紫式部と光る君の藤原道長
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2024年2月5日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、大河ドラマで人気好調の紫式部と藤原道長について、お話ししたいと思います。
源氏物語の作者としての紫式部が、どんな人であったのかということも大変、興味が惹かれますが、光る君のモデルとして、藤原道長の活躍も、とても楽しみにされている方も多いと思います。
では、実際、紫式部と藤原道長は、どんな人生を送ったのか、その断片ではございますが、お話しをしていきたいと思います。
紫式部の生い立ち
まず、紫式部の生い立ちから、お話し致します。
参考画像:Murasaki Shikibu composing Genji Monogatari (Tale of Genji) by Tosa Mitsuoki (1617-1691).
紫式部の父親は、藤原為時(ふじわらためとき)です。彼は下級の貴族でしたが、文学や歴史の知識が豊富な人でしたので、花山天皇(かざんてんのう)に漢学を教えました。
紫式部の母親は、摂津守の藤原為信(ふじわらためのぶ)の娘です。天禄元年(970年)に藤原為時(ふじわらのためとき)と結婚し、紫式部や藤原惟規(ふじわらののぶのり)をもうけました。
しかし、紫式部の母親は、惟規(のぶのり)を出産した天延2年(974年)に亡くなったとも伝えられています。
紫式部の生年月日は不明ですが、母親が結婚した天禄元年(970年)から、惟規(のぶのり)を出産した天延2年(974年)の間に生まれたのではないかと言われています。
紫式部の名前の由来は、父親が「式部省」(しきぶしょう)という行政機関の役人であったことから、つけられた名前です。
また、紫というのも色が名前になることも珍しく、彼女の源氏物語に出てくるヒロインの「紫の上」(むらさきのうえ)にちなんだものではないかと言われています。
天才少女・紫式部の短い結婚
紫式部は、幼い時に、弟の惟規(のぶのり)といっしょに漢文を勉強していた時に、紫式部が、難しい漢文を即座に覚えてしまったので、父親からは、「この子が男の子であったなら、さぞ将来が楽しみなことであったのではないかと思うと残念だ」と惜しまれたようです。
父親に、それほどまでに惜しまれた紫式部の優秀さはどれくらいか、ということが気になりますが、下衆の勘ぐりではありませんが、弟の惟則(のぶのり)と比較してみると、彼女の優秀さが際立っていたことが分かります。
弟の惟規(のぶのり)は、宮中では、優秀な学生として、文章生(もんじょうしょう)となり、少内記や兵部丞や式部丞を歴任した人で、従五位にもなりました。
歌人としても優れた歌を残し、「後拾遺和歌集」には、彼の歌が3首、「勅撰和歌集」に10首が採録されています。家集に「藤原惟規集」があります。
優秀な歌人でもあり、官吏とも言える人なので、惟規よりも紫式部が、優れていたというのであれば、彼女は、相当に高い知能指数の持ち主であったのかもしれません。
ただ頭の良さを鼻にかけるタイプの清少納言に比べると、奥ゆかしさと謙虚さがある女性と言えそうです。
紫式部は、20代半ばに、長徳4年(998年)頃、山城守の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚しました。
長保元年(999年)に一女・藤原賢子(ふじわらのけんし)をもうけました。彼は、その時、50歳を越えていたと言われています。
夫の宣孝は、名門の藤原北家の人で、官位は正五位下・右衛門権佐という官職の人です。残念なことには、長保3年4月15日(1001年)、結婚から3年ほどで亡くなってしまいました。
将来を嘱望されていた人なので、紫式部にとっては、これからが幸せな夫婦としての始まりとされる時期に、亡くなってしまうのは悲しい出来事になったと思います。彼女の「紫式部集」には、夫の死に伴い、呼んだ歌があります。
「見し人の、けぶりとなりし、ゆうべより、名ぞむつましき、塩釜の浦」
(訳:愛していた夫が、火葬となって、あのように煙となって消えてしまった夕べから、なにかしら身近に思われる陸奥の国の塩釜の浦のように)
「紫式部集」より
命のはかなさを煙にたとえて、塩釜は、海藻を焼いて塩をとることで有名な所ですが、その塩釜の焼き塩をする時に煙が立つことに、思いを馳せた感じがよくわかる歌だと思います。
紫式部にとっては、かけがいのない夫だったのですが、清少納言は、「枕草子」の中で、藤原宣孝のことを、あまり良くは言っていないようです。
参考画像:錦絵画集『東錦絵末広五十三駅図会』より
清少納言は、枕草子の中で、「御嶽詣での前に精進している姿を見るのは、しみじみとして良いので、身分の高い人でも質素ななりをして参詣するものだと聞いています」
と前置きがあり、次に、藤原宣孝を批判しています。
「右衛門の佐、宣孝と言う人は、清潔な着物を着て参詣すれば、良いのではないか、わざわざ御嶽の蔵王権現様が、みすぼらしい着物で参れと言うはずもないではないか、と言って、派手な着物を着て、息子とともに参詣したそうですが、他の人に聞いても、そんな姿は見たことがないと呆れたと聞いていますが、参詣から1か月後に、筑前の守に任じられたので、人々は、宣孝の考えは、もっともなことだと評判になった」と書かれているそうです。
神様の前に詣でる場合は、敬虔な気持ちや態度が良いという清少納言に対し、藤原宣孝は、貧乏くさい格好で行かれるものか、という気持ちで、派手な格好で、参詣したのではないか、という不遜な態度に問題があると言っているようです。
この中に出てくる「御嶽神社」は、「蔵王権現」を祀った神社です。蔵王権現は、日本独自の修験道の神様です。奈良県の吉野山にある金峰山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られています。
蔵王権現は、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が、権化して出現したとされています。神道における大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、国常立尊(くにのことたちのみこと)、安閑天皇(広国津建金日命(ひろくにつけきんのみこと)、金山毘古命(かなやまひこのみこと)と習合し、同一視されました。
枕草子に書かれているように、蔵王権現を参詣した藤原宣孝は、すぐに筑前の守に任じられています。霊験あらたかな神様と言えるでしょう。
夫の死後に書き始めた源氏物語
紫式部は、夫の死後、「源氏物語」を書き始めたようです。「源氏物語」は、評判となり、藤原道長の耳にも入りました。
参考画像:Fujiwara no Michinaga
紫式部は、その評判を聞いた藤原道長に召し出され、寛弘2年12月29日(1006年)、もしくは、寛弘3年(1007年)、彼の娘で、一条天皇の中宮となった彰子に仕えるようになりました。
その後、紫式部は、寛弘8年(1012年)頃まで、彰子に仕えました。一条天皇も「源氏物語」には、大変興味を持ったそうで、彰子に会う機会も増えたようです。
一条天皇は、源氏物語を読んで、「この作者は、日本紀をよく読んでいるようだ」と言って、日本紀の御局というあだ名をつけました。当時は、女性が漢文を読むことは、生意気な女性だと思われたので、本人は内心、得意な気持ちもありながらも、苦痛だったと感じたようです。
また、最近の研究によって、彰子の女房になる前に、永延元年(987年)に、藤原道長の正妻の源倫子(りんし)に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指摘されています。
道長と倫子が結婚した経緯は、道長がとてもイケメンで、倫子の母親が、とても気に入ったからと言われています。
「源氏物語」の解説書の「河海抄」(かかいしょう)、「紫明抄」(しめいしょう)、「今鏡」(いまかがみ)などには、紫式部の経歴として、倫子付きの女房であったことが記されているそうです。
紫式部の没年
紫式部の没年も定かでなく、寛仁3年までは、存命とされ、亡くなった日については、研究者ごとにさまざまな説があるようです。長和3年(1014年)頃、40歳ぐらいで亡くなったと言われています。
清少納言が、966年頃の生まれで、亡くなったのが1025年頃ですので、60歳ぐらいまで、生きたとすれば、紫式部は短命であったようです。
紫式部のお墓は、京都市北区紫野西御所田町という所にあります。小野篁(おののたかむら)のお墓と隣り合わせになっています。
参考画像:小野篁卿墓・紫式部墓所 is licensed under CC0 1.0
小野篁は、少し変わった人物です。平安初期の公卿であり、優秀な人でしたので、遣唐使に選ばれましたが、それを断ったので、嵯峨天皇を怒らせてしまい、隠岐国に流罪となりました。その後、許されて公卿に戻ることができました。
隠岐の島に流罪となった小野篁が歌った和歌は、百人一首にも納められました。
「わたの原、八十島(やそしま)かけて、漕ぎ出でぬと、人には告げよ、海人の釣舟」
(訳:私は流罪の刑を受け、大海原に浮かぶたくさんの島々をめざし、隠岐の島に向けて、漕ぎ出したと、都の人々には伝えてください、漁師の釣り船よ)
小野篁が歌った和歌
小野篁には、面白い逸話があります。昼間は朝廷で仕事をして、夜は地獄で閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたと言われています。
あの世に行くのには、井戸を使ったそうです。その井戸とは、京都東山の六道珍皇寺(ろうくどうちんのうじ)と京都嵯峨の福正寺にあったとされています。六道珍皇寺では、この井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼んでいます。
紫式部と小野篁との因縁は、愛欲を描いた紫式部は、地獄に落とされたそうですが、小野篁が閻魔大王にとりなし、地獄から救ったというお話が残っています。
紫式部日記には、18首、その他にも多くの和歌を残しています。源氏物語には、彼女の和歌が795首も読み込まれています。
百人一首に収められている和歌は、広く知られています。
「めぐりあいて、見しやそれとも、わかぬまに、くもがくれにし、夜半の月かな」
(訳:幼友達にせっかくめぐり合えたのに、それが貴女だと分かるまでに、あなたは、夜の月のように雲隠れしてしまいました)
「源氏物語」より
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
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得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「紫式部と光る君の藤原道長」のお話しは如何でしたでしょうか。紫式部は、藤原道長を、光る君のモデルとして、源氏物語を書きましたが、実際に恋愛関係になったかどうか、は不明です。どちらかというと、彰子の家庭教師としての面が、強いのではなかったかと思いますが、皆様はどのように感じられたでしょうか。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。華やかな宮中での生活の中で、優雅な和歌のやり取りに、恋心を託したり、失恋をしたりと、源氏物語の世界は、色とりどりの夢の世界を私たちに与えてくれるファンタジーとも言えるのではないでしょうか。
人生には、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
お客様から頂いた口コミ
女性50代
初めて鑑定して頂きましたが、とても温かく穏やかな先生でした。復縁について視て頂きましたが、詳しく丁寧に教えて下さり、またこれからの流れを具体的に教えて頂きました。そんなことまで視えていらっしゃるのかと驚きました。復縁は諦めようかと思っていましたが、諦める必要は全く無いと言って頂き、頑張る勇気を頂きました。また視ていただきたいです。本当に有難うございました。
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