紫式部と光る君の藤原道長
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2024年2月5日
紫式部の出世のきっかけ
源氏物語の完成までに、紫式部は、約10年かけました。当初は、身内や友人に読ませる趣味の延長として書いていました。
ところが、内容が面白いということで、宮中で評判になりました。藤原道長が、自分の娘の彰子の教育係にしたら、一条天皇の印象も良くなるだろうという目論見もあり、紫式部を召し抱えました。
源氏物語は、54帖からなる長い小説ですが、主にひらがなを使って書かれています。これは、紫式部と並び称される女流作家の「清少納言」(せいしょうなごん)が、書いた「枕草子」(まくらのそうし)との共通点です。
参考画像:Ilustration of the The Tale of Genji, ch.5–Wakamurasaki, traditionally credited to Tosa Mitsuoki (1617–1691), part of the Burke Albums, property of Mary Griggs Burke
あらすじは、天皇と「桐壺の女御」(きりつぼのにょうご)の間に生まれた主人公「光源氏」(ひかるげんじ)が美しく成長し、学問にも音楽にも才能を発揮するという物語です。
宮中を舞台に繰り広げられる光源氏の恋愛模様は、女房達の間では大人気となります。その評判は、一条天皇の耳にも届き、彰子のもとへ通い、女房から源氏物語を読み聞かせてもらったようです。
紫式部日記に記されたライバルへの批評
「紫式部日記」は、紫式部が、寛弘5年(1008年)から寛弘7年(1010年)までの宮中の様子を、日記と手紙で記録したものです。源氏物語の評判や同僚の女房達の人物評などが書かれています。
後輩の「和泉式部」(いずみしきぶ)に対しては、私生活に苦言を言いつつも才能を評価しています。
参考画像:Izumi Shikibu 11th century Japanese poet
「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。」
(訳:和泉式部という人は、趣のある手紙のやりとりをした人です。しかし、はしたない面もありますが、親しみのある手紙をさらりと書くことができる人です。なにげない言葉に趣があり、歌はとても上手です)
「紫式部日記」より
ところが、清少納言だけは以下の通り、痛烈に批判しています。
「したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだ足らぬこと多かり」
(訳:頭が良さそうに振舞っているけれど、漢字の間違いも多く、大したことはない)
「紫式部日記」より
2人が宮仕えした年代が10年近く離れているため、実際に面識はなかったと考えられています。
面識がないにもかかわらず、紫式部が清少納言をけなした理由は、清少納言が、漢文の知識をさらけ出すタイプに比べて、紫式部は、さりげなく知識を教養として表現するタイプですので、「本当に、まったく厚かましい」と感じて、よほど気に入らないというか、癇に障る感じがしたのかもしれません。
前項のところでも、枕草子の中で、清少納言が、紫式部の夫の藤原宣孝を批判したことも、紫式部にとっては、面白くなかったかもしれません。
紫式部日記に記された自分に対する思い
紫式部日記には、紫式部の個人的な思いが書かれています。紫式部も自分のこととなると、内向的な言葉で書かれることが多いようです。
原文は長いので、その一部を抜粋し、大意を示しますと次のようになります。
(誤りがあるかもしれませんが、ご容赦願います)
「自分のことについては、思い出となるようなものもなく、ただ過ごしてきた自分は、特に将来、頼れるところもないので、慰める言葉もないけれども、せめて、荒んだ気持ちで振舞うようなことはしたくありません。
月を見ても、かえって照らし出される自分に災いがあるような気がして奥の部屋に引きこもり、物思いにふけることが多いです。風の涼しい夕暮れなど、自分では上手くはないと思っている「筝」(琴のような楽器)をかき鳴らしては、今、自分が嘆き悲しんでいていることを誰が知るだろうかと思うと、くやしくもありますが、我ながら哀れに感じることもあります。
(中略)
部屋には、いろいろな書物が積んでありますが、虫などが食い荒らしているので、見る気にもなりません。漢籍などもありますが、夫が亡くなってからは、触ることもありません。たまに、一冊か二冊取り出して読んでいると、女房達が集まって来て、「あなた様は、このようなことをしているので、お幸せが少ないのです。どうして漢文などをお読みになるのですか。昔は、経文を読むことさえ止めさせたものですよ」と悪口を言いたてています。
(中略)
万事につけ、人はそれぞれに違うものです。 他人の中に入って言いたいこともありますが、理解できない人に言っても無益なことです。人を非難することも、何か言うことは煩わしく億劫なことです。
わざとわからないふりをしていると、「このような人だとは思いませんでした。近寄りがたく、よそよそしい態度で、人を見下すような人と思っていましたが、このようにおっとりして、別人かと思いましたよ」と言われたりします。
中宮様からも「とても気を許せない人と見えましたが、そうではなく、とても親しくなりましたね」と仰せになることが時々あります。
(中略)
総じて女性は穏やかであるべきです。あるいは、好色っぽい人も軽薄ではありますが、人柄が良ければ憎くはありません。
反対に、自分こそは、他の人とは違うなどと奇異なふるまいをしている人は、態度が大げさで目立ちたがり屋です。そういう人は、必ずものを言えば、欠点が見つけられ、注目されないようになってしまうものです。
この内容から、紫式部の性格がよく表れていると思います。
他人との関係をわずらわしいと思いながらも、自分をよく見せようとか、他人を押しやるような厚かましい性格ではありません。
自分の得意なところを隠して、目立たないように気を使っているのが、そこまでしなくても良いのではないかと、可哀そうにもなります。
紫式部日記は、まだ続きますが、最後の方の記述には、仏教に帰依して、救いを求める気持ちを強く持っていたようです。
藤原道長との歌のやりとり
次の歌は、道長が、紫式部に対して、源氏物語の作者だから、紫式部は好色な女性なのではないかと誤解した歌のようです。
「すきものと、名にしたてれば、見る人の、折らで過ぐるは、あらじとぞ思ふ」
(訳:あなたは好色な人と言われているので、会った人は、口説かない人はいないでしょう)
道長から紫式部への贈答歌
物語が好色であっても、それを考え出すのは、創作の苦しみを知らない人の言葉と言っても良いかもしれません。以下は、紫式部の返歌となります。
「人にまだ、折られぬものを、たれかこの、すきものぞとは、口ならしけむ」
(訳:誰にもまだ口説かれていないのに、いったい誰が私を好色だと言っているのですか)
紫式部の返歌
誰にも口説かれたこともないし、恋人もいません。(道長様以外にという思いがあったかどうかは分かりませんが)
昔の和歌のやりとりは、最初は、好きであっても、つれない返事をするのが、マナーであるとされていました。そうすることで、男性の気持ちをさらにかき立てる効果があったのかもしれません。
その他にも、道長と紫式部の贈答歌には以下のようなものがあります。
「よもすがら、水鶏よりけに、なくなくぞ、槙の戸口に、たたきわびつる」
(訳:一晩中、水鶏よりも、鳴いて、槙の戸口をたたいたのに、寂しい思いをしました)
道長から紫式部への贈答歌
背景事情を説明すると、ある晩、誰か戸口をたたく人がいるので、紫式部は、怖くて開けられませんでした。
翌朝、道長から手紙が届きました。戸をたたいているのに、どうして開けてくれなかったのか、という歌です。
これに対し、紫式部は以下のような歌を返します。
「ただならじ、とばかりたたく、水鶏ゆゑ、あけてはいかに、悔しからまし」
(訳:異常なほどに戸をたたく、あなた様なので、開けてしまったら、どんなに後悔したことかもしれませんよ)
紫式部の返歌
夜中に、ドンドンけたたましく戸をたたけば、何事かと思うでしょう。あなた様とも分からないし、もし開けて、強盗の類であれば、後悔してしまうことになりかねないでしょう。前もって、来るなら来ると言って下さいよ。
藤原道長は、他の公家たちと違って、豪放磊落な性格でしたから、前もって和歌を送り、あなたに会いたい、せつなくてたまらないというような歌は作れなかったかもしれません。会いたいと思ったら、直接、行動に移すのが彼の性格のようでしたから、恋の切なさや未練たっぷりな思いなどとは無関係な性格のような気がします。この時は、無性に紫式部に会って、話がしたいと思ったのではないでしょうか。
反対に、紫式部の方は、心理的に「蛙化現象」を起こしたのかもしれません。
「蛙化現象」とは、心理学用語で、好意を抱いている相手が、自分に好意を持っていることがわかると、逆に嫌悪感を持つようになる現象を言います。
「蛙化現象」は、次のような原因で起きると言われています。
- 相手が性的な対象として見ていると思うことで嫌悪感を覚える。
- 相手の悪いところが気になって嫌いになった。
- 好きだと思う気持ちはあるが、相手の急接近で嫌いになる。
- 実は好きではないと気が付いた。
- 恋愛関係よりも自分自身の時間を大切に思う。
- 追いかけているうちは、楽しかったが、追いかけられると冷めてしまった。
紫式部が藤原道長に「蛙化現象」を生じたかどうかは不明ですが、道長の急接近には恐怖感を感じてしまったかもしれません。
「蛙化現象」の元になった話は、グリム童話に出てくるカエルのお話しです。
ある日、お姫様が森の中の池のそばで、マリが、池に落ちてしまい困っていると、カエルが出てきて、水中から拾い出してあげました。
カエルは、ボールを拾ったごほうびとして、一緒に食事をすることや、ベッドもいっしょにするという約束をしました。
お姫様は、嫌々ながらカエルの言うとおりにしますが、ベッドの中のカエルをつかんで、壁にたたきつけました。
すると、カエルは、魔女のかけた呪いが解けて、美しい王子様に変身し、お姫様も驚いてしまいました。
王子様にかけられた魔法を解いたことで、二人は結婚して幸せに暮らしました。
そういうお話しであったと思いますが、グリム童話の場合は、愛し合う二人となりますが、心理学用語の「蛙化現象」は、逆の現象が起きてしまいます。
藤原道長の出世は、偶然の幸運が重なった?
藤原道長は、康保3年(966年)に生まれ、万寿4年(1028年)に亡くなりました。父親は、藤原兼家です。彼は関白にまで出世した人です。道長は、兼家の5男として生まれました。
参考画像:Fujiwara no Kaneie (藤原 兼家), third son of Fujiwara no Morosuke, was a kugyo of the Heian period who served as Sessho and Kampaku, regent positions.This picture was drawn by Kikuchi Yosai(菊池容斎) who was a painter in Japan.
道長には、道隆と道兼という強力な兄たちがいました。藤原道隆は、長男として生まれ、性格も良く、優秀な人でしたので、摂政・関白に出世しました。
道長は、二人の兄が健在中は、目立った官位も与えられませんでした。
道長が、出世のチャンスを得ることができたのは、奇跡というか、偶然に恵まれたところがあります。
簡単に、その経緯を言えば、父親の兼家や道隆、そして道兼が、病気で亡くなり、次に道隆の長男・伊周(これちか)との後継者争いに勝ち、道長の出世が可能になったということです。
まずは、道長の父親の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)のお話しからしていきます。
藤原兼家は、村上天皇を義兄に持ち、出世に恵まれた人でした。当時、摂政であった兄の藤原伊尹(いいん)からも重用され、正三位大納言に引き立てられました。
ところが、藤原伊尹が病気のため摂政を辞任すると、兼家と仲の悪い次兄の藤原兼通との争いとなりました。
なんと円融天皇の前で、大声で喧嘩を始めるという事態を招き、円融天皇は、この二人をはずし、藤原頼忠に内覧(摂政・関白と同じような役目)を任せようとしましたが、最終的に兼通に内覧が決まりました。
兼通が内覧になると、仲の悪い兼家の昇進も止められ、不遇の時代をすごしました。
その兼通が病気に倒れ、余命がないとされた時に、兼家は、禁裏に参内しました。兼通は、病気見舞いに来たのかと思っていましたが、兼家は、兼通の家に寄らずに通り過ぎてしまいました。
激怒した兼通は、病を押して宮中に参内し、最後の除目を行い、頼忠を関白とし、兼家を格下げしてしまいました。その後、兼通は亡くなりました。
そのため兼家は、不遇の時代が続きましたが、諦めずに虎視眈々と起死回生のチャンスを狙いました。その結果、娘の詮子(あきこ)を円融天皇の女御に入内させることに成功しました。
さらに藤原頼忠が太政大臣に進むと、兼家は右大臣に引き上げられました。しかも、その後、詮子(あきこ)は懐仁親王(やすひとしんのう、後の一条天皇)をもうけたのです。不遇であった兼家には有利な状況となりました。
しかし、永観2年(984年)、円融天皇は、花山天皇(かざんてんのう)に、突然、譲位しました。兼家には、寝耳に水のような出来事です。またもや、出世の機会が危うくなりました。
新帝の花山天皇の補佐役として、藤原伊尹の5男である藤原義懐(ふじわらのよしちか)が、任命されました。義懐は、花山天皇の叔父にあたります。関白は、藤原頼忠でしたが、彼の立場は弱くなる一方でした。
藤原兼家の策謀(寛和の変)
花山天皇は、即位後、藤原義懐(よしちか)の補佐を受けて新政策を展開していきました。ところが、寛和元年(985年)に、寵愛していた女御の藤原忯子(よしこ)が急死し、政治に対する意欲を失い、出家を考えるようになりました。
その話を聞いた藤原兼家は、花山天皇さえいなくなれば、皇太子の懐仁親王(やすひとしんのう)を即位させてしまえば、自分は外祖父として、出世のチャンスになると考えたのでした。
兼家は、自らの摂政就任を早めるためには、無理やりにでも、花山天皇の出家を早めてしまおうと考えました。
そこで、藤原兼家が、寛和2年(986年)に花山天皇を無理やり出家させた事件を起こしました。この事件を寛和の変(かんなのへん)と言います。
無理やり出家させられた花山天皇
皇太子の懐仁親王(後の一条天皇)の外祖父であった藤原兼家は、今がそのチャンスとばかり、弱気になった花山天皇を出家させるには、どうするか、頭の中は、計略が巡りまわりました。
そして、早速、兼家は、3男の道兼ならば、この大役をこなせるだろうと確信しました。道兼を呼び、兼家は、花山天皇に出家を勧めるための策略をさずけたのでした。
道兼は、父親の大胆な策略に驚きましたが、彼も当然、懐仁親王が天皇になれば、出世は意のままです。彼は、「おまかせください」と言い放ち、花山天皇のもとへ急ぎます。
道兼が、花山天皇に慰めの言葉をかけ、出家を促しますが、気の弱い花山天皇は、出家の決心が揺らぎ、決心がつきませんでした。
そこで、道兼が「わたくしもお供して出家致しますのでご安心ください」と言って、優しく花山天皇を慰めたのでした。すっかり、信用した花山天皇は、寛和2年6月23日の明け方、道兼とともに、花山天皇は、秘かに内裏を抜け出し、山科の元慶寺に向かいました。
途中、気に迷いが出たのでしょうか、時々、立ち止まる花山天皇を無理やり元慶寺に引き入れ、予め僧侶に言い含めておいた通り、すぐに剃髪させ、出家させてしまいました。道兼は、出家する前に、父の兼家に別れを告げてくると言って、元慶寺を出ていきました。
しかし、道兼はいっこうに戻ってくる気配がありません。「さては、だまされたか」と思いましたが、時すでに遅く、宮中においては、皇太子の即位が準備されていたのでした。
幼い懐仁親王が即位して、一条天皇となる
兼家は、花山天皇の後姿を見送り、長男の道隆に、清涼殿に残された三種の神器を皇太子の居所である凝花舎に移させ、内裏の門を封鎖させました。
驚いたのは藤原義懐(よしちか)でした。義懐が元慶寺に駆け付けた時には、すでに花山天皇は、出家をすませていました。義懐は泣く泣く、自身も出家しました。
この結果、当時の関白であった藤原頼忠も失脚し、藤原兼家が摂政となりました。
兼家の思い通り、幼い懐仁親王(やすひとしんのう)が即位して、一条天皇となりました。外祖父となった兼家は摂政に任じられました。功労者としての道兼は、参議となり、最終的に、正二位権大納言と、スピード出世をしていきました。
永祚2年(990年)、道隆は、長女の定子(さだこ)を一条天皇の女御として入内させました。兼家が病気を理由に関白を辞めると、道隆が関白となりました。
正暦元年(990年)、兼家が死去すると、長兄の道隆が関白となったので、3男の道兼との喧嘩が始まりました。確かに、花山天皇を出家させた一番の功労者でしたが、長兄の道隆に関白が決まりました。
道兼はふてくされて、喪中であったのにもかかわらず、遊興にふけったといわれています。
冷静さがあれば、藤原伊周(これちか)が関白
それから、5年後、長徳元年(995年)、関白となった道隆は糖尿病が悪化してしまいました。
藤原道隆には、嫡子に藤原伊周(これちか)がいました。藤原伊周は、学才が高く、文章の才能に優れ、一条天皇にも気にいられていました。
参考画像:『石山寺縁起絵巻』第3巻第1段より藤原伊周
伊周はスピード出世をします。わずかな期間に正三位権大納言に出世しました。
さらに、8歳年上の道長を飛び越えて内大臣に昇進しました。この時、伊周は21歳でした。
道長を応援する一条天皇の母親・詮子
あまりのスピード出世に、一条天皇の母親である東三条院詮子(道隆の妹)をはじめとして、朝廷の内部では不満が募りました。
その後、長徳元年(995年)4月10日、道隆の病気は回復せず、亡くなってしまいました。
ようやく、道隆の弟の道兼に幸運が舞い込みました。待望の関白に就任しました。ところが、わずか数日後に、道兼も疫病のため、病死してしまいました。そのため、「七日関白」と呼ばれています。
道兼の没後、わずか3日後に、権大納言であった道長に、内覧の宣旨が下りました。この人事の背景には、一条天皇の母親である藤原詮子の推薦がありました。
一条天皇を説得するのに、一晩中かかったと言われています。あまりに長いので、道長は諦めかけていたのですが、ようやく、明け方になり、詮子が出てきて、「あわや宣旨下りぬ」(やっとのことで内覧の宣旨が下りましたよ)という逸話が残っています。
冷静さを欠いた伊周の長徳の変
そのような微妙な時期に、大変な事件が起きました。
事件の経緯は、長徳2年(996年)に、道隆の嫡子である藤原伊周(これちか)が通っていた故太政大臣の藤原為光の娘、三の君と同じ屋敷に住む四の君に花山法皇が通い出しました。
その話を聞いた藤原伊周は、何を間違えたか、花山法皇が三の君に会いに行っていると誤解してしまいました。伊周は、嫉妬に狂い、弟の隆家に相談しました。
隆家は、真偽を確かめることもせず、従者をつれて法皇の一行を襲ったのでした。従者の射た弓矢が花山法皇の衣の袖を射抜きました。花山法皇の従者の童子二人は殺されてしまったそうです。
花山法皇は、出家の身でもあり、女性関係が露見することを恐れ、閉じこもってしまいました。ところが、この事件の噂は広まり、藤原道長の耳にも聞こえてきたのです。
藤原道長は、早速、隆家が出雲権守に左遷させ、伊周に対しては、禁止されている呪術の大元帥法を秘かに行ったとして、太宰権師(だざいのごんのそち)に左遷させたのでした。
得意の絶頂を極めた藤原道長
藤原伊周とは対照的に、栄華を極めた藤原道長は、有名な望月の歌を残しています。
「この世をば、我が世とぞ思ふ、望月の、かけたることもなしと思へば」
(訳:この世というものを私の世の中と思う、この満月のように欠けたところが、何一つないと無いと思えば、まったく文句のつけようはない)
藤原道長が残した「望月の歌」
この歌は、藤原道長の歌とされているのですが、道長が書き残したものではなく、藤原実資(ふじわらのさねすけ)という人が、自分の日記の「小右記」(しょうゆうき)に書き残したものです。
その「小右記」には、この歌が寛仁2年(1018年)10月16日の夜の祝宴で詠まれたものだと書かれているのです。その祝宴とは、後一条天皇が、11歳となり、道長は三女の威子を女御として、入内させました。その威子(たけこ)が、10月に中宮になったので、お祝いをしたというわけです。
道長は、即興でこの歌を作り、実資(さねすけ)に聞かせ、返歌を求めたようですが、実資は返歌を断って、集まった人々に、繰り返し何度も詠うことを提案したそうです。一同、それは良いことだと賛成し、何度も唱和したそうです。
確かに道長の娘たちは、三人の天皇の中宮となりました。一条天皇には、長女の彰子、三条天皇には、次女の妍子(きよこ)、後一条天皇には、四女の威子が、中宮となり、道長は、三代にわたり、皇后を立て栄華を極めたのでした。
しかし、道長の健康面では、衰えが出てくるのは仕方がありません。この歌が詠まれる前年の寛仁元年(1017年)には、太政大臣を辞任し、寛仁3年(1019年)には出家をしています。
まだ54歳でしたが、命の衰えを感じていたのかもしれません。道長がなくなったのは、62歳です。全てをやりつくした人生に満足していたのではないでしょうか。
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「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「紫式部と光る君の藤原道長」のお話しは如何でしたでしょうか。紫式部は、藤原道長を、光る君のモデルとして、源氏物語を書きましたが、実際に恋愛関係になったかどうか、は不明です。どちらかというと、彰子の家庭教師としての面が、強いのではなかったかと思いますが、皆様はどのように感じられたでしょうか。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。華やかな宮中での生活の中で、優雅な和歌のやり取りに、恋心を託したり、失恋をしたりと、源氏物語の世界は、色とりどりの夢の世界を私たちに与えてくれるファンタジーとも言えるのではないでしょうか。
人生には、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
初めて鑑定して頂きましたが、とても温かく穏やかな先生でした。復縁について視て頂きましたが、詳しく丁寧に教えて下さり、またこれからの流れを具体的に教えて頂きました。そんなことまで視えていらっしゃるのかと驚きました。復縁は諦めようかと思っていましたが、諦める必要は全く無いと言って頂き、頑張る勇気を頂きました。また視ていただきたいです。本当に有難うございました。
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