初恋の婚約者を殺された大姫の悲劇
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2023年11月6日
1157年(保元2年)、政子は、北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として生まれました。時政は、伊豆国を任せられ、頼朝の監視役となりました。
頼朝と政子の運命の出会い
流刑の身となった頼朝ですが、下の絵を見てもわかる通り、かなりの美男子です。
参考画像:Minamoto no Yoritomo
流刑と言っても、伊豆の地元では、源氏の嫡男として名士の扱いを受け、ある程度の自由行動が黙認されていたようです。そのため、頼朝はかなりの女性関係を持ち、青春を謳歌していたようです。
北条政子は、父親の北条時政が頼朝の監視役という立場を忘れ、頼朝に熱をあげた女性たちの中のひとりでありました。
しかし、北条時政は、娘の政子が頼朝と恋愛関係にあると聞いて烈火のごとく怒りました。頼朝は源氏の嫡子であり、政子との関係が、都に聞こえてしまえば、北条時政も無事ではすみません。
時政は、政子に別れるように説得しますが、政子が言うことを聞きませんでした。
時政は、平氏一族の山木兼隆(やまきかねたか)との縁談を無理やり勧め、政子を山木の屋敷に送り込みました。しかし、政子は、その晩、嵐の中を山木の屋敷を抜け出し、一目散に頼朝の住む屋敷へと走り去りました。
時政は、面目を失いましたが、政子の熱意に根負けしました。政子は、頼朝と結婚し、二男二女の子どもを産みました。
大姫は、源頼朝の長女です。1178年に生まれました。大姫(おおひめ)と言う名称は、長女を意味する通称です。本名は、一幡と言いました。
参考画像:武者鑑別名人 相合南伝二 大姫君
信濃に勢力をのばす源義仲
源義仲(みなもとのよしなか)は、木曽義仲(きそよしなか)の名でも知られています。勇猛果敢な武将として、「朝日将軍」とか「旭将軍」などとも呼ばれていました。また、義仲に仕えた女性の武将として「巴御前」も有名です。
義仲は、河内源氏の一族で、源義賢(みなもとのよしかた)の次男です。義賢は、義朝の弟にあたります。義仲と頼朝は、従兄弟どうしになりますが、仲の良い親族と言うわけではありませんでした。
もともと義賢(よしかた)は京の都で警護の役をしていましたが、部下の失態から責任をとって辞職し、関東の武蔵国に行くことになりました。義賢は、有力者の秩父氏の娘と結婚し、その娘の間にできた子どもが、義仲でした。
参考画像:A portrait of Minamoto no Yoshinaka (Possession of Tokuonji Temple in Kiso Town, Kiso County, Nagano Prefecture)
しかし、関東では同じ源氏であっても、領地争いが激しく、義賢は、1153年に起きた「大蔵合戦」で、義平に殺されてしまいました。
関東に勢力をのばす源頼朝
義朝の嫡子である頼朝(1147~1199)は、平治の乱で、義朝が敗れると、1160年、頼朝は、14歳と言う年齢でもあり、池禅尼の子どもの家盛に似ていたことから、彼女の助命嘆願により、死刑を免れ、伊豆に配流となりました。その後、1177年頃、頼朝は31歳、北条政子(21歳)と結婚しました。
先ほども述べましたが、1178年(治承2年)に、大姫が誕生しました。1180年(治承4年)に大姫が、数え年3歳になった時に、頼朝は挙兵し、東国を制圧して、鎌倉殿と呼ばれるようになりました。
このように源氏の武士たちは、信濃国は、源義仲を中心に勢力を伸ばしていました。また、関東においては、源頼朝が中心となり勢力を伸ばしていきました。
後白河法皇と平家の対立
その頃、京の都では、1176年(安元2年)後白河法皇は50歳となり、正月からお祝い事が続き、平氏一門も宴席に出席しました。
しかし、6月に妻の建春門院の病状が悪化し、7月8日に死去しました。その他、二条天皇の中宮だった高松院や近衛天皇の中宮だった九条院が亡くなり、何かの祟りではないかという不安が、朝廷内を漂い始めていました。
後白河法皇と対立している高倉天皇は母親の建春門院の死により、ますます不安がつのりました。なぜなら、まだ皇子が生まれていなかったからです。
このため、後白河法皇は、高倉天皇を抑え、院政を強化しました。12月の除目では、後白河法皇の近臣らが、平知盛を超えて、蔵人頭に任じられました。
高倉天皇の皇后は、平清盛の娘の徳子(建礼門院)です。1178年に、ようやく安徳天皇を産みます。
参考画像:Emperor Takakura
清盛は、後白河法皇に圧力をかけ、安徳天皇の立太子を急ぎました。1180年には、数え年3歳で践祚(せんそ)し、天皇に即位しました。幼帝の政治の補佐は、平清盛が行いました。
白山(はくさん)事件
朝廷では、清盛が後白河法皇と勢力争いを続けているさなかに、1177年、比叡山の僧兵たちが、藤原師高の配流を求めて強訴しました。
事件の発端は、師高の息子の師常が、延暦寺の末寺の白山(はくさん)湧泉寺と紛争を起こし、寺を焼いたことで延暦寺の僧兵が騒ぎ始めたのでした。
後白河法皇は、師常を流罪にすることで、解決しようとしましたが、僧兵は納得しませんでした。
僧兵の勢いは止まらず、神輿を担ぎだして、内裏に押しかけました。警備にあたっていた平重盛の兵と僧兵たちが衝突し、死者が出ました。
最終的に、師高の配流が決まり、重盛の家来の拘禁ということで決着がつきました。重盛は、警備に当たっていましたが、相手が延暦寺であったので、罪のない家来を拘禁しなければなりませんでした。
参考画像:延暦寺 根本中堂 (国宝), 滋賀県大津市。1642年再建。 by 663highland is licensed under CC BY 2.5
しかし、後白河法皇も負けてはいませんでした。
京の都が大火にみまわれる事件が起きました。この大火を「安元(あんげん)の大火」と言います。この大火で、太極殿や関白の松殿基房以下13人の公卿の邸宅が焼失してしまいました。
このような大火の原因は、延暦寺に原因があるとして、天台座主(てんだいざす)の明雲を、検非違使に命令し逮捕し、座主職を解任しました。
後白河法皇は、明雲の斬首を命じました。ところが、刑場に向かう明雲の行列を僧兵が襲撃して、明雲を奪い延暦寺に連れ帰りました。
これに対し、後白河法皇は激怒し、平重盛と宗盛に対し、延暦寺を攻撃するように命じました。
延暦寺については、前回も後白河法皇でさえ、手を焼いているので、重盛は、父親の清盛に相談しました。
清盛は、後白河法皇と面談し、思い留まらせるように説得しましたが、法皇は納得せず、清盛に対し延暦寺の討伐を命じました。
鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀
清盛は、延暦寺と言うやっかいな敵を相手に、どのように戦ったら良いか考えてしまいました。丁度、その時でした。清盛が出撃をしようとしているところに、多田行綱が駆け込んできました。
「清盛様、一大事でございます」
そして、多田行綱は「西光ら後白河法皇の側近が、清盛様を殺そうと謀議をしているのでございます」ということを密告しました。
驚いた清盛は、延暦寺の攻撃を中止し、直ちに都に兵を向けました。
平家軍は西光を捕縛し、拷問にかけ自供させました。その後、西光を斬首しました。
延暦寺の僧兵は、清盛の兵を待ち構え、清盛と戦う用意をしていましたが、都での話を聞き、西光を殺したことに感謝して、延暦寺に戻りました。
西光の自供により、俊寛、基仲、中原基兼、惟宗信房、平資行、平康頼などの一味が一網打尽にされ、明雲は配流の罪を解かれました。
治承三年の政変
1177年(治承元年)の鹿ケ谷の陰謀により、後白河法皇と平清盛は危機的な関係となりましたが、後白河法皇の責任までは問いませんでした。
そのため、表面的にはふたりの友好関係は続くことになりました。
前述したので、繰り返しになりますが、1178年(治承2年)、高倉天皇の中宮・徳子が第一皇子を出産し、清盛は、皇子を皇太子にすることを後白河法皇にせまり、親王宣旨が下され、言仁(ときひと)と命名されました。
その後、平重盛は体調を崩し、内大臣を辞任しました。その後、重盛は死去しました。後白河法皇は、所領を没収し、平家一門には、官位を与えないという政策を採り続けました。
1179年(治承3年)、怒りに燃えた清盛は数千騎の大軍を動かし、福原から上洛しました。京都は、清盛の軍勢で溢れかえりました。
後白河法皇は、清盛の軍勢に驚き、殺されるかもしれないと思い、今後は政務に介入しないと申し入れました。これにより院政は停止されました。
清盛は、天台座主の覚快法親王を罷免し、明雲を復帰させました。その他、院政派の公卿や院の近臣はすべて逮捕され、所領の没収がなされました。
この時、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)の所領も没収しました。
参考画像:The portrait of Prince Mochihito copied by Ninagawa Chikatane (Ninagawa Noritane) in 1872. A collection of Tokyo National Museum.
以仁王は、もともと高倉天皇の即位に不満を持っていましたので、この清盛の仕打ちに激怒し、平氏討伐を決意し、平氏追討の令旨を全国に出しました。
しかし、以仁王は、1180年(治承4年)に、平家打倒の挙兵を計画しましたが、計画が準備不足のため、このことが平清盛に事前に露見してしまいました。結果として、以仁王と源頼政は宇治平等院の戦いで敗死し、鎮圧されてしまいました。
源氏の挙兵
しかし、一方、1183年(寿永2年)、義仲は、以仁王の平家追討の令旨を受けて、挙兵しました。
義仲は、頼朝と対立していた志田義広と新宮行家を庇護したことから、頼朝とは衝突寸前でした。
しかし、以仁王の令旨に従うために、義仲は、頼朝とは争いをやめることにしました。そこで、息子の義高を頼朝に人質に差し出すことで、両者の和議が成立しました。
大姫と義高の婚約
1183年(寿永2年)、大姫が6歳の時に、頼朝と対立した源義仲との和睦が成立し、義仲の嫡男の義高(11歳)と婚約しました。
義高は、信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女の婿という名目で鎌倉に下りました。
同年、義仲は平氏を破って京の都に入りました。
都の公卿議定において、勲功の評議が行われ、第一位が頼朝、第二位が、義仲、第三位が行家という順位が確定されました。
義仲は、都の治安と改善を命じられましたが、連年の飢饉と荒廃した都の治安は、改善されることがありませんでした。かえって、義仲の軍隊が、長期に都に居座り、略奪行為なども行われ、食糧事情は、さらに状況は悪化していきました。
皇位継承問題に介入し失敗する
後白河法皇は、天皇・神器の返還を平清盛に求めましたが、断られました。 しかたなく、後白河法皇は、惟明親王か尊成親王(後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することを決めました。
参考画像:Emperor Go-Toba
ところが、この人事に関して、義仲は本来、以仁王が即位すべきであったところなので、北陸宮(ほくろくのみや)こそが正当なものだとして、比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てました。
それに対し、朝廷側は、「皇族・貴族にあらざる人」が、皇位継承問題にかかわることを認めませんでした。
結果として、尊成親王が即位することになりました。
後白河法皇は、義仲を呼び出し、都の治安が乱れていることや、平氏が都からは出ていったものの依然として勢力が衰えていないことなどを、責めて平家追討を命じました。
義仲は、皇位継承問題への介入に失敗し、後白河法皇との関係も悪化しました。
一方、頼朝は、朝廷に対し、平家横領の寺社寺の領地を本社への返還や、平家横領の院宮諸家の領地を本主への返還などを申し出ました。
朝廷は、頼朝の申し出に喜び、法皇は頼朝に対し、東海やその他の地域に対する支配権を与えました。
しかし、その話は、西国の義仲にも伝わってきました。義仲は、苦労して平家と戦っているのに、その隙間に頼朝が、褒美をもらっていることが許せませんでした。
そこで、義仲は、平氏との戦いを切り上げて、都に戻り、後白河法皇に苦情を述べました。そして、頼朝追討の命令を求めました。
しかし、義仲の希望は聞き入れられませんでした。逆に、源義経が不破の関(岐阜県のあたり)にまで達したことで、義仲は義経の軍と雌雄を決する覚悟を決めました。
後白河法皇も、延暦寺などの寺社の応援を頼み、院の屋敷の周りを警護させました。さらに、摂津源氏や美濃源氏を引き入れて、さらに軍備を固めました。
後白河法皇は、義仲に対し、「直ちに、平氏追討のため、西国に向かえ、命令に背いて、頼朝軍と戦うのであれば、義仲の個人の資格で行え、もし京に逗留するのであれば、謀反と認める」というような厳しい命令を下しました。
義仲は義経・範頼の戦いに敗死、義高の処刑
源義仲は、こうなった以上、源頼朝が送った源範頼(みなもとののりより)と義経(よしつね)の軍勢が、京の都に入る寸前になったことから、開戦に臨むほかはありませんでした。
義仲は、京の防備を固めましたが、すでに義仲に追随する武将がなくなり、宇治川の戦いや瀬田での戦いに惨敗しました。しかし、この時まで、巴御前は、義仲に従って戦っていました。
義仲は、巴御前に、「お前は女であるから逃げてほしい、自分は討ち死にする覚悟なので、最後に女を連れていたと言われたくない」と言いました。
それでも、巴御前は立ち去ろうとはしませんでしたが、「最後の御奉公でございます」と言って、敵の恩田八郎師重が現れると、馬を倒し、師重の首を斬り落としました。その後は、東国に逃げのびたと言われています。
1184年(寿永3年)、義仲は宇治川の戦いで源範頼と義経の追討軍に敗れ、栗津の戦いで戦死しました。
参考画像:An ukiyo-e of the Battle of Awazu.
義仲が討たれたことにより、義高の立場は、一層悪くなりました。
大姫は、侍女から父の頼朝が、義高を殺そうとしていることを聞き、義高を逃がそうと懸命になりました。
大姫の年齢を考えても7歳の少女がどのように父親の頼朝のことを思ったか、知ることはできませんが、残酷な父親と思ったのではないでしょうか。
義高を逃がすには、どうしたらよいか、それには、同年の側近の幸氏が義高のふりをして、双六などで遊ぶなどして、普段と変わらない生活を見せ、周囲の大人から怪しまれないようにしました。
義高には、女房姿に見せるように、女性の着物を着せて、大姫の侍女たちが囲むようにして、屋敷から連れ出しました。
参考画像:武者鑑一名人相合南伝二 清水冠者義高
大姫は、馬を手配し、蹄には真綿を巻いて、足音を消し、秘かに鎌倉を脱出しました。しかし、このことは、夜になると事が露見してしまいました。激怒した頼朝は、幸氏を捕らえました。
すぐに追手がかかり、義高は数日後、武蔵国で捕まってしまいました。義高はすぐに入間河原で討たれてしまいました。(享年12歳)
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみました。そして病に伏せてしまったのでした。政子は、義高を殺したために大姫が病気になったことを頼朝に強く迫りました。
そのため、頼朝は、義高を討った者を殺しました。そうしたことをしても、義高が生き返るわけではないので、大姫の病気は治りませんでした。幸い、側近であった幸氏と重隆はその後も頼朝に仕え、幕府の御家人となりました。
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「初恋の婚約者を殺された大姫の悲劇」のお話しは如何でしたでしょうか。
戦国時代は、同盟の証として人質を差し出しますが、それが幼い子供であっても、敵となってしまった時は、殺される運命となります。
頼朝は、義高を殺すことに決めました。それを聞いた大姫は、なんと残酷なことをするのかと、父親を恨んだことでしょう。悲しみは消えず、心の病もかかえてしまったのではないかと思います。それは彼女の肉体をも苦しめ衰弱させていきました。大姫の生涯は、あまりにも悲しく短いものとなりました。
人生には、そうした苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性40代
多聞先生、この度も鑑定ありがとうございます。
私は前世にたよりすぎているかも、と思っていましたが、先生のおかげで大丈夫なのだと安心できました、ほんとうにありがとうございました。
以前みていただいた彼女の姿、はっきりと眼裏に思いうかびます。
ほんとうに、心も姿も美しい人ですね。
先生、かの人の人生が私にもたらしてくれたモノ、大きいです。
無理に忘れようとは、もう思いません。
どうも有り難うございました。