源氏物語・若紫の笑訳
執筆した占い師:多聞先生
更新日:2024年6月7日
皆様、こんにちは。多聞でございます。
今回は、前回に引き続き、紫式部の「源氏物語」の中の「若紫」(わかむらさき)の帖について、お話をしたいと思っております。
この帖では、源氏の恋の対象は、10歳ぐらいの少女です。源氏は、その少女を理想の女性に育て上げたいという願望を持ちました。源氏は、18歳ぐらいでした。あこがれの藤壺の上に、そっくりな少女を見て、なんとしても自分のものにしたいという気持ちになりました。
この帖でも、紫式部の才能が余すところなく発揮されています。彼女の心理分析は、源氏の心の奥深く入り込み、複雑な心の描写に驚かされます。少女に対する源氏の熱心な思いが、どのようなものであるのか、若紫をお読みいただき、お楽しみいただきたいと思います。
若紫(わかむらさき)のあらすじ
「若紫」の帖も、物語としては短いものですが、たくさんのエピソードが、書かれています。源氏は、ある種の熱病にかかり、北山の寺に祈祷をしてもらうために出かけます。そこで、偶然、美しい少女を発見しました。彼女は、藤壺の上にそっくりでした。源氏は、どうしても、その少女を引き取りたいと思い、保護者の尼君に交渉しますが、断られてしまいます。
源氏は、それからしばらくたって、尼君が亡くなったことを聞きました。少女は、父親が引き取る予定でしたが、意地悪な継母がいるというので、源氏は少女を誘拐することにしました。
参考画像:伝土佐光起筆『源氏物語画帖』若紫 スズメが飛んでゆくほうを眺める紫の上、尼君、侍女らがいる僧都の家を外から垣間見る光源氏
大胆な行動の動機は、源氏の藤壺に対する愛でした。しかし、それは、許されない愛であり、不倫だったからです。若紫は、藤壺にそっくりな顔を持ち、源氏になつきました。彼女を誰かに取られてしまうことは、源氏にとって耐えがたいことであったのです。源氏は、最終的に若紫を誘拐し、自身で育てることにしました。
熱病の治療に北山に出かけた源氏
源氏の年齢は、18歳ぐらいです。源氏は病気にかかってしまいました。現代に生きる私たちには、日本で、マラリアのような病気だと言われてもピンときませんが、平安時代には、マラリアが、流行したようです。
敦良親王(あつながしんのう)や藤原頼道(ふじわらのよりみち)などが、マラリアにかかったそうです。敦良親王(1009~1045)は、藤原道長の孫にあたります。彼は、一条天皇の第3皇子でした。母親は、藤原彰子です。彰子の弟が、藤原頼道(992~1074)です。彼は関白として威勢を振るいました。敦良親王は、後の後朱雀天皇(ごすざくてんのう)となります。
紫式部は、藤原彰子の家庭教師でしたから、敦良親王や藤原頼道のマラリアの病気のことも身近に感じることができたのではないでしょうか。
「若紫」の帖で、源氏が、マラリアにかかり、北山のお寺へ行き、祈祷による治療をしてもらうというのも、当時の貴族の人たちの治療法であったようです。蚊が媒介する病気ですが、高熱を発します。現在では、日本では撲滅した病気ですが、東南アジアやアフリカ、中南米に旅行される方は、蚊にさされないように注意が必要です。
北山のなにがしという寺は、どこのお寺?
源氏物語では、源氏が治療のために訪ねた北山のお寺は、なにがしの寺というだけで、具体的にお寺の名前が出てきません。
北山は、京都府京都市北区北西の丹波高地に連なる山間部のあたりです。大文字山(如意ケ嶽)では、毎年8月16日に五山送り火(ござんのおくりび)のひとつ「左大文字」が、灯されます。山に大きな「大」の字が、大きな松明で、闇夜に浮かび上がり、壮観な景色となります。
参考画像:大文字(如意ヶ岳) by 佐野宇久井 is licensed under CC BY-SA 3.0
源氏は、この「北山のなにがしかの寺」に、祈祷の上手な修験僧がいるという話を聞いて、修験僧を呼び寄せようとしました。ところが、修験僧から年を取って体が動かないという断りの返事があり、それなら、お忍びで、お寺の方へ出向くことにしました。
当時の読者としては、霊験あらたかな修験僧がいる寺がどこなのか、知りたいと思うのではないでしょうか。
平安時代は、医学が進んでいませんので、源氏物語で、具体的な寺の名前が示されたら、誰もがその寺に集中して行くかもしれません。もしかすると患者があふれて、お寺から迷惑だと言われてしまうでしょう。
源氏物語は、あくまでもフィクションですので、具体的なお寺の名前を書いては迷惑がかかるといけないので、お寺の名前は出さなかったのかなと、勝手な私の思い込みかもしれません。
ところが、紫式部に縁のある寺が、北山にありました。それが、北山の大雲寺という古いお寺です。紫式部の曾祖父の中納言日野文範が、971年に比叡山延暦寺で法会があった時に五色の霊雲が立ち上るのを見て、山を下り、岩倉に到ったところ、そこで岩倉神社を見つけました。しかもそこが観音浄土の地と知り、お寺を建立するのに良い場所だということを発見しました。
紫式部とのゆかりの深いお寺ですので、「なにがしかの寺」というのは、大雲寺であるかもしれません。大雲寺建立と同時に鎮守社として、境内に石座神社を移して祀っています。
980年には、円融天皇の勅願所となりました。勅願所とは、天皇の勅命によって、国家のために安泰を願う寺社のことです。
加持祈祷とはどんな治療法?
加持祈祷とは、密教において、仏の力を借りて病気や厄払いをする方法です。「加持」は、手印や真言などを使い、病気などを払います。「祈祷」は、呪文を唱えて神仏に祈ることです。
真言宗の檀家の方々は、ご住職が経文を唱える際に、両手で花のような形や、その他様々な形を作るのを見たことがあると思います。ご住職の呪文と印契を見ると、何か不思議な力が、発せられているような感じがします。
その他にも、鈷(仏具の一種)を用いて、護摩をたき、真言を唱えて、仏の力を借ります。祈祷の種類は、息災、増益、敬愛、調伏の4つがあります。これにより、除災招福などの現世利益を求めました。
護摩の様子は、時代劇などで、ご覧になった方もいらっしゃると思います。山伏のような恰好をした修験者が、護摩を焚いて、燃え上がる炎を前にして熱心に、呪文を唱えるシーンがでてきます。
その時、どの時代劇でも、呪文が、同じものを使っているというのも可笑しなもので、修験者が、俳優さんなんだろうということが分かります。どんな呪文なのかと言うと、不動明王のご真言です。
参考画像:日本の修験道僧侶・立石光正による護摩 by 唐山健志郎 is licensed under CC BY-SA 3.0
「のうまく、さんまんだ、ばざらだ、せんだ、まかろしゃだ、そわたや、うんたらた、かんまん」
確かに、呪文自体は、本物のご真言なので、迫力満点です。不動明王ですので、演技であっても、ご利益があります。もし、何か困ったことが起きて、その災いを除きたいと思った時など、ご自分で、この呪文を唱えても効果があります。
北山の修験僧が唱えた陀羅尼とは
源氏物語では、北山の修験僧は、「陀羅尼」を唱えていると書かれています。陀羅尼は、サンスクリット語で、「ダーラニー」と言います。呪文の一種ですが、長い文言になります。文言は、サンスクリット語を音訳しているので、漢字を見ても意味は分かりません。なぜ音訳になっているかというと、陀羅尼を繰り返し唱えることで、雑念を払い、無念無想の境地になるためのものだからです。
私は、熱心な仏教徒ではありませんが、私が聞いた陀羅尼の中で、もっとも好きなものは、「大悲心陀羅尼」(だいひしんだらに)です。この陀羅尼は、現在では、禅宗のお寺で唱えられています。曹洞宗の檀信徒の方々ならば、親しみ深い陀羅尼でしょう。
「なむからたんのー、とらやーやー、なむおりやー、ぼりょきーちー」
という呪文のような経文を聞いたことがある方もいるかもしれません。長い呪文なので、最初の部分だけで、後は省略させて頂きますが、聞いているうちに眠くなる効果があります。
陀羅尼の種類は、たくさんありますので、北山の修験僧が唱えた陀羅尼が何であったかは分かりません。しかし、紫式部が、陀羅尼を知っていたからこそ、書けたものであると思います。彼女の仏教の知識にも深いものがあると驚きます。
北山の大雲寺の十一面観音とは
北山の大雲寺のご本尊は、「十一面観音」となっています。仏像は、「行基」の作です。十一面観音は、観音様でありながら、お地蔵様の要素も兼ねており、一心に拝めば、煩悩をなくし、知恵を授かるとされています。
参考画像:平安時代の図像集『別尊雑記』 (心覚・撰) より十一面観音。
ご利益の主なものは、特に首から上の病気で、脳病平癒のご利益が有名ですが、その他にも、あらゆる病気からの治癒作用、金銀財宝に困らない財運、いろいろな魔物を退治してくれる作用、一切の災害や外敵から守る作用、水害から守ること、火災から守ること、不慮の事故から守ることなどの他に、臨終の際に如来が迎えてくれること、地獄や餓鬼に生まれ変わらないこと、早死にしないこと、極楽浄土に生まれ変わることなど、願ったり、かなったりの有難い仏様です。
平安時代中期には、現代のようにワクチンなどはありませんので、皇室から庶民にいたるまで、病気や災害など、全ての問題を加持祈祷などの方法に頼るしかありませんでした。
「光る君へ」の主人公のひとりである藤原道長にまつわる話として、次のような話が残っています。
1025年(万寿2年)、藤原道長の6女の藤原嬉子(ふじわらのよしこ)が重体になりました。1021年(寛仁3年)に皇太弟の敦良親王(後朱雀天皇)に入内しました。1025年(万寿2年)8月3日、皇子(後冷泉天皇)を産みましたが、2日後に薨去しました。
この時、陰陽師が道長に神気(荘厳な力)が見えると告げ、僧侶も加持祈祷を辞退したといった事件がありました。しかし、道長は、藤原顕光(ふじわらのあきみつ)の怨霊を恐れて、強引に加持祈祷を行わせました。その結果、嬉子は死亡してしまいました。
藤原顕光は、藤原兼通の長男です。兼通が関白になると、顕光は親の七光りで昇進し、公卿になりましたが、兼光が亡くなった後は、兼光の弟の兼家や道長に実権を奪われてしまいました。無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返し世間の嘲笑を買いました。晩年は、左大臣になりましたが、失意のうちに亡くなったと言われています。死後、道長を恨んで祟りをなしたと言われており、怖いもの知らずの道長も恐れたと言われています。
病気や災害防備のための重要な職業
平安時代は、このように怨霊や災いの種が多く、陰陽師や修験僧が活躍しました。有名な陰陽師に、安倍晴明(あべのせいめい)の名前をお聞きになったことがあると思います。彼は、921年(延喜21年)の生まれで、1005年(寛弘2年)に亡くなっています。
参考画像:Abe Seimei
花山天皇の信頼を受け、しばしば陰陽道の儀式を行った記録があります。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を得て、大いに活躍し、正五位に叙されました。その後も出世し、従四位に昇進し、加茂氏と並ぶ陰陽道の家を確立しました。
美しい少女との出会いから連れ去り強行に至るまで
源氏も北山にマラリア治療に行くことにしました。治療と言っても、修験僧の祈祷による治療です。3月30日という時期ですので、まだ寒さの残る季節です。京の桜は散ってしまいましたが、山あいに咲く花は、まだ盛りで美しく、霞がかかると、幻想的な雰囲気となります。
源氏は、山の風景を楽しみながら、修験僧を訪ねていきました。寺に着くと、修験僧は喜んで、源氏を迎えました。話を聞けば、そうとうに偉い聖人だということが分かりました。彼は、源氏を模した人形を作り、病気をその人形に移すという祈祷を行いました。
それが済むと、源氏はあたりを散策しました。すると、他の僧坊と同じ造りではありますが、綺麗な建物を見つけました。
源氏は、従者の人に、「あれはだれの住んでいる所だろうか」と尋ねました。すると、あの偉い僧都の家のようです。どうやら女性が住んでいるようですが、何者かは分からないようです。その家をのぞくと、尼君がひとり座っているのが見えました。年齢は40歳ぐらいです。その他にも、美しい女房達がいて、小さな女の子が数人遊んでいました。その中にひときわ目立つ美しい女の子がいました。
その女の子に、源氏は目を奪われました。なんと可愛らしい女の子なのだろうと思ったのでした。この女の子の世話をしているのが、少納言の乳母(めのと)と呼ばれている女性でした。源氏は、たまたま熱病の治療に、北山に来たのですが、思わぬ収穫があって喜びました。
源氏は、なぜこの少女に惹かれるのだろうと考えてみました。その少女の面影は、藤壺に似ていることに気が付きました。
運命の出会いなのか、少女は藤壺の姪でした
源氏は、少女が誰なのか興味を持ち、夜になり、僧都の館に泊ることになったので、僧都に源氏は、少女のことを尋ねました。僧都の話によれば、尼君の夫が、按察使(あぜち)大納言で、既に亡くなってしまいました。
按察使という役職は、地方行政を監督する役職名ですが、中央官僚としては、大納言や中納言などの兼任する役職名です。令外官(りょうげかん)となっていますので、律令制度の中での決まった役職ではありませんが、新設のための仕事を任されたようです。
尼君になったのは、夫がなくなってからです。そして、僧都の姉にあたる女性だと言いました。尼君と大納言の間には、娘が生まれました。その娘に、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮が、通うようになりましたが、本妻がうるさい女性で、娘は、娘を産んだ後、心の病を得て亡くなってしまいました。
兵部卿の宮は、藤壺の兄にあたる人です。人間関係が複雑ですが、要するに、紫式部は、少女が藤壺と縁がある人物であることを言いたかったのだと思います。
源氏は、ますます藤壺との縁を考えました。美しい女の子は、藤壺の宮の兄君の子であることがわかりました。偶然と言うか、運命のイタズラなのでしょうか。女の子が、藤壺に似ている美しい理由が分かりました。
藤壺にそっくりな少女を引き取りたいという交渉
源氏は、この美しい女の子を引き取りたいと思いました。そして、尼君に小さい孫娘を源氏が引き取りたいという話をしますが、まったく取り合ってくれませんでした。源氏が藤壺を慕っていることや、彼女の姪にあたる小さな女の子を引き取りたいという背景を知らない尼君にとって、源氏が突然、山寺に来て、そのような話をすることが、まったく理解できないというのは、当然の事であったと言えるでしょう。
しかし、源氏は断られても諦めることはしませんでした。押し問答は避けて、尼君の部屋を退出しました。その夜は、源氏が病気から回復したのを祝い、僧都が用意した祝宴が模様されました。翌朝、都に戻ろうとすると、頭中将が迎えに来ていました。
都に戻り、帝に挨拶に行くと、帝が大変心配して、どんな僧都に会い、祈祷をしてもらったのか、いろいろと詳しく聞かれたりもしました。左大臣も御所に来合せており、帰りは左大臣の屋敷に連れていかれました。その屋敷には、葵の上という源氏の正妻もいます。源氏は、葵の上とは仲良くしていないので、本当は左大臣の家には行きたくありませんでした。
源氏は、この時、葵の上に言わなくても良いことを言ってしまいました。顔を見れば、つい本音を言ってしまう源氏は、ストレートに不満を正妻の葵の上に言いました。この時の、源氏の言葉が、とても悲しくも辛そうなセリフでしたので、ご紹介いたします。
「時々は、普通の夫婦らしくしてください。ずいぶん病気で苦しんだのですから、どうだったかというぐらいは問うてくだすってもいいのに、あなたは問わない。今はじめてのことではないが私としては恨めしいことですよ」
(源氏物語、若紫、与謝野晶子訳から)
源氏の言葉を聞くと、かなり女々しく言うタイプの男性なのかと思えます。久しぶりに会うのに、源氏の方から、「しばらくだね、元気にしていたのか?」と、源氏が葵の上に聞くのなら、男らしいのですが、文句を言う方が、先になっているので、葵の上も答えようがない、黙っているしかないと思ってしまったのではないでしょうか。
気の強い女性なら、「何を言っているのよ!」と、言い返したかもしれませんが、葵の上は、謝るということもなく、「問われないのが、そんなに恨めしいものでしょうか」と返事をしました。
葵の上は、余程、大事に育てられ、おっとりとした性格のようで、源氏をいたわる気持ちは、普通にあるとは思いますが、世話焼き女房ではありません。
「ちっとも来ないから、私の事、忘れちゃったのかな~?」などという冗談が言える女性でもありませんでした。
夫が来なくても、取り乱すことなく、耐えて待つ、悲しみをこらえるというのが、平安時代の上品な女性であるのでしょう。我儘に育った源氏は、妻の事を心配するとか、いたわるとか、配慮するなどの気づかいをするタイプではなさそうです。こういう夫婦を「すれ違いの夫婦」というのでしょうか、
もともと、葵の上は、将来、皇后になるという目的があったようです。それなりに誇り高い女性と言えるでしょう。帝と左大臣による話し合いで、源氏との婚姻が決まったようです。葵の上としても、不満が残ったかもしれません。源氏との結婚は、一種の政略結婚のようなものでしたので、上手くいかないのが当然かもしれません。
源氏は、葵の上となんとか話を合わせようと、葵の上のご機嫌を取ろうとしている努力を話しますが、どうにも、源氏の気持ちが伝わらないので、最後に「まあ、いい、長い命さえあれば、分かってもらえるでしょう」と言って、ふてくされて、寝室に入っていきました。
その後も、葵の上は、源氏のいる部屋に入ろうともしません。源氏は、葵の上を抱き上げて、寝室に連れてくる気にもなれませんでした。
源氏は、独りで寝ながら、山寺の小さな美しい少女のことを思いながら、未来はどのように暮らせるだろうと想像していました。
藤壺が宮中から実家に戻ったというニュース
源氏の耳に、良いニュースが伝わってきました。藤壺の宮が、病気のため宮中から実家に戻ったというのです。源氏は、帝が藤壺のことを心配しているだろうと思いながら、自分は勝手に、藤壺に会える機会があるのではないかとワクワクしたのです。彼は、藤壺の侍女に「いつ会えるようになるのか」とせがみました。
侍女の手引きで、藤壺の宮には会うことはできましたが、気持ちが焦っていたせいか、どのように藤壺と過ごしたのか実感が持てませんでした。
藤壺の宮も過去の間違いを忘れたいと思っているのに、また間違いを犯すことに、なんて私はダメな女なのだという罪悪感から逃れられませんでした。源氏は、藤壺に会った後も二条院にこもり泣き暮らしていました。
しかし、なんと藤壺は、妊娠までしてしまいました。帝もいっそう藤壺の宮に愛情をよせて、具合はどうかとお使いの者を寄越す回数が増えていきました。真実は、藤壺は、源氏の子どもを妊娠したのですが、この秘密は、源氏と藤壺と侍女しか知りません。3人は固く秘密を守りました。
源氏は、ある夜に見た夢をどのように解したらよいか、占い師を呼んで夢解きをしました。占い師は、「お慎みにならなければならないことが、ひとつあります」と言いました。源氏の心には、藤壺の件がズキンと響きました。源氏は、占い師に、夢は自分が見たものではなく、友人の見た夢だと言って、ごまかしました。
夢解きを聞いた結果、源氏は、どんなことになるのだろうと心配でたまりませんでした。そこで、藤壺の侍女に、藤壺に会いたいと、せがんだのでした。しかし、侍女も、藤壺に良からぬ噂が立ってもいけないので、会わせようとはしませんでした。
宮中に藤壺が戻ってからも、帝はますます藤壺の体の事を心配し、音楽や舞などの催しを藤壺のために行いました。源氏も招かれましたが、気持ちは落ち着きませんでした。
北山の尼君が都に戻る
北山から、尼君が、病が良くなって都に戻っていました。源氏は、惟光に時々、様子を聞かせに行かせました。しかし、源氏は、直接行くことは、控えていました。
秋になり、心寂しく思える源氏は、尼君の家を訪ねてみました。惟光によると、尼君はだいぶ体が弱っているようでした。源氏が、見舞いに来たことで、尼君は恐縮して、座敷を用意してお迎えしました。
例の少女の問題について、やはり尼君は、無理ですと断るのですが、源氏はそれでもあきらめず、少女が自分のことを何と言うか聞きたいとせまりました。
丁度、そんな押し問答をしているときに、あの少女が現れました。少女は、尼君のために、「源氏の君が来ているよ」とわざわざ言いに来たのでした。源氏は、少女が悪く思っていないのを良かったと思い、見舞いの言葉を残して帰りました。
数日後、尼君の侍女の少納言から、病気の具合が悪くなったので、山の寺に連れて行くという連絡が来ました。
10月になって、源氏は山寺に手紙を出しました。例の僧都から、返事が来て、尼君が亡くなったということを知りました。少女はどうなったかと言えば、都の家に戻っているということが分かりました。
侍女の少納言が、少女の行く末が心配だと嘆きました。冷酷な継母がいるので、悲しい人生が待っているのではないかと涙を流して悲しみました。源氏と少納言が話しているところに、例の少女が現れました。源氏は、少女を呼び寄せて、「私の膝でおやすみなさい」と言いました。
その晩は、源氏も屋敷に泊ることにしました。源氏は、少女を抱き上げて、「私の家に来れば、面白い絵や、お雛様などの人形もありますよ」と言って、少女を誘いました。しかし、少女の父親がいる以上、勝手なことができないので、しばらくは、手紙を送り、様子をみることにしました。
少女を誘拐することを決心する
ある日、惟光が急いで源氏の所に、知らせを持ってきました。「明日、少女が、父親のところに引き取られる」ということでした。源氏は、少女を引き取る覚悟を決めました。惟光に、「明日夜明けに、あの屋敷に行こう」と言いました。そして、少女を連れ去ってこようと言うのです。
物語の次の展開のきっかけとして、紫式部は、惟光の情報という「巧みな方法」を使って、次の物語へと移っていきます。源氏は、物語の主人公ではありますが、チョコチョコと歩き回るわけにはいきません。高貴な身分でもあり、とりまきの中にいて、考えたり、行動したりしなければなりません。そのような制約を、惟光を使って、次の物語への展開を図るという手法は、誰から教えてもらったのか、紫式部の天才的な才能が感じられます。
惟光とともに明け方、少女のいる屋敷に行きました。源氏は、少女が父親のところに引き取られる前に話しておきたいことがあると、少納言に言いました。源氏は、屋敷に入り、少女の部屋に行き、「お迎えに来ましたよ」と言って、抱き上げました。泣き叫ぶ少女を抱いたまま、牛車に乗り込みました。少納言も仕方なく、いっしょに行くしかありませんでした。
二条院に引き取られた少女は、だんだんと源氏との生活に慣れていきました。源氏は、少女が喜びそうな話や、面白い絵とか、遊び道具を揃えたりました。源氏は、しばらくの間、御所へも行かず、少女がなつくまで、努力しました。少女も源氏に馴染んでいきました。源氏は、少女を可愛い顔をした「生きている人形」のように思い、毎日が楽しくなりました。
紫の上(若紫)は、結局どうなるのでしょう?
源氏は、少女の若紫を誘拐し、自邸の二条院に引き取り、周りの人々には内緒にしながら、理想の女性に育てていきます。
源氏の正妻である葵の上の没後に、源氏と夫婦関係になります。以後、正妻と同様に扱われます。その頃には、本当の父親の兵部卿宮にも、「我が娘は、源氏の君の妻になったのか」ということが分かり、喜びます。
紫の上には、子どもが生まれませんでした。そこで、源氏は、明石の君が産んだ女の子(のちの明石中宮)を紫の上の養女としました。
紫の上は、源氏の最愛の妻でしたが、明石の君には、時々嫉妬し、朝顔斎院と源氏の結婚の噂が立った時には、大変、動揺してしまいます。
その後は、六条院の春の町に移ってからは、源氏の正夫人として、「春の上」、「北の方」などと呼ばれ、幸せに暮らしました。
しかし、朱雀院の女三宮の降嫁が決まった時には、衝撃を受け、自分の立場の弱さに苦しみました。源氏は、紫の上の心配など全く気付かず、次第にすれ違いが多くなり、紫の上は、厄年の37歳になった時に、重い病気になってしまいました。
晩年は、出家を望みますが、源氏の許しが得られませんでした。その後、彼女は、孤独と苦悩の悲嘆の中で寂しくこの世を去りました。理想の女性として、育て上げ、自分の妻にしたのであれば、もう少し愛情をかけてあげても良かったのではないかと思います。源氏は、紫の上より10歳ぐらい年上ですので、50代になっていたかと思われますが、若い時と違い感受性が鈍くなってしまったのでしょうか。とても残念な気がします。
さて、今回はこれまでです。次回もお楽しみに!
▼多聞先生の前回の記事はこちら▼
源氏物語・帚木・空蝉の笑訳
▼多聞先生のインタビューはこちら▼
「多聞先生」ってどんな人?電話占い絆所属の占い師に直接インタビュー!
このコラム記事を書いたのは、「電話占い絆~kizuna~」占い鑑定士の多聞先生です。
多聞先生たもん
鑑定歴 | 20年以上 |
---|---|
得意な占術 | 霊感、霊視、前世占い、タロット占い、易占 |
実績 | 余命が1年と診断された女性を占ったことがあります。病名は癌ということで、彼女も諦めてはいるものの「どうして私がこのような運命なのか」という心残りの思いが消えない、悲しい思いで胸が張り裂けそうだというご相談を受けました。 抗ガン治療も続けておられましたが、診断をもらった以上、どんな効果があるのかご自分でも確信が持てず、憂鬱な毎日をすごされておられました。 タロット占いでのカードは、「ソードの9」というカードでした。現在は苦しみの日々ですが、居場所を変えれば良くなるというメッセージでもありますので、病院を変えてセカンド・オピニオンを聞いてみたらどうかとお勧めしました。 2か月後、お電話を再び頂き、新しい病院で、経過も良く希望が持てるようになったということでした。この時は、私ももらい泣きをしてしまいました。 |
得意な相談内容 | 恋愛、出会い、相性、浮気、結婚、不倫、離婚、復縁、三角関係、仕事、転職、適職、対人関係、運勢 |
多聞先生よりご挨拶
コラムを最後までご覧頂き有難うございます。
「源氏物語の若紫の帖の笑訳」は、如何でしたでしょうか。
今までの帖とは違い、恋の対象は、成人の女性ではなく、憧れの藤壺の上にそっくりな少女でした。源氏は、無理やり、少女を引き取り、自分の理想の女性に育てていきました。源氏の耽美的な生き方の一面を捉えた帖であるような気がします。
耽美派というと、美こそ最上の価値があるものとして、美を求め、美にふけり、美を追求する人たちのことを言いますが、源氏もそれに似ています。
日本文学の歴史上では、耽美派というと、谷崎潤一郎、永井荷風、三島由紀夫、夢野久作などの人たちがいます。
それぞれ違った作風を持った作家の人たちですが、美の価値観に、ある種の共通なモチーフがあるように感じます。どこか退廃的で、ロマンチックで、美しい主人公と、どこか異常な世界の話であるような夢のような物語に、悲劇であっても、その美しさに酔ってしまうような感じさえします。
人生は紆余曲折、順風満帆とはいかないのが、悩みの種ではないでしょうか。思ったようにいかない、なにかと苦難が付きまとい、なかなか幸せに至ることが少ない世の中ですが、そのような状況でも、少しでも未来に明るい希望を持っていただけるように絆は努めてまいります。
是非、絆にお電話をおかけ下さいませ。
多聞
お客様から頂いた口コミ
女性50代
先程はありがとうございました。彼の性格がとても当たっていたので、ずっと「そうなんです!」と頷きっぱなしでした(笑)
長期戦になりそうですが、今の距離を保ちつつ気長に頑張ります!