしまい、「なんとかしないと、とんでもないことになる」という危機感を感じました。
藤原仲麻呂の乱から井上内親王の急逝まで
764年(天平宝字8年)、危機感を持った藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、遂にクーデター(藤原仲麻呂の乱)を起こしました。
しかし、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)にしては、準備も何もないクーデターでした。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は太政大臣でしたので、軍備力を揃えるには有利な立場にありました。
しかし、彼は、簡単にクーデターは成功すると思っていたのかどうか分かりませんが、当時、600名ほどの兵を屋敷に揃えていたと言われています。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、その軍事力をもって政権を奪取しようとしたのかどうか不明ですが、彼の動きを密告した者により、いち早く動いたのは、孝謙天皇でした。
孝謙上皇は、すぐに勅令を出し、藤原仲麻呂の官位をはく奪し一族の財産を没収しました。そして、吉備真備(きびのまきび)を従三位にすると藤原仲麻呂の討伐を命じました。
孝謙上皇のすばやい動きに、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は辛うじて平城京を脱出しました。彼は近江にもどり、そこから兵を改めて出す計画を立てました。
吉備真備(きびのまきび)は、70歳という老齢でありましたが、軍略に長けていました。すぐに藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の計画を読んで、近江への道を遮断しました。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、しかたなく越前をめざすことにしました。
吉備真備(きびのまきび)は、ここでも越前に先回りして、越前を軍事的に抑えてしまいました。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、しかたなく近江の琵琶湖に近い古い城に立てこもりました。しかし、朝廷の討伐軍は、激しく攻撃をしかけて、ついに藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は討ち死にしました。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)にしては、あっけない最後でした。
この乱の後は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の勢力は一掃され、淳仁天皇は廃位とされ、淡路国に流されてしまいました。
その結果、765年(天平神護元年)、孝謙上皇が、重祚(ちょうそ)して、皇位を引き継ぎ称徳天皇と名乗りました。以後、称徳天皇と道鏡の独裁政権が成立しました。
光仁天皇の即位
称徳天皇は、765年(天平神護元年)に重祚(ちょうそ)して、皇位を引き継ぎましたが、病が重くなり、770年(神護景雲4年)8月28日、称徳天皇は崩御しました。
参考画像:称徳天皇高野陵 拝所
同年10月1日、白壁王(しらかべおう)が光仁天皇として即位しました。もうすでに彼は62歳という高齢でした。
しかし、この時も、皇位をめぐって争いがありました。藤原氏南家の藤原仲麻呂は、亡くなりましたが、それに代わって、藤原氏の北家と式家が台頭してきました。
皇位をめぐって、白壁王(しらかべおう)を推奨する北家の藤原永手(ふじわらのながて)と式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)に対して、吉備真備(きびのまきび)などの重臣らとの対立が起きました。
重臣の吉備真備(きびのまきび)は、天武系の子孫である文室浄三(ふんやのきよみ)や文室大市(ふんやのおおち)を推しました。
それに対し、式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)と同じく式家の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)は、称徳天皇の宣命を偽造し、白壁王(しらかべおう)の擁立を強引に推し進めたのです。
その結果、強引に藤原百川(ふじわらのももかわ)の暗躍によって、白壁王が即位し、光仁天皇となりました。
また、政権の座にいた道鏡については、式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)が、称徳天皇の崩御後に、道鏡を追放しました。
光仁天皇は、即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王(おさべしんのう)を皇太子に立てました。
光仁天皇即位の裏側で暗躍する藤原百川
当時、藤原氏の内部では、南家、北家、式家、京家に分かれていました。北家は、藤原房前(ふじわらのふささき)の子孫たち、式家は藤原宇合(ふじわらのうまかい)の子孫たちでした。
北家の藤原永手(ふじわらのながて)は、称徳天皇の信頼が厚く、道鏡に対しても、協力する立場をとり、太政官の筆頭公卿の地位を守りました。
称徳天皇が、白壁王(しらかべおう)との井上内親王との結婚をまとめた後、藤原永手(ふじわらのながて)は、井上内親王や他戸親王(おさべしんのう)を擁護しました。
しかし、北家の藤原永手(ふじわらのながて)は、771年(宝亀2年)、病気のため亡くなりました。(享年58歳) 彼の死によって、藤原氏の均衡が破られました。
最大の問題は、藤原永手(ふじわらのながて)が擁護していた井上内親王や他戸親王(おさべしんのう)の後ろ盾がなくなってしまったことです。
喜んだのは、式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原良継(ふじわらのよしつぐ)たちです。彼らは、北家に対抗するために、山部親王(やまべのしんのう)を擁護し、皇太子としたかったからです。
その目的のためには、井上内親王を皇后の座から引き下ろし、他戸親王(おさべしんのう)から皇太子の資格を奪う事でした。
そこで、考え付いたことが、「呪詛」でした。
井上内親王と他戸親王(おさべしんのう)にとって、光仁天皇に対する呪詛など考えられないことでした。
噂としては、光仁天皇が他戸親王(おさべしんのう)よりも山部親王(やまべのしんのう)を可愛がっていたということがあります。
また、井上内親王は、孝謙天皇(称徳天皇)を頼りにしていましたから、道鏡のことも支持していました。それが原因で、道鏡が失脚した後、井上内親王も藤原氏の式家からは敵対視されていたのかもしれません。
藤原氏の式家は、「いいがかり」をつけて、なんとかして、自分たちの推奨する山部親王(やまべのしんのう)を皇太子にするために、手段を選ばなかったのではないでしょうか。
式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)と藤原良継(ふじわらのよしつぐ)は、呪詛の噂を流し、光仁天皇に井上内親王と他戸親王(おさべしんのう)の廃位をせまりました。しかし、光仁天皇との夫婦関係が悪化していたとか、問題があったという史実も何もありません。
光仁天皇がいくら山部親王(やまべのしんのう)を可愛がっていたとしても、母子ともに皇后の地位や皇太子の地位をはく奪するほどの深刻な問題などあり得ませんでした。
やはり、式家の藤原百川と藤原良継の強引な説得によって、光仁天皇も抵抗しきれなかったのではないでしょうか。井上内親王と他戸親王(おさべしんのう)に対し、772年、皇后の地位や皇太子の地位をはく奪しました。
彼らには、後ろ盾になった北家の藤原永手は、すでに病死し、誰もこの非道な行為に反対する者はいませんでした。おそらく、光仁天皇でさえ反対意見を言えなかったのではないでしょうか。
さらに、773年、天皇の同母姉の難波内親王(なにわないしんのう)が薨去すると、またもや井上内親王と他戸親王(おさべしんのう)に、呪詛の疑いがかけられ、庶民に落とされ、幽閉されてしまいました。
翌年、井上内親王と他戸親王は、幽閉先で急逝しました。同時に亡くなるのは、不自然だといわれ、暗殺説が有力です。
参考画像:井上内親王陵(宇智陵) Mausoleum of Princess Inoe 2012.6.11 is licensed under CC BY-SA 3.0
邪魔者を排除した式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)と藤原良継(ふじわらのよしつぐ)は、早速、山部親王(やまべのしんのう)を皇太子にしようと動きました。
では、なぜ、藤原百川(ふじわらのももかわ)と藤原良継(ふじわらよしつぐ)は、山部親王(やまべのしんのう)を皇太子にしたかったか、その理由について、ご説明いたします。
山部親王(やまべのしんのう)は、光仁天皇と高野新笠(たかののにいかさ)の間に生まれた皇子です。
高野新笠は、父が百済系渡来人の和氏の和乙継(やまとのおとつぐ)で、母は土師氏の土師真妹(はじのまいも)でした。
高野新笠と藤原氏の姻戚関係は、遠い親戚であったか、何らかの繋がりがあったようです。しかし、今までの藤原氏の作戦のように、近い外戚関係を利用して、権力を伸ばす方法はとれなかったと思われます。
そこで、他戸親王(おさべしんのう)がいなくなれば、山部親王(やまべのしんのう)が唯一の皇位継承者になれるので、式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)と藤原良継(ふじわらのよしつぐ)は、どんな卑怯な手を使っても、井上内親王と他戸親王(おさべしんのう)を抹殺することを考えたのでしょう。
多くの災害で井上内親王と他戸親王が怨霊とされる
775年(宝亀6年)、伊勢(三重県)と尾張(愛知県)、美濃(岐阜県)を襲った暴風雨が発生、伊勢神宮にも被害が出ました。
776年(宝亀7年)から778年(宝亀9年)にかけて、天災地変、地震などが発生しました。洪水や干ばつなどで、多くの人々が亡くなりました。
779年(宝亀10年)、周防国(山口県)で、他戸親王(おさべしんのう)の偽者が現れ、人々を恐れさせました。
779年(宝亀10年)、藤原百川(ふじわらのももかわ)が急死しました。このことが、都では、井上内親王が怨霊となって、藤原百川(ふじわらのももかわ)を殺したと言う噂が広がりました。
このため、光仁天皇は、御霊神社を建てて慰霊しました。
井上内親王と他戸親王を祀った御霊神社は、平城京の中央大路にある元興寺の南大門前に建てられました。
しかし、1451年(宝徳3年)、土一揆による火災で焼失し、後に現在の奈良市薬師堂町に移されました。
その他にも井上内親王と他戸親王を祀る神社としては、次のような神社があります。
井上神社(奈良市)・・・元興寺南大門前に建てられた小さな祠で井上内親王と他戸親王を祀っています。
御霊神社(京都市)・・・平安京の鎮護と疫病除けのために建てられました。
しかし、その後も、災害や事件が続き、光仁天皇は、彼らの遺骨を改葬させ、皇后や皇太子と追号するなどして、慰霊をしました。
光仁天皇は、その後、70歳を超えて政務を行いましたが、777年(宝亀8年)病を発したため譲位しました。以後、山部親王(やまべのしんのう)が桓武天皇となり、即位しました。
781年12月、光仁天皇は崩御しました。人生の後半から、表舞台に引き出され、藤原氏の暗躍の中で、苦労を重ねた人生でしたが、やっと安らぐことができたのかもしれません。
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「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「日本で初めて怨霊となった悲劇の皇后」は如何でしたでしょうか?
井上内親王は、結婚や出産の全てが、政治の問題にからむことなので、利権を求める藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原良継(ふじわらのよしつぐ)の陰謀により、非業の最後を迎え、命まで取られてしまいました。
聖武天皇の皇女として生まれ、恵まれた一生であったはずの人生が、ここまで惨めなものになるとは、井上内親王も他戸親王(おさべしんのう)も思わなかったことでしょう。
光仁天皇も、呪詛などあり得ないと思っていたはずです。けれども、藤原百川(ふじわらのももかわ)に反対すれば、どのような陰謀に巻き込まれるかもしれないと思ったのかもしれません。
天皇と皇后という関係が、政争の中で引き裂かれ、非業の最後となった井上内親王と他戸親王は、どんな思いで死んでいったかを思うと可哀そうでなりません。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性40代
多聞先生、この度も鑑定ありがとうございます。
私は前世にたよりすぎているかも、と思っていましたが、先生のおかげで大丈夫なのだと安心できました、ほんとうにありがとうございました。
以前みていただいた彼女の姿、はっきりと眼裏に思いうかびます。
ほんとうに、心も姿も美しい人ですね。
先生、かの人の人生が私にもたらしてくれたモノ、大きいです。
無理に忘れようとは、もう思いません。
どうも有り難うございました。