初恋の婚約者を殺された大姫の悲劇
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年11月6日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、「初恋の婚約者を殺された大姫の悲劇」のお話しです。
現代は、自分の運命は自分で決められることが、当たり前のように思いますが、戦国時代の下では、多くの不運な人生がありました。
頼朝と政子の間に生まれた大姫もその一人です。彼女は、初恋の婚約者を父親の命令で殺されてしまいました。
今回は、そのような大姫の不運な生涯をスピリチュアル的にお伝えしたいと思います。
但し、前半は後白河天皇(法皇)と源氏・平家の関わり合いの経緯を述べていますので、お時間のない方は、頼朝と政子の運命の出会いから、お読みいただけたら幸いです。
後白河上皇の院政に揺れる源平の戦い【保元の乱】
京の都は美しく雅やかな内裏や寺院が並び、その中で天皇や上皇が権力闘争をしていることなど、都大路の荘厳な美しさに見惚れる人々には、想像もつかないことでありました。
皇位継承をめぐる争いは、時には殺し合い、さながら地獄絵巻のような様相を見せて、都の人々を驚かせたりもしたのです。
後白河天皇も権力という魔力に憑りつかれ、鬼夜叉と化したひとりでした。彼は、ある時は源氏を使い、またある時は平氏を使い、多くの武将や女御が殺されていくのを、冷ややかな眼差しで見ていました。
保元元年(1156年)に起こった「保元の乱」(ほうげんのらん)は、後白河天皇(ごしらかわてんのう)と、崇徳上皇(すとくじょうこう)の間で起きました。
参考画像:Emperor Go-Shirakawa2
崇徳上皇は、藤原忠実と藤原頼長や源為義に為朝などを味方にして、保元の乱を起こしました。後白河天皇は、藤原忠通、源義朝、平清盛らが味方について、戦いが始まりました。
この争いの結果、崇徳上皇は敗北し、讃岐に配流とされました。
崇徳上皇は、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)を写経し、京の都に納めてもらおうとしましたが、後白河天皇は、断りました。
後白河天皇は、「呪いのかかったものは受け取れぬ」と言って、写経を崇徳上皇に返しました。これには、崇徳上皇も激怒し、舌をかみ切った血で、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」という言葉を写経に書き足しました。崇徳上皇は恨みを残したまま亡くなりました。
崇徳上皇は、怨霊となり、都に災いをもたらし、人々から恐れられました。それでも後白河天皇の気持ちは揺らぐことはありませんでした。
参考画像:Emperor Sutoku2
後白河天皇は、人間を見分ける特別な鑑識眼を持っており、人の本質を見抜く能力を持っていました。側近の「信西」(しんぜい)を用いたのも、信西が天皇の手先となり、便利に使えたからです。
信西は、同時に貪欲な欲の塊でもありました。彼は、どんな汚い策略でも用いて人を陥れるくらいのことは朝飯前の話で、出家のための墨染めの着物は、彼の心の中の貪欲さを覆い隠しているだけのことでありました。
しかし、後白河天皇には、彼にとって抗しがたい苦手な人物がいました。その人は、鳥羽法皇の皇后で、美福門院(藤原得子)です。
参考画像:美福門院(藤原得子)。鳥羽上皇の皇后。
彼女は、後白河天皇の第一皇子の守仁親王(もりひとしんのう)を、養子にしていました。
それだけでなく、美福門院は、鳥羽法皇が崩御した後、全国の大半の荘園を相続していました。したがって、彼女は絶大な発言権を持っていたのでした。彼女も権力欲にかけては、後白河天皇に負けませんでした。
美福門院は、後白河天皇に対し、譲位を命じました。後白河天皇は仕方なく譲位し、守仁親王を二条天皇として即位させました。
後白河上皇は、なんとか巻き返しをはかりたいと考えました。しかし、側近の信西は美福門院の言いなりでした。これでは、どうにもなりません。
そこで、後白河上皇は、「信西はもう役には立たない」と考え、新たに藤原信頼を側近にしました。信頼は、源義朝と関係が深かったからです。藤原信頼は、義朝の武力を背景に、信西の排除を進めていきました。
平治の乱
そしてついに平治元年(1159年)、平清盛が熊野詣に出かけている隙に、藤原信頼と源義朝は、信西のいる「三条東殿」を襲撃しました。
参考画像:京都・東三条殿のミニチュア模型。
同時に、後白河上皇は、二条天皇がいる内裏に移され、安全を確保されたのちに、三条東殿には火が放たれました。信西は、すぐに京を離れ、山城国まで逃れましたが、追手の兵に追いつかれ、自刃しました。
平清盛は、都の騒ぎを伝え聞き、九州に逃れようと考えましたが、清盛を支える強力な公家たちが京都に戻るように説得し、清盛は京に戻りました。
信西は殺されましたが、後白河上皇と二条天皇の対立は深まるばかりでした。二条天皇は、平清盛と手を組み、後白河上皇側の藤原信頼と源義朝を排除しようとしました。
平治元年(1159年)、清盛は、二条天皇を、内裏から清盛の六波羅邸に移しました。そして、後白河上皇は、仁和寺に移ってもらいました。
六波羅には、清盛の動きを聞いた有力な貴族や摂関家が集まり、さながら官軍のような有様になりました。清盛は、二条天皇から、藤原信頼と源義朝の追討の命令を受け、すぐに行動に移しました。
義朝は、清盛の軍勢に負けて、京を逃れ尾張まで逃げ伸びました。しかし、部下に裏切られ戦死しました。
参考画像:平清盛。
長男の義平も捕縛され処刑されました。藤原信頼も捕縛され処刑されました。これにより、後白河上皇の側近は全て排除されてしまいました。
ところが、二条天皇が病に倒れ、二条天皇の皇子の順仁親王が、2歳で六条天皇として即位しました。
後白河上皇は、内心、嬉しさがこみあげてきました。六条天皇が幼いことを理由にして、再び院政を復活し、政権の座に就こうとしました。
今度は、後白河上皇は、手のひらを返したように、平清盛を重用し、平家一門に重要な地位を与えました。
頼朝の流刑
源義朝が殺され、源氏の一族は危機に襲われました。頼朝は、この時、14歳、義朝の3男で嫡子(正室の長男)でしたので、処刑されても仕方のない運命でした。
しかし、人間の運命とはわからないものです。平清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)の助命嘆願により、命が救われました。
たまたま、幼い頼朝の顔が、池禅尼の亡くなった我が子の家盛に似ていたことから、池禅尼は、断食までして、頼朝の助命嘆願を行いました。
頼朝は、池禅尼の助命嘆願に助けられ、流罪となりました。今若(いまわか)、乙若(おとわか)、牛若(うしわか、のちの源義経)は、寺に預けられました。頼朝は伊豆韮山(いずにらやま)にある蛭ヶ小島に配流となりました。
参考画像:Blank physical map of the Shizuoka prefecture. by Flappiefh is licensed under CC BY-SA 4.0
源氏の子孫を殺さずに流刑としたことが、平家にとっては致命傷となりました。
しかし、もともと、この平治の乱の鎮圧は、二条天皇の命令で、藤原信頼と源義朝を排除するための官軍としての行為であったので、清盛としては、源氏の子孫を全てせん滅する意識は低かったのかもしれません。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「初恋の婚約者を殺された大姫の悲劇」のお話しは如何でしたでしょうか。
戦国時代は、同盟の証として人質を差し出しますが、それが幼い子供であっても、敵となってしまった時は、殺される運命となります。
頼朝は、義高を殺すことに決めました。それを聞いた大姫は、なんと残酷なことをするのかと、父親を恨んだことでしょう。悲しみは消えず、心の病もかかえてしまったのではないかと思います。それは彼女の肉体をも苦しめ衰弱させていきました。大姫の生涯は、あまりにも悲しく短いものとなりました。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性40代
多聞先生、この度も鑑定ありがとうございます。
私は前世にたよりすぎているかも、と思っていましたが、先生のおかげで大丈夫なのだと安心できました、ほんとうにありがとうございました。
以前みていただいた彼女の姿、はっきりと眼裏に思いうかびます。
ほんとうに、心も姿も美しい人ですね。
先生、かの人の人生が私にもたらしてくれたモノ、大きいです。
無理に忘れようとは、もう思いません。
どうも有り難うございました。